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第六話目~カニ爪の揚げ物と湯杯小龍包

 店で休息をとること数十分。すっかり回復したディシディアは店主に頭を下げていた。


「どうもありがとう。だいぶよくなったよ」


「どういたしまして。今日は日差しがきついから熱中症には気をつけるようにね。それじゃあ、行ってらっしゃい」


「お世話になりました。ありがとうございます」


「本当にありがとう。この恩は絶対に忘れないよ」


 二人は店主に頭を下げ、その場を後にしていく。ディシディアは元の調子に戻っているようで、軽くスキップしている。良二はハラハラしながらその様子を眺めていたが、すぐに口元を緩めた。

 もう大丈夫そうである。なら、考えすぎるべきではない。

 そう思った彼はトントン、とディシディアの肩を叩き、右側にある店を指さした。そこからは何かを揚げているような香ばしい匂いが漂ってくる。店頭にはいくつかの食品が並べられている。どうやら、食べるだけでなくお土産も買えるようだ。店先に飾られたポップに載っている美味しそうな料理の写真を見てディシディアはしっかりと頷いた。


「おぉ、美味しそうだね。行ってみようか」


 ディシディアたちは近くまで歩み寄り、ショーウインドウに貼られているお品書きを見やる。元々横浜には外国人観光客も来るからだろう。キチンと写真が載せられていて、日本語がまだ不十分なディシディアにもわかりやすい造りになっている。

 豚まんや焼売などといった点心の類だけじゃなく、タピオカミルクや台湾風かき氷といったスイーツも売られている。しかもこれまでの例に漏れず、かなり安い。ディシディアはじっくりとそれらを眺めていたが、やがてある一点を指さした。


「リョージ。これは何だい?」


「えっと、これは……『カニ爪の揚げ物』って書いてありますね」


「カニ……確か、甲殻類の一種、だったよね?」


「そうそう。その通りです。結構美味しいですよ」


「うん。じゃあ、それを頂こうか。二つ頼むよ」


「かしこまりました。合わせて六百円です。少々お時間いただきますが、よろしいですか?」


 ディシディアはひょいと良二を見上げる。彼はそれに温かい笑みを返してくれた。


「構わないよ。それで頼む」


「はい、かしこまりました。では、しばらくお待ちください」


 良二が会計を済ませている間に、ディシディアはふと周囲に目を配った。先ほどまでは熱中症と空腹感に襲われていてろくにあたりを観察する暇がなかったが、よくよく見れば良二の家の周辺とはまるで様相が違う。

 羽を抜かれて皮と身だけになった鶏が吊るされていたり、中華風の布や置物などが店先に飾られている。


「リョージ。ここは少し変わっているね」


「えぇ。中華街なので、中国の文化色が強いんですよ」


「ふむ。中国か。この世界にもたくさんの国があるんだね。いつかすべてを回ってみたいものだ」


 そう告げる彼女の顔は、非常に活き活きしていた。それを見ていた良二も、つられて笑みをこぼしてしまう。

 と、そこでディシディアが何かを思い立ったようにポンと手を打ちあわせた。


「そうだ。いつか、二人で世界を巡ってみないかい? 君となら、退屈することはなさそうだ」


「それはいいですね! ただ……時間とお金がすごくかかってしまいますよ」


 ディシディアはむっと唇を尖らせ、小さく唸った。


「むぅ。確かにこの『日本』という国は島国だから、移動には不便だね。陸続きならまだやりようがあるのだけれど……いや、だからこそ独自の文化が根付いたというわけか」


「ディシディアさんって、たまに自分の世界に入りますよね?」


「はは、すまない。悪癖だとは自覚しているのだけどね、なかなか治らないんだよ。百年以上この調子だ。すまないが、慣れてくれ」


 申し訳なさそうに頬を掻く彼女に対し、良二は小さく首を横に振った。


「いや、ディシディアさんはそのままでいいと思いますよ。少なくとも、俺は今のディシディアさんが好きですし」


「ふふ、君は相変わらずお世辞がうまいね……それはさておき、もうできたようだよ」


 その言葉に応えるように、奥の方から紙皿を二つ持った男がやってくる。バンダナを巻いている彼はそっと紙皿を二人の方に差し出してくる。そこには、未だにじゅうじゅうと音を立てているカニの爪があった。

