第五十五話目~思い出話と青リンゴビール~
夕食の後、ディシディアは良二が泊まっている部屋へと招かれていた。ベッドの上に正座をしている彼女の顔には笑みが浮かんでいるが、それとは対照的に良二の顔はやや険しい。それを見て、ディシディアはわずかに居住まいを正した。
部屋のドアにはしっかりと鍵をかけてあるし、カーラとケントはすでに寝てしまった。彼女の眼前に座る良二は悩ましげに眉根を寄せていたかと思うと、一度ため息をついてから静かに口を開いた。
「あの、ディシディアさん。少し、聞きたいことがあるんですがいいですか?」
「……いいとも。私の家族のことだろう?」
その言葉に、良二はギクリと体を強張らせた。その様子を見てディシディアは微笑を讃えつつ「やはりね」と呟く。
「わかっていたとも。まぁ、いつかはこうやって聞かれる時が来るとも覚悟はしていた」
彼女は乾いた笑みを浮かべた後でゆっくりと立ち上がってドアの方へと向かう。
「心配するな。素面で話すのははばかられるのでね。少しばかり酒の力を貸してもらうとするさ」
彼女はドアの向こうへと消えていったかと思うとしばらくして瓶ビールを両手いっぱいに抱えて部屋へと戻ってくる。彼女は枕元の台に置いた後で鍵をしっかりとかけ、ドアノブに手をかざした。
「《秘匿せよ、我らが心とその歴史》」
刹那、ドアノブを中心に奇怪な魔方陣が浮かび上がる。唖然とする良二に対してディシディアは微笑みつつ、再びベッドの上に飛び乗った。
「念のため《防音》の魔法を張っておいた。おそらくこれで会話が漏れることはないはずだ。さて、それでは飲むとするか」
「はい。どうぞ」
良二は彼女に瓶ビールを渡し、自分も栓を開けてゆっくりと掲げる。
「では、乾杯」
「乾杯」
カン、と瓶を打ち合わせ、ディシディアはごくごくとビールを煽る。彼女はやや目を丸くした後で口を開き、瓶のラベルを見やった。
「これはもしかして……青リンゴか?」
ラベルには確かに青リンゴの絵が描かれている。実際に口に含んだ時も青リンゴ特有の清涼感が口いっぱいに広がって、スゥッと鼻を抜けていった。飲み口も軽やかでいくらでも飲めそうだった。
ビールの苦みはあまり感じられないが、今回はそれがいい。今からするのは、お世辞にもいい話とは言えない。せめてビールだけでも甘くなくては。
ディシディアは早速一本目を空にし、次の瓶をこじ開けてから口を開いた。
「……まず、私の出生についてだ。正直なことを言うと……私は捨て子だった」
「捨て子……」
聞き慣れぬその言葉に良二はハッと息を呑む。しかし当のディシディアはいつも通り落ち着いた様子でビールを煽り、二の句を継げる。
「君には言っていなかったかもしれないが、エルフ族というのは生殖能力が弱い。長命だからね。そこまで種族を残さなくても生きてはいけるんだ。だから、捨て子というのは中々に例がない。だって、人生で数度産めるか産めないか、というほどだからね。やっと授かった子を捨てたんだ。よほどの事情があったのだろう、と私も思っているよ」
彼女はそこまで言って再びビールを煽る。良二はその間、辛そうに顔を歪めていた。
考えてみれば、彼女は自分たちとは違う世界の存在だ。種族も文化もまるで違う。これまで共同生活を送るうちにそれを忘れかけていたことを心のどこかで悔みつつ、彼はディシディアの語りに耳を傾け続ける。
「私が捨てられていたのは村の入り口にある御神木の近くだった。おそらく、別の集落のエルフが捨てたのだろうと長老たちは言っていたよ。仮に自分たちの村で産まれていたならば、気づいていたはずだろうってね」
「……ディシディアさんは、それをいつ知ったんですか?」
「物心ついた時さ。まぁ、正直薄々勘付いてはいたがね。だって、私を育ててくれていたのは長老だよ? しかも、妻を早くにして亡くしている上にエルフ族でもかなり高齢だった。他の子の両親を見て違和感がなかったとは言えない」
彼女はどこか懐かしそうに目を細めながら言葉を紡いでいく。今日の彼女はビールを飲むペースが異常に早い。すでに酒がまわりつつあるのか、彼女の言葉は徐々に早口になっていく。
「ただ、感謝はしている。こんな私を一生懸命育ててくれたんだ。ただ、私が賢者になった頃、かな。彼にもお迎えが来てね。私はまた一人になった。旅に出たのは見識を広めるためでもあったが、あの寂しさを埋めるためでもあったと今なら言えるよ」
その時、彼女の目から一粒の雫が流れ、ポトリとベッドの上に落ちた。彼女はすぐにハッとして目元をゴシゴシと拭い、それを紛らわせるようにまたしてもグビッとビールを飲み干す。
彼女は口から滴るビールを指の腹で拭い、しばらく視線を彷徨わせた。そこにはわずかながらの郷愁と躊躇いが見てとれる。ただ、良二にはただ黙って彼女の言葉を聞いていることしかできなかった。
彼女は一息をついた後でぼんやりと天井を見上げた。
「疎外感がなかったとは言えない。私は本来別の集落のエルフだ。だから、仲良くしてもらっていてもどこか心の中で距離感を感じていた。それに私は……こんな姿だからね」
ディシディアは苦笑しつつ、自分の幼子のような身体を見渡した。
彼女は老いない。エルフ族は基本的に長寿の種族のため外見年齢が置いていくのには時間がかかるが、それでも彼女は異端だった。他の子たちがどんどん背が伸びて大人らしくなっていくのに、彼女だけはある期間から全く成長しなくなっていった。彼女はもう数百歳になるが、体の造りは十歳のころからほとんど変わっていないのだ。
