第六十九話目~帰国祝いのマグロカツ丼!~
「……さん。ディシディアさん……」
「ん……んぅ」
呼びかけてくる声を聞き、ディシディアは小さく呻いて目を開けた。すると、にこやかに微笑んだ良二とバッチリ目が合う。彼はすっかり調子も戻ったようで頬に赤みが戻っていた。
「……やぁ、おはよう。乗り物酔いは大丈夫かい?」
「えぇ。寝ていたらよくなりました。ディシディアさんも随分お疲れだったみたいですね」
「あぁ。それに飛行機の微妙な揺れが心地よくてね……と、そんなことより、機内食は?」
彼女はきょろきょろと辺りを見渡し、そこでハッと口元を抑えた。機内食を運ぶスチュワーデスはおろか、乗客すらいない。眼前にあるスクリーンも真っ暗で、寝る前とはまるで違う様相だ。
「も、もしや……もう到着したのかい?」
返されるのは確かな首肯。ディシディアはひくひくと頬を動かし、しゅんと肩を落とした。
「そんな……私としたことが……」
「ま、まぁ、ほら。帰りに何か食べましょうよ。ね?」
ディシディアはしばししょんぼりしていたが、それを聞いて微かに頷く。一応納得してくれたようで、ぐ~っと体を伸ばして大きく息を吐いた。
「確かにそうだね。あまりここに長居するのも悪い。早く行こうか」
彼女は良二の足を跨ぎ、通路に出る。そうしてひらりと踊り子のようにその場でターンしてから、ニパッと花の咲くような笑みを浮かべた。
――それからしばらくして手続きを終え、流れてくる荷物を取った後で二人は出口へと向かっていた。ディシディアはすでに何を食べるか悩んでいるようで小難しそうな顔をしている。
一方の良二は自動ドアを潜るなり、大きく息を吸い込んで満足げな笑みを浮かべた。
「やっぱり、日本の空気はいいですね」
「故郷の匂いというのは特別なものだからね。よくわかるよ。私も旅をした経験があるからね」
「あぁ、そういえばあっちでも旅をしていたんですよね。そっちも楽しそうですよね……」
「楽しかったよ。まぁ、色々と苦労はあったがね。盗賊と戦いになったり獰猛な野生生物たちと鉢合わせたり、あ、たまにはぐれの龍と戦闘になることもあったな……まぁ、返り討ちにしたが」
「す、すごい経験をしていますね……」
良二は心底驚いているようだったが、ディシディアは過去に思いを馳せつつ目を細める。
「思えば、私もあの時は若かったからね。色々無茶をしたものさ」
パッと見は子どものディシディアが言うとなぜかチグハグな感じがしてしまい、良二は口元を緩ませてしまう。ディシディアはそんな彼を見て少しだけ唇を尖らせた。
「何か変なことを言ったかな?」
「いやいや、続けてください。もっとディシディアさんのことを知りたいんです」
「そうかい? まぁ、言われてみれば確かに私の話はしていなかったな。が、それは家に帰ってからだ。ここで話すのは少しばかり気が引けるのでね」
空港には大勢人がいる。もちろん彼女の話を真に受けるものなどは少数派だろうが、それでもおおっぴらに話せる内容ではない。彼女はチラ、と辺りにいる人たちを見やってから地下鉄へと続く通路を進む。
「にしても、どういう風の吹き回しだい? 私の過去を知りたがるなんて」
「いや、だって俺たちは多分これからもずっと一緒にいるでしょう? なら、お互いのことを知っておいた方がいいかな……って」
それを聞いた彼女は一瞬だけ目を丸くしたが、ややあって優しい視線を彼に向けた。
「……そうだね。私たちはもう家族も同然だ。なら、私の思い出話に付き合ってもらうよ。あいにく、伊達に長生きしていないのでね。武勇伝などは腐るほどあるさ。まぁ、元大賢者の自慢話として話半分に聞いてくれればいいがね」
彼女は皮肉った様に肩を竦めながら言い放ち、改札を潜る。良二もその後を追って改札を潜り、電車に乗り込む。そうしてガタンゴトンと揺られながら、二人は最寄駅へと向かっていく。
その間、良二たちはスマホに納められたアメリカでの写真を眺めていく。スマホの容量がはち切れるのではないか、というほどの量だ。思わぬスナップショットなどもあったりして、二人はクスクスと小声で笑い合う。
「中々にいい旅行だったな。また行きたいよ」
「ですね。今度はどこに行きます?」
「アメリカ……と、言いたいところだが、すぐに行ってはカーラたちに笑われてしまうだろうし、別の場所――そうだな。まずは君の故郷である日本を探索しよう」
