第六十二話目~バナナスポンジケーキと問いかけと……~
キャンプ場を出発してから数時間。すでにディシディアたちはカーラたちの家へと到着していた。ただ、もう時間は限られているというのにゴロゴロしているのはあまり得策ではない。というわけで、ディシディアたちは荷物をまとめて近くの湖にやってきた。カーラたちの家を下りていくといつも見える湖である。彼女たちはそこの一角、ボートが停められた場所までやってきていた。
眼前に広がる光景を見て、ディシディアと良二は目を丸くする。湖は広々としていて、水はとても澄んでいた。桟橋の上から覗き込んでみれば、小魚と小エビたちが泳いでいるのが見える。
ディシディアはそっと水中に手を入れ、そこにある綺麗な貝殻を手に取った。それは虹色をしていて、日の光を浴びてキラキラと輝いている。
「ふふ、これはいいものだね。加工すればアクセサリーなどになりそうだ」
「そうですね。でも、俺にはこれがありますから」
良二は耳にはめられた太陽の形をしたイヤリングをピンと弾いてみせる。それに呼応するようにディシディアも濡れていない方の手で三日月形のイヤリングに触れ、静かに目を伏せた。
「あぁ、そうだね。私たちにはこれがあった。それにしても、いい所だ。のどかで、過ごしやすい」
彼女はゆっくりと桟橋に腰掛け、だらんと身体を弛緩させてパタパタと足を上下させた。良二もその横に腰掛けつつ、左の方にある小型クルーザーを見やる。鎖でつながれたそれはゆらゆらと波に揺られつつ、悠然と佇んでいる。
ディシディアもそれには興味があるのか、チラチラとそちらを見ている。それに気づいたらしきケントはクルーザーに乗り込みつつ、ひょいと手を招いた。
「乗りなよ! ちょっと湖を案内するよ!」
「その言葉を待っていたよ。ありがとう」
ディシディアはサッと船に乗り込み、備え付けの座席に座る。一方のケントは運転席に腰掛け、どこからか取り出したサングラスを装着。そうして、口の端を怪しく吊り上げながらディシディアたちにもサングラスを寄越してきた。
「ほら、感じ出るから着けてみなよ」
「確かに、映画でもよく着けているね。じゃあ、早速……」
そう言ってディシディアはややほっそりとした形のサングラスをかける。が、それを見て良二とケントは同時にぷっと噴き出した。
元々彼女はサングラスが似合うタイプではない。眼鏡ならいざ知らず、どこぞのスパイが使っていそうなモデルのサングラスは彼女の印象とはまるで違う。そのアンバランスさに二人が笑っていると、ディシディアは少しだけ怒ったようにぷいっとそっぽを向いた。
「あ、アハハ……ちょっと意地悪し過ぎたかもしれませんね」
「……かもね。お~い、ディシディアちゃん。ごめんよ?」
しかし、返事はない。ディシディアは外したサングラスをただ無言で弄んでいるだけだ。
「お待たせ……って、どうしたの?」
遅れてやってきたカーラがキョトンと首を傾げる。困り顔の良二とケントに背を向けるようにしてディシディアはむくれており、何かあったことがあったのはなんとなく察することができた。
「全く……ディシディアちゃん。男たちは放っておきましょう。ね?」
「……あぁ。そうだね」
彼女はジト目で良二たちを睨んだ後、カーラが持ってきてくれていたコーラをがぶ飲みする。その勢いだけ見ればヤケ酒しているようにすら思えた。
「まぁ、とりあえず行こうか」
こうしている間もこくこくと時間は流れていく。ケントは鍵をギュインと回し、エンジンをかける。
ぼぼぼ……と少しだけ間の抜けた音とともに緩やかな挙動で船は進んでいく。それにつれて波紋が広がり、水草の中に隠れていた魚たちは一目散に逃げていく。ディシディアは船の桟から身を乗り出しつつ水の中を見やっており、彼女が落ちないようにカーラはその襟首をがっしりと掴まえていた。
「綺麗な湖だな……泳いだらさぞ気持ちがいいだろう」
「そうね。でも、これからお昼だからダメよ?」