「だから、影ではこう呼ばれてもいたよ……『忌み子』とね。潜在的な魔力量が多いせいで老いないことは知っていたが、それでも同じ年の者たちからすれば私は異質な存在で、完全に異常だった。だから……正直、あの集落で友人と呼べる者たちはいなかったな。まぁ、旅に出て心から友人と思える者たちや偉大な恩師に会うこともできたがね」
彼女は補足を入れた後でまたしても瓶を空にする。甘く優しい味わいが心までもほぐしてくれるようだ。彼女は酔いを醒ますかのようにフルフルと首を振り、だらんと身体を弛緩させて大きく息を吐いた。
「正直なことを言うと、私にはカーラやケント……それから居酒屋で出会った珠江たちが羨ましい。確かに私には親代わりになってくれた長老がいた。だが、私は今でも疑問なんだ。なぜ、私は捨てられたのかってね。両親は私を愛していなかったのでは? 私は産まれてはならない子だったのではないか? それこそ本当に、他の者たちが言うような『忌み子』で……だから、捨てられたのではないか、とね」
彼女はくしゃっと笑い、ガシガシと髪を掻き毟る。そうして吐きかけた弱音をビールと共に呑みこんでシパシパと目を瞬かせた。その拍子にまた落ちた涙がぽつぽつと彼女の手の甲の上に落ちていく。
その姿を見た良二はグッと息を呑み、瓶を台の上に置いてから力強い語調で告げた。
「……たぶん、そうじゃありませんよ。ディシディアさんの両親はちゃんとディシディアさんのことを愛していたと思います」
「どうしてそう思う?」
「……だって、集落の近くに捨てられていたんでしょう? たぶん愛されていなかったらそれこそもっと別の場所に捨てられていると思います。ただ、俺にはそっちが……ディシディアさんの故郷がどんな世界なのかはわかりません。だから、言いきれないのも事実です」
あまりの不甲斐なさに歯噛みする。彼女は自分を支えてくれている大事な存在だというのに、自分は彼女のために何もできていない。
彼女が抱えている苦しみを軽減してあげたいのに、それができない。人生経験も、知識も、何もかもが自分には足りていない。悔しそうに俯く彼は血が滲まんばかりに拳を握りしめていた。
そんな彼の頬をそっと撫で、ディシディアは赤子をあやすような優しい笑みを浮かべる。
「君は優しい子だね。人のためを思って涙を流せるというのは、とても尊いことだ。その気持ちを大事にしなさい」
ディシディアは良二の目から溢れた雫を指先で拭い、その頭を優しく撫でてやる。その手つきはまるで母親のようですらあった。
良二はズズッと鼻をすすり、それでもしっかりと彼女の目を見据える。
「ディシディアさん……ありがとうございます。話してくれて」
「ああ、君の方こそ聞いてくれてありがとう。少しだけ、気分が楽になったよ」
「俺でよかったらいくらでも聞きますよ。だって、俺たちは……」
と、そこでディシディアが彼の口にピトッと人差し指を当てた。彼女は自分だって泣きたいはずなのに、それでも良二を少しでも安心させようとにこやかに微笑みつつ、
「わかっている。私たちはもうすでに……家族みたいなもの、だろう?」
良二はふっと頬を緩ませる。
まだ会って一年も経っていない。けれど、二人の間には確かな絆ができつつある。
良二はディシディアのことを信頼し、彼女も彼のことを大事に思っている。
本質的に二人が惹かれあったのも、どこか似ていたからかもしれない。
良二の両親は離婚しており、その上縁を切った今でも父親の借金を背負わされ、挙句に母親とは死別。お世辞にも恵まれた家庭とは言えなかった。
ディシディアは実の両親に捨てられ、その後は長老に育てられていたとはいえ村の内部において他とは違う存在として認識されていた。
互いに孤独を知っている。家族という者に対して憧れを持っている。
そんな二人だからこそ、これからも歩んでいけると確信していた。
「さて、少しばかり湿っぽくなってしまったね。では、飲み直しと……」
と、彼女が瓶ビールに手を伸ばすもの、咄嗟に良二がそれを取り上げる。彼女はブスッと頬を膨らませたが、良二はキッパリと断じた。
「ダメですよ。飲み過ぎは体に毒です」
「むぅ……いいじゃないか、今日くらい」
「ダメです。もう顔も真っ赤じゃないですか」
普段は陶磁のように白い彼女の顔はリンゴのように真っ赤になっていた。首元まで赤くなっている彼女はまだ飲みたそうにしていたが、やがて諦めたようにポリポリと頬を掻いた。
「仕方ない。今日はこれくらいにしておこう。ただ……話せてよかった」
「俺も聞けてよかったです……ディシディアさん」
「ん?」
良二はスッと背筋を伸ばし、彼女の潤んだ瞳をキッと見つめる。彼の目には確かな決意が滲んでいた。
「もし、また何かあったら話してください。あまり上手いことは言えないかもしれないんですけど……少なくともわかっておきたいんです。ディシディアさんのことを。話を聞くだけなら俺にだってできますし……」
「……優しいね。やはり君は誰よりも清い心を持っている」
そう言ってディシディアは静かに彼の体を抱き寄せ、
「……ありがとう、リョージ。愛しているよ」
頬に淡い口づけを残してから、部屋を後にしていった。