「了解です。付き合いますよ。存分に」
「ありがとう。だが、君はもうすぐ大学が始まるのだろう?」
「……できれば、思い出したくなかった現実です」
休み明けに学校がある、ということほど煩わしいものはない。彼はガックリと肩を落とし、深いため息をついた。
「こらこら。学生の本分は勉強だろう? 頑張りたまえ」
「わかってますけど……きついんですよね、学校。毎朝早起きして、帰ってくるのは遅いしレポートとかもありますから」
「じゃあ……辞めて私に養われるかい? それだけの財はあるが、どうする?」
「勉強します」
ただでさえ今はヒモ予備軍なのだ。ここで大学まで辞めてフリーターなどになってしまえばもはや立つ瀬がない。良二は即答し、ピンと背筋を伸ばした。
「そうそう。まぁ、休日くらいは息抜きに贅沢をしよう。根を詰めすぎてもいいことはないからね。ところで、君の大学は自宅から遠いのかい?」
「それなりですよ。特急電車に乗れば二十分くらいで着きます」
「ほほぅ……いつか、君の大学にも行ってみたいな。ウィスコンシン大学とどっちがいいんだい?」
「規模が違うから比較もできませんよ。まぁ、悪い大学ではないです。いい先生も多いですし、友人たちもいますから」
良二は少しだけ晴れやかになった表情で告げる。別に大学の人間関係がこじれているから行きたくない、というようなわけではなかったことにディシディアは内心ほっとしていた。
彼女はゴホンとわざとらしく咳払いをし、さらに続ける。
「で、次の休みまではどれくらいなんだい?」
「えっと……クリスマス前までは大学があるので、あと三か月はこうして旅行できないですね」
「そうか……まぁ、近場でも行けるところは腐るほどあるだろう。うん」
ディシディアは持ち前のプラス思考を発揮している。良二はそんな彼女を横目で眺めてから、ふと電光掲示板を見た。
「あ、もうすぐ着きますよ」
「何? やはり二人で話していると早いな。にしても、今はまだ十二時か……」
「時差ボケはきついですよね……よくわかりますよ」
飛行機内でたっぷりと睡眠を取っていたはずの二人だが、やはりまだ眠いらしい。それもそうだろう。アメリカと日本では時差が半日以上もあるのだから。二人はだるそうに立ち上がり、ドアの方へと向かった。
それから十分もして目的の駅に到着するなり、二人は扉を潜ってゆっくりと改札口へと向かっていった。大きめのキャリーバッグは行きよりも重くなっているのでその歩みは当然遅くなる。特にディシディアはキャリーバッグの操作が苦手のようで、ちょっとした段差にも足を取られていた。
「手伝いますよ」
良二は優しく声をかけ、ディシディアが持っていたキャリーバッグを持ってやり、コロコロと転がしながら改札を潜る。彼はそのままエレベーターのほうまで直進し、ボタンを押した。
「助かるよ。どうにも、これの扱いは苦手だ」
「確かに、ちょっと大変ですよね……」
良二はフォローを入れながらエレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
チーンッというチープな電子音と共に扉が閉まり、ゴウンゴウンという駆動音がエレベーター内に響き渡ったのも束の間、再び扉が開く。そこには広々とした光景が広がっていた。
「おぉ……やっと帰ってきた、という感じだな」
胸いっぱいに空気を吸い込みながらディシディアが言う。と、それに応えるようにして彼女の腹の虫がぐ~っといびきのような声を上げた。
考えてみれば、空港内で軽食を取ったのみであとはまともなものを食べていないのだ。ディシディアは思い出したようにポンと手を打ちあわせ、目を輝かせる。
「そうだ。この時間帯なら、珠江たちの店も開いているんじゃないかな?」
「あ、そうですね。帰ってきたら大将たちのご飯が食べたかったんですよ……行きますか?」
「無論。じゃあ、急ごうか」
幸い、ここから珠江たちの店まではそう遠くない。二人は小走りで歩いていき、交差点を右に曲がる。するとそこには珠江たちの店があり、ちょうど店先には珠江が立って清掃を行っているところだった。
「あら、二人とも! 久しぶりねぇ……どこかに旅行に行っていたの?」
「えぇ、ちょっとアメリカまで」
「まぁ、アメリカ!? 遠いところまで行ったのねぇ……今から帰り?」