言いつつ、カーラは持ってきていたらしきランチボックスを取り出す。彼女はもったいぶった様子で中を開け、それをディシディアに見せた。
と同時、ふわりと甘い香りがディシディアの鼻に届く。まろやかで、心地よくなるような匂いだ。この香りの正体には覚えがある。
「ばな、な……?」
「そう。バナナのスポンジケーキ。美味しいわよ。食べてみて」
ディシディアはランチボックスの中のスポンジケーキを見てごくりと生唾を飲みこむ。ほんのりと黄色い生地からはバナナの甘い香りが漂い、手に持ってみるとふわふわとしていてまるで雲のようだった。
「いただきます」
口に含めばバナナの濃厚かつコクのある風味が口の中に広がる。その上、ふんわりとしたスポンジケーキの感触が舌にも心地よく、噛み締める度に多幸感が押し寄せてきた。
スポンジケーキはまだほんのりと温かい。到着してからすぐ作ったから、当然と言えば当然だろう。どんな料理でも出来立ては格別であるが、これに関しては味のランクが数段上がっている。
人体で最も敏感な部分は口だ。食感はつまり、人間の本能に訴えかけてくるものである。ほわほわとしつつも確かな反発感のある生地はそれを満たすだけの魅力に満ちていた。
その上雑味が一切なく、もはやこれは職人技の域だ。カーラはかなりお菓子作りが得意らしい。何日も行動を共にしてきたが、初めて見る一面にディシディアは驚いているようだった。
「あ、確かに美味しいですね!」
「だろう!? カーラの料理は最高さ!」
良二もケントもスポンジケーキに舌鼓を打っている。実際、それだけの質があった。もはや売り物として売られていても違和感がないほどなのだ。
優しい甘さのスポンジケーキを食べながらクルージングを楽しむ。こういうのも中々に乙なものだ。ディシディアは紅茶を啜りながら、ほぅっと息を吐く。胸がすくような紅茶の風味はスポンジケーキの後だとより鮮明に感じられた。
「……さて、ここら辺でいいかな」
ふと、クルーザーが湖の中央で停まった。何かあるのかと思ったが、ケントはカーラの隣に腰掛けてディシディアの方を見つめるだけ。カーラも同様に、ディシディアと良二にただただ穏やかな視線を向けているだけだった。
「えっと、どうしたんですか?」
何やら只ならぬ気配を感じ、良二は椅子に腰かけた。彼は不安げにディシディアを見やり、唇を固く結ぶ。が、ディシディアはそんな彼を落ち着かせるようにそっとその手の上に自分の手を重ね、カーラたちに向きなおった。
「ドライブをしている時、何か言いたげにしていたがそれに関することかな?」
「えぇ、そうよ。私たち、ずっと気になっていたことがあるの……ディシディアちゃん。あなた、もしかして私たちに何か隠し事をしていないかしら?」
彼女の言葉は静かながら、確かな迫力を秘めていた。普段はへらへらとしているはずのケントも、今ばかりはキリッと顔を引き締めている。それだけ、二人が真相を知りたがっているということだ。
(どうすれば……)
心当たりはある。だが、それを言っていいのかどうかわからない。良二は助けを求めるようにディシディアの方を見て、ハッと息を呑んだ。
「大丈夫。私から説明するよ」
彼女はとても落ち着いた口調で答え、スッと背筋を伸ばす。そうして何度か深呼吸をして呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開いた。
「……そうだ。私は二人にずっと隠し事をしていた。私は別にリョージの親戚などではないし、実を言うとこの世界の住人ではない。この耳を見れば、勘付かれていたかもしれないがね。それに……私は君たちよりもずっと年上だ。もうすでに二百年近く生きている。今まで黙っていて……本当にすまなかった」
ディシディアは深々と頭を下げる。その時見えた横顔が少しだけ辛そうに見えて、良二は胸を締め付けられるようだった。
しばしその場に静寂が訪れる。どこから聞こえてくる鳥たちのさえずりだけが、彼らの間をすり抜けていった。