 良二がそれを受け取ると、その男性はピッと自分の後ろを指さした。


「あそこの台にソースなどがあるので、お好みでつけてください」


「はい。ありがとうございます」


 良二たちは彼に頭を下げ、台に歩み寄る。そこにはラー油やソース、酢醤油などの調味料があった。ディシディアはそれらを見渡して、困ったようにおさげの先を弄る。


「私には、何が何だかわからないな。とりあえず、まずは何もつけずにいただくとしよう」


 彼女はグイッと背伸びをして割り箸を取り、そっと両手を合わせた。


「では、いただきます」


 彼女は箸を構えそっとカニ爪を持ち上げると、ズシッという重さが箸を通して伝わってきた。口元に持っていくにつれ、期待感が高まっていく。

 ディシディアは小さな口を目いっぱい開けて、それにかぶりついた。

 歯を当てた瞬間、衣がザシュッという音を立てる。そこから徐々に力を入れて衣の層を抜けると、ぷりぷりとしたすり身の感触が伝わってきた。どうやら、カニ肉の周りにはエビのすり身をつけているらしい。カニ肉の旨みを吸収したすり身はジューシーで、噛めば噛むほど旨みが溢れ出てくる。

 無論、カニ肉自身も絶品だ。エビとカニ――甲殻類の代表たる二人のタッグが口内で暴れまわり、味覚を支配する。

 ディシディアは良二と顔を見合わせ、ニッと笑みを浮かべた。


「これは美味しいな」


「えぇ、とても美味しいですね。ソース、つけてみますか?」


 言いつつ、良二は自分の皿にソースを入れ、反対方向にはラー油を入れた。ディシディアは辛いものが苦手なのでそれを見て少しだけ顔をしかめたが、すぐにそれは良二用なのだと気が付いたようで胸を撫で下ろす。

 彼女はカニ爪に少しだけソースをつけまた口に放り込んだ。

 すると、今度はまた違った味わいが口内に広がる。衣とソース、そしてエビとカニの美味さが混然一体になる。元々下味が付いており、何もいらないようにすら思えたが、ソースが加わることで味にまとまりができる。ソースが優しく全体の味を包みこんでいるのだ。

 ディシディアは満足げに息を吐く。それと対照的に、良二は顔をしかめていた。


「どうかしたのかい?」


 その問いに、良二は苦笑を返した。


「いや、ラー油は合わないなって。やっぱり、相性ってあるんですね」


 言われて、彼女はラー油を見やる。赤く澄んだ液体はサラリとしていて、ソースとはまるで違う。それに、ラー油自体も酢醤油に入れるなどするものであり、それだけをつけるという場面は少ない。

 相性の大事さを噛み締めながら良二はカニ爪をソースにつけ、口に放り込む。すると先ほどまでのしかめっ面はどこへやら、彼の顔が綻んだ。

 あっという間にカニ爪を食べ終えた二人は紙皿などをゴミ箱に捨ててから、別の屋台に移る。そこには数人の人々が並んでおり、楽しげに談笑していた。チラリと横を見れば、お品書きが張られた看板がある。どうやら、このお店は小龍包を売っているようだ。

 しかし、普通のものとは少し違う。アルミホイル性のカップに入れられ、やや平たい形をしている。ちょうどカップにぴったりはまっているような形だ。それを見て、ディシディアはほぅっと感嘆のため息を漏らす。


