第五話目~ハリネズミまんとオーギョーチー
「おぉ……速い。これはとてつもなく速い。地龍以上の速さの乗り物に乗ったのは初めてだ!」
電車に揺られながら、ディシディアは流れゆく窓の外の景色を眺めていた。彼女は今にもこの電車というものを調べたいようでうずうずしている。その証拠に、これまでにないほど彼女の耳は動きまくっていた。
「落ち着いてください。もうすぐ着きますよ」
良二はスマホの画面を確認しながらポツリと呟いた。それを受け、ディシディアは持っていたポシェットをギュッと抱き寄せる。
「ふふ、楽しみだね。私も今日はたくさん食べるつもりだよ」
「この前みたいなことはごめんですからね?」
「おっと、もう着くね。さぁ、降りる準備をしようじゃないか」
ジト目で言ってくる彼の言葉を軽く流し、彼女は出入り口の方へと向かう。が、そこにはすでに大勢の人が並んでおり、先へと進むことはできない。流石に夏休みということもあって、かなり人は多い。その有様に、彼女は呑まれているようで、じりじりと後ずさりしていた。
やがて扉が開くなり、我先にと人が電車を後にする。ディシディアはその波に流されそうになったが、間一髪、良二がその手を掴んで難を逃れた。彼はグィッと手を引っ張って倒れかけていた彼女の体を起こし、そっと抱き寄せる。
温かな感触に戸惑いながらも、ディシディアは柔らかい笑みを彼に向けた。
「ありがとう。君はいつも優しいね」
「当然のことをしたまでですよ。慌てなくても食べ物は逃げませんから、ゆっくり行きましょうよ」
それを示すかのように、彼は腕時計を見せてくる。現在の時刻は九時。まだ店が開くには早い時間だ。混雑を予想して早めに来たのだが、それでもこの人の多さは予想外だった。電車の中は満員ではなかったが、席はすべて埋まっていたし、スペースも少なかった。
これから外に出ればどれほどまでに人が多いのか。それを想像するだけでくらくらしてくる。
ディシディアはごくりと息を呑んでから、電車を降りた。と同時、彼女は大きく胸を反らして息を吸う。
今彼女たちが住んでいる場所とはまるで違う空気感に、二人は目を細めた。
この場所独特の雰囲気に包まれながら、二人は改札を抜けて地上へと向かっていく。その間にある廊下にはズラリと中華街のパンフレットが陳列され、壁には広告が張られている。
徐々に強まっていく異国感に、自然と二人の鼓動が高まる。ディシディアに至っては地上に着くのが待ちきれないようで、全身から興奮を滲ませていた。
やがてエレベーターを昇り終え、地上への階段を行く。そうして二人が出ると迎えてくれたのは――異国情緒あふれる巨大な門だった。
龍を象った紋様と瓦。深い青で塗られた門は日の光をバックにして悠々と構えている。その下を大勢の人が通り、中には写真を撮っている人もいる。まだ朝だというのに活気に満ちていて、今から祭りでも始まるのか、と思ってしまう。
ディシディアは一瞬呆気にとられていたが……すぐににま~っと笑って、良二の手を引っ張って先を急ごうとしてきた。
「さぁ、行こう! まずは何か食べようじゃないか!」
「はいはい。と言っても……お店、開いてますかね?」
歩きながら、良二は首を捻った。
駅の周辺にあるコンビニなどは開いているが、それでは情緒がない。そう思ったのか、良二は彼女の手を引いて門を潜る。ディシディアは感嘆のため息を漏らしながら身を反らして門を見上げ、通り過ぎるまでずっとその体勢だった。
それからしばらく二人は歩を進めていく。が、まだ朝早くということもあって開店準備をしているところが多い。けれど至る所から美味しそうな匂いが漂ってきていて、ディシディアはそっと自分の腹を撫でさすった。
それを見て、良二は不安げに眉根を寄せる。
「大丈夫ですか? 何か、コンビニで買っておいた方がいいかもしれませんよ?」
良二は出発前におにぎりを食べてきたのだが、ディシディアは「どうせなら朝食はそちらで済ませたい」と言って何も食べてきていないのだ。だからだろう。彼女はやや気だるげで、足元もややおぼつかない様子だった。
しかし、彼女は首を振る。
「いや、大丈夫さ。大賢者になる前には数か月断食をしていたこともあったくらいだから……」
「いや、どんだけ壮絶な修業なんですか、それ……」
嘆息しながら、良二はがっくりと肩を落とす。
と、その時だ。
どこからか、ふわりと甘い匂いが漂ってきたのは。
ディシディアは鼻をひくひくと動かして、匂いの出どころを探る。すると、その匂いは彼女たちの前方数十メートルほど先にある出店から漂ってきていることがわかった。ちょうど開店した辺りらしく、店先には一人の女性が立っている。
彼女を見つけた瞬間、ディシディアの閉じかけていた眼がくわっと見開かれた。
「リョージ。あそこで朝食をとろうと思うんだが、いいかい?」