「そうだ。けど、どうしてもこの店の料理が恋しくてね……開いてるかな?」
「もちろんよ! さぁさ、入って入って!」
珠江は二人の背を押すようにして中に入り、厨房に立っている夫へと目配せをする。彼はすぐにその意図を察したらしく、早速調理に入った。
店はそれなりに客たちで満ちており、カウンターしか空いていない。ディシディアたちは珠江にキャリーバッグを預けてから、近くの席へと腰かけた。
「はい、お疲れさん」
店主が差し出してくれたのは湯呑みに入った麦茶だ。良二はごくごくと喉を鳴らしながらそれを煽り、プハッと息を吐く。
「やっぱり、日本の味って感じがしますね。ようやく日本に返ってきた実感が沸いてきましたよ」
「ふふ、私もだ。この匂いも随分と懐かしい」
ディシディアは鼻をひくひくさせながらそんなことを呟く。炭火で炙られる肉の匂いと醤油の焦げる匂い。嗅いでいるだけでよだれが溢れ出てくるほどだ。
「先にお通しでもどうぞ」
そう言って差し出されてきたのは――キュウリとニンジンの酢の物だ。
「酢の物か。私の好物だ……いただきます」
ディシディアはそっと手を合わせ、キュウリを口に放り込んだ。すると甘酸っぱい味わいが口いっぱいに広がり、眠っていた体を起こしてくれる。
キュウリもニンジンもコリコリカリカリと歯ごたえがよく、食前にはもってこいの品だ。優しく繊細な味わいに、自然と二人の体の力が抜ける。
「ふぅ……落ち着くな」
ディシディアはぱくぱくと酢の物を食べている。夏の暑さに疲れた人々を気遣ってか、酢の物は冷やされており、胃にも舌にも優しい。これは嬉しい配慮だ。
特に乗り物酔いと二日酔いに悩まされていた良二には効果てきめんだったらしく、彼は食欲を復活させたようでガツガツと酢の物を頬張っていた。
「はい、次はこれなんかもどうぞ」
珠江が差し出してきたのはこんにゃくだ。棒状になっており、味が染みやすいように切れ目が入れてある。ディシディアは顎に手を置いて興味深そうにそれを見やっていた。
「初めて見る品だ。どれ……」
そう言って口に含むと、歯が弾き返されるのではないかと思うほど強い弾力が返ってきた。しかも噛むほどに深みが増していく。
よく味が染みた甘辛いこんにゃくはしっかりとした味わいなのに驚くほどするすると喉を通っていく。が、良二は少しだけもったいなさそうにこんにゃくを箸で持ち上げた。
「どうせなら、これとビールが飲みたいですね」
「全く……それで痛い目を見たのを忘れたのかい? 酔っても介抱してあげないよ?」
「タハハ……すいません。大人しく麦茶で我慢します」
良二は苦笑しながらこんにゃくを麦茶で流し込む。もちろん十分に美味いのだが、味付けがどうしても酒の肴的なものだったため、ビールが欲しくなってしまう。
良二がほんのわずかな口寂しさを覚えていると、ふとやってきた珠江がクスリと笑った。
「なんだか、二人とも旅行の間に仲良くなったみたいね」
「? いや、私とリョージは元々仲が良かっただろう?」
「もちろんそれはその通りなんだけど……距離が縮まったみたいに見えたの。間違ってたら、ごめんなさい。まぁ、それは置いといて、お待ちかねのメインとお味噌汁よ」
「おぉ!」
渡された品を見て、ディシディアは思わず声を張り上げた。
「これは……カツ丼じゃないかッ!」
そう。そこにあったのは彼女の好物の丼物。黄色い卵でとじられたカツ丼だった。割り下の濃厚な匂いに混じって三つ葉の清涼感のある匂いが漂ってくる。いつもながら見事な料理だった。
が、店主は意味深な笑みを浮かべながらチッチッチッと指を横に振った。
「いやいや、ただのカツ丼じゃねえぜ? ま、食べてみな」
自信に満ちた言葉だ。それだけこの料理の完成度が高いということだろう。
ディシディアはごくりと息を呑み、箸を構えて丼に突き刺した。閉じられた卵の下から純白の米が顔を出す瞬間はいつ見ても素晴らしいものだ。
彼女はそれからサクサクのカツに箸を入れ、切れ目に沿って割る。そうしてカッと目を見開いた。
「これは……豚ではなく、魚……?」
「ご名答。今回はマグロを使ったマグロカツ丼だ。どうぞ、ご賞味あれ」
「もちろん。では、ありがたく頂戴しよう」
ディシディアは箸を器用に使って米と一緒にカツを持ち上げ、口に入れた。その瞬間、美味さの奔流が口の中を駆け巡る。