「これも美味しそうだね。どんな食べ物なのかな?」


「小龍包って言う食べ物ですよ。中国では有名な料理で……まぁ、食べてもらった方が早いでしょう。ほら、もうすぐですよ」


 数秒もしないうちに前にいた人たちが会計を済ませ、横にずれる。そして二人はサッと前に歩み出て、メニューを指さした。


湯杯たんぺい小龍包二つ下さい」


「味はいかがなさいますか?」


 言われて、二人はメニューに目を移す。あるのは酸辣湯、カニみそ、そしてふかひれ味だ。当然、答えは決まっている。


『ふかひれで』


 二人は同時に店員に言った。酸辣湯は辛味があってディシディアは食べられないし、カニは先ほど食べたばかりだ。カニみそ、とはいえ被りは避けたい。そう思った二人の答えは最初から決まっていたのだ。


「はい。では六百六十円です」


 店員に代金を渡し、二人は横にずれる。それから間もなくして受付の女性から二つのカップが寄越された。そこにはぎっちりと小龍包が詰まっている。四角いプラスチックのスプーンをわずかに入れただけでじゅわっとスープが溢れ出てきて、内に閉じ込められていた匂いが炸裂する。

 ディシディアはスプーンで小龍包を取り、上に持ち上げる。透き通ったスープが下に落ちる様はまるで滝のようだ。その雅な様相に思わずうっとりと目を細めてしまう。


「では、いただきます」


 彼女はフーフーっと息を吹きかけて十分にそれを冷ましてから口に含んだ。途端、スープが一気に喉元を通り過ぎていく。だというのに――旨みは舌に残ったままだ。絶大な存在感を残して消えていったスープが忘れられないのか、彼女はまたしても掬い、口に含む。今度はすぐに呑み込まないよう、ゆっくりと味わう。

 スープは濃厚で、餡からにじみ出る肉汁と濃密に絡み合う。皮はトゥルトゥルとしていて、つるりと喉を滑っていく。濃厚なのに驚くほど飲みやすいスープと相まって、官能的な食感を味わえる。

 スープをすするとふかひれがチュルンッと舌に躍り出てくるのもまた心地よい。

 カップは手のひらサイズで、量は多いとは言えない。だからこそゆっくりと味わって少しでも長く堪能しようとするのだが――そうはいかない。あまりの美味さに、手が止まらないのだ。

 終いには残り少なくなってきて、良二は行儀が悪いことを承知でカップを傾けて中身を啜る。具、皮、スープを同時に味わいながら、良二はごくりとそれらを嚥下した。


「はぁ……美味しかった」


 後に残るのは絶大な満足感と多幸感だ。体の内からポカポカとしてきて、胸が温かくなるような感じである。名残惜しくはあるが、それでも十分なほどに満喫したのだろう。良二は心底嬉しそうに腹を撫でさすっていた。

 ディシディアも彼に倣い、グイッと中身を煽る。途端に口内に流れ込んできた旨みの塊に目を剥いた後で、静かに目を閉じた。まるで、味覚だけに感覚を集めているかのようである。

 最後の一滴まで飲み干してから、彼女はようやくカップを口から離した。彼女は恍惚の表情を浮かべながら、ピンク色の舌をチロリと出して唇を舐める。が、すぐにハッとして恥ずかしそうに顔を背けた。

 おそらく、気の抜けた顔を見られたのが照れ臭かったのだろう。彼女は耳まで真っ赤にしながら俯いている。このような姿を見せる彼女は初めてだ。良二は意外そうに目を丸くする。

 一方でディシディアはジト目のまま、彼を見上げる。その潤んだ瞳を見て、良二は思わずドキリとしてしまう。


「す、すまないが忘れてくれ。今のは……ちょっと気が緩んだんだ」


「いやいや、いつもの大人っぽいディシディアさんもいいですけど、さっきの可愛らしいディシディアさんもいいと思いますよ?」


「か、可愛くなどない……君、わかっててからかっているだろう?」


 その言葉に、良二は苦笑する。

 今目の前にいるのはいつも見せているような凛々しい大賢者としての姿ではなく、一人の可愛らしい少女の姿だった。


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