「もちろん。さて、それじゃあ急ぎましょうか」
二人が小走りで店に向かうと、店員――おそらく中国系と思わしき女性がニコリと微笑んできた。
「いらっしゃいませ。どうぞご覧になっていってください」
と言って、彼女は自分の右にあるショーケースを手で示す。おそらく電源が入っているところを見ても、中にある品物を温めているところらしい。その品物というのも、これまた多彩だった。
ポピュラーな肉まんや、春巻き、はたまたゴマ団子まで色とりどりだ。
しかしその中で特に二人の目を引いたのは――ハリネズミを象った揚げ饅頭だ。それを見つけるなり、ディシディアはハッとして口元を覆う。
「これは……たい焼きの仲間か?」
彼女の言葉に頷いたのは、店員だ。彼女は温かいまなざしをディシディアに向けながら、優しく説明を入れる。
「えぇ、同じようなものです。こちらはハリネズミまんって言う揚げ饅頭です。一応、このお店の看板料理なんですよ」
「ほほぅ。にしては……安くないかい?」
チラリと値段を見れば、たったの百円だ。昨日のたい焼きといい、超低価格である。
見た限り、造形にも凝っているようでかなりの手間暇がかかっているように思えるが、当の店員はニコニコと微笑んだままだ。ディシディアは一瞬なぜここまで安いのか聞こうとしたが……グッと踏みとどまった。
今日、自分は遊ぶためにきているのであって、調査のためではない。またしても賢者時代の悪癖が出たことに苦笑しながら、彼女はピッと二本指を立てた。
「では、二つ貰おう」
「はい、ありがとうございます! 熱いので気をつけてくださいね?」
ディシディアは店員から渡された二つのうちの一つを良二に渡し、それから自分のハリネズミまんをじっくりと観察した。
表面はカリッと揚がっていて、ハリネズミの象徴たる針はピンと立っている。しかし、手に持ってもべたつきはせず、サラリとした感じだ。ほんのりとした温かさは本当のハリネズミを抱いているように思える。その感覚に、つい二人の頬が緩んだ。が、互いに見やって途端に表情を取り繕ってみせる。
「さ、さて。いただきましょうか」
「あぁ、そうさせてもらおう……いただきます」
一言つぶやいてから、ディシディアはそっとハリネズミまんを口に入れる。途端、口内でカリッという心地よい音が反響した。
カリカリとした表面の下には、ふわふわの生地がある。揚げてあるせいか、昨日のたい焼きよりも香ばしさは上だ。ハリネズミの目を模しているゴマもカラリとしており、たったの二粒しかないというのに……いや、だからこそだろう。それがアクセントになっていい味わいを醸し出すのだ。
また、ハリネズミの姿を模していることは決して可愛いから、というだけではない。針の部分はパリパリとしていて最高の歯ごたえだ。
表面はカリカリ、中はふわふわ、針はぱりぱりと、この一品――それこそ手のひらサイズだというのに、これほどまでに多彩な食感に溢れている。
そして、極めつけはカスタードの餡だ。たい焼きのように、たっぷりと溢れんばかりに入っているわけではない。だが、濃厚なカスタードが生地の美味さを殺すことなく、よい塩梅になっている。
二人は満足げな顔をしながら、てくてくと歩いていく。良二に至っては、手についた油までも舌で舐めとっているほどだ。人とすれ違っても、お構いなしである。それに、彼らのように食べ歩きをしている人もちらほらと見て取れた。
店の人たちもそれに慣れているのか、平然としている。もはや、この中華街において食べ歩きは半公認のようなものなのだ。
「……ふぅ。幸先がいいね。最初の一品目からアタリを引くなんて」
口内にあるハリネズミまんをごくりと嚥下してから、ディシディアはそっと腹を撫でさすった。確かに美味かったし、満足感もある。だが、空腹感を満たすまでにはいかなかったようだ。
物欲しそうにしている彼女を見て、良二はグッと親指を立てた。
「今日はたっぷり時間がありますからね。精一杯、楽しみましょう」
「あぁ、その通りだ」
と言って、彼女が手を彼に伸ばそうとした時だ。
彼女の体がぐらりと揺れ、良二にもたれかかってきたのは。
「うわっ!?」
良二は慌てて彼女の体を抱き寄せ、その顔を見やる。ディシディアは首をフルフルと振って額に手を当てている。目の焦点は合っておらず、やや呼吸も荒い。
それを見て、良二はサッと空を見上げた。
「そういえば……今日も日差しが強くなるって……」
おそらく、朝食をとっていなかったせいで体力が不足していたのだろう。冷房が効いていた電車から、炎天下の中華街での温度差もある。暴力的な日差しは以前から彼女が苦手にしていたものだ。
今さらながら対策を怠っていたことに舌打ちしながらも、良二は彼女を連れて日陰に入る。蒸し暑さは変わらないものの、多少は日差しを緩和できるはずだ。