「おぉお……これは見事な味わいだ」
カツはサクサクの部分と割り下が染みてしっとりとした部分に分かれており、どちらも違った良さがある。衣の歯ごたえを味わえ、かつ割り下とのハーモニーも感じることができた。
マグロを使うというのはただ奇をてらったわけではなく、豚に負けないくらいの旨みを持っているからだ。揚げても風味が逃げるどころかますます強くなっている上に身はシャッキリと締まっている。米との相性も言わずもがなだ。
「美味い……腕を上げたな」
「ハッハッハッ! いや、試食会をした後に色々考えてな。ほら、魚なら肉よりはあっさりしているだろ? で、玉ねぎを入れているから脂っぽさを軽減してる」
「確かに。しかもこの玉ねぎにも味が染みていてこれだけでも美味い」
ディシディアは玉ねぎを見つめてうっとりと目を細めていた。一方の良二はと言うと、カツの下から新たに顔を出してきた食材に目を剥く。
「刻み海苔も入れてるんですね」
「あぁ。中々イケるだろ?」
刻み海苔が入っているのとそうでないのはかなり違う。磯の風味がふんわりと口の中で広がり、食欲をそそるのだ。他の食材の邪魔をすることなく、陰で支えている。縁の下の力持ちならぬ、カツの下の力持ちだ。
卵は固めの部分もあれば、トロトロの半熟部分も備えている。それがカツやご飯に絡むことで味に奥行きが生まれるのだ。
また、アクセントで言えば三つ葉を外すことはできないだろう。三つ葉のスゥッとした胸のすくような風味のおかげで口の中がサッパリしてまた新たな気持ちで臨むことができる。
あの試食会は決して無駄ではなかった――そう思わせるだけの完成度だった。
ボリューム感もあり、かつ重くない。これならば昼のメニューにも夜のメニューにも入れることができるだろう。
マグロを使っている目新しさもある。ディシディアは口の中のものを嚥下するなり、グッと親指を突き立てた。
「素晴らしい品だった。ご馳走様……また新作を期待しているよ」
「ハハッ! ありがとよ。っと、そうだ。あまりものだが、食うか?」
彼はごそごそと冷蔵庫を漁り、小鉢を取り出す。そこにはマグロのたたきが乗せられていた。
「調理の時に切ったマグロから作ったんだ。食べてみてくれ。サービスだ」
「ありがとう。なんだか、申し訳ないな」
「いいのよ。二人が無事に帰ってきてくれたお祝いよ。さぁ、遠慮しないで食べて食べて」
店主と珠江に勧められ、ディシディアはマグロのたたきに醤油をかける。元々の量が少ないので、そこまでかける必要はない。せいぜい、数滴程度だ。
「さて、いただきます」
彼女はちょいとたたきをつまみ、口に放り込む。
やや粗めに叩かれたマグロは身の食感を残しており、しっかりとした味わいがある。醤油を少しだけかけたのは正解だ。多すぎればこの味わいを台無しにしていたことだろう。だが、少しだけかけたおかげで深みが生まれており、味の次元がグンと引き上げられている。
ネギのシャキシャキ感もまたいいアクセントになっている。食後の締めには最適の品だ。
あっさりとしつつもマグロの力強い旨みが秘められている。ますます磨きがかかった技にディシディアは舌を巻いていた。
良二は口の中を麦茶で洗い流してから、店主と珠江を交互に見渡す。
「ちなみに、これを作ったのは?」
手を上げたのは珠江だ。店主は豪快に笑いながら、
「俺にこんな繊細な真似はできねえや! こういう小鉢は珠江の専売特許だぜ!」
とは言うが、店主の腕もかなりのものだ。このマグロカツ丼も豪快に見えてかなり考えられた品である。
ただ、どうしても細かい作業は珠江の方が得意らしい。言われてみれば、これまで出てきた小鉢などは全て珠江が作っていた。
「ふぅむ……二人とも、すごいな。私たちが旅行に行っていたのは数週間程度なのに……」
「まさしく男子三日合わざればって奴ですよね。まぁ、珠江さんは男子じゃないですけど」
その言葉に珠江と店主が笑う。ディシディアと良二は腹と胸に大きな充足感を感じながら、そんな二人を微笑ましそうに眺めていた。
ジンガイズキさん(@jingaizukisongo)さんがディシディアさんを描いてくださいました!
六十九話までのピックアップと立ち絵です。本来はモン娘絵を描いていらっしゃる方ですので、もし興味を持った方は是非よろしくお願いいたします!