良二は手で彼女を煽ぎながら、小さく問いかけた。
「大丈夫ですか? 無理そうなら、日を改めますけど……」
「大丈夫さ。すまないね。ちょっと、はしゃぎ過ぎてしまったようだ」
「とりあえず、何かを飲まないと……」
とはいえ、この周辺に自販機の類は見当たらない。良二はグッと唇を噛み締めたが、そこであるものに気が付いた。
ちょうど自分の前方に、飲み物屋があるということに。
彼はすぐにディシディアを背負って、そちらへと急行する。店主と思わしき中年男性は彼らを見て、やや驚いたような表情をしてみせたが、良二はそれには構わずビッと二本の指を立てた。
「すいません! これふたつ、お願いします!」
「は、はいよ。オーギョーチー二つね」
店主はただならぬ様子を察したのだろう。手早く飲み物をプラスチックのコップに入れ、二人に差し出してくる。ストローが差してあるそれを受け取るなり、良二はサッとディシディアに手渡した。
「飲めますか? ゆっくりでいいので、ちゃんと飲んでください」
「あぁ、ありがとう……」
ディシディアはストローをカプッと加え、ゆっくりと吸った。直後、冷たく冷やされた甘酸っぱいジュースが口内に流れ込んでくる。見れば、ジュースの中には輪切りのレモンが入っている。だが、酸っぱすぎるわけではなくとても飲みやすい味だ。
するりと胃に滑り込んでくるような、そんな優しい味だ。
元々、レモンには疲労回復の効果もある。期せずしていい買い物をした、というべきだろう。ジュースの中身がなくなるにつれ、ディシディアの呼吸も穏やかになっていった。
彼女は目を瞑りながらストローを吸っていく。が、その時ストローの中から何かがちゅるんと出てきて舌の上に躍り出てきた。トゥルトゥルとしていて、ちゃんと噛みごたえもある。冷たく冷えたそれが喉を過ぎていくのはもはや快感だ。
「……ふぅ。ありがとう。だいぶ楽になったよ」
「よかった。あの、すいません。熱中症になってしまったようなので、休ませていただいてもよろしいですか?」
「もちろん。さ、中にどうぞ」
店主に勧められるまま二人は中に入り、そこに温まる椅子に腰かける。ディシディアは依然として辛そうにしていたが、先ほどよりはだいぶ楽そうにしていた。良二は自分が持っていたジュースを彼女に渡し、ディシディアもそれを笑って受け取った。
「助かるよ。にしても、これは美味しいね。何という飲み物だい?」
「えっと、これは……」
「オーギョーチーって言うんだよ」
そう答えたのは、店主だ。彼は首だけを良二たちの方に向けながら、人当たりの良い笑みを浮かべる。
「正確にはオーギョーチーゼリーってのが入ったレモネードだけど、長いから普通にオーギョーチーって呼んでるんだ。台湾では結構メジャーな食べ物なんだよ」
言いつつ、彼は入れたばかりのジュースをディシディアに渡してくれる。彼女はそれを受け取りながら、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、店主。痛み入るよ」
「せっかくの休みだ、満喫した方がいい。具合がよくなるまでゆっくりしていってもらって構わないよ」
「助かります。えっと、代金は……」
「あぁ、一個二百円で今のはおまけしとくから……四百円だね」
またしても、超低価格だ。このコップもそれなりに大きく、オーギョーチーゼリーもたっぷり入っている。だというのに、これほどまでの低コストだということにディシディアはまたしても苦笑した。
「ふふ。この世界はいいね。あらゆる食材が、簡単に手に入る。少しだけ、君たちが羨ましいよ」
またしても皮肉気味な言葉を残すディシディア。彼女は先ほど貰ったばかりのジュースを啜りながら、ほぅっとため息をついていた。
すると、それを見ていた店主は小さく唸り、ポンッと手を打ちあわせた。
「二人はここに来るの初めてかな? なら、これを」
と言って彼が渡してくれたのは、一枚のパンフレットだった。それを開くと表には中華街の地図が描かれており、裏には店名と番号が振ってある。地図にも同様のものがあり、パッと見て行きたいところを決めることができる。
良二は戸惑いながら、店主を見やる。だが、彼はニコリと満面の笑みを浮かべた。
「どうせなら、楽しんでいってもらいたいんだよ。だから、それはサービス。ここはいい所だから、目いっぱい満喫していってね」
店主はそれだけ言って、接客に移る。彼の後姿を見ながら、ディシディアはふっと口元を緩めた。
「親切な方だな」
「えぇ。とても。いいでしょう? この世界も」
「あぁ。本当にいい所だよ」
彼女はまたしてもジュースをチューっと啜る。その時に感じた充足感はきっと美味しいものを食べたからだけではないだろう。
良二もどこか嬉しそうな彼女を見て、ニコニコと笑みを浮かべていた。