第四十七話目~ウェルカム・レッドアイ~
さらにタクシーに揺られること数時間。すでに景色はのどかな田舎町へと変わっていた。ドラマやテレビで見るようなアメリカ風の住宅がちらほらと見え、その周りには木々が立ち並ぶ。とても静かで雰囲気のいい場所だ。
「どうだい? いいところだろ?」
「あぁ。ちなみに、あとどれくらいなんだい?」
「すぐさ。もうちょっとの辛抱だ」
言いつつ、リーはアクセルをグッと踏み込んだ。これも車の流れが少なくなってきているからできる荒業である。彼は法定速度をギリギリオーバーする勢いで車を走らせ、義父の家へと向かっていく。
「あ、見てください。ディシディアさん。農場もありますよ!」
「本当だ。牛がいるみたいだね」
良二が指差す方を見やれば、そこには大きな農場があった。そこには何十頭もの牛が放牧され、もしゃもしゃと牧草を喰らっている。その愛らしい姿にディシディアは思わずため息を漏らした。
「中々に面白そうだね。都会もいいが、こっちの方が肌に合っている気がするよ」
ディシディアはやはりまだ人混みに慣れていないらしい。しかしこのウィスコンシンは人もそれなりで、生活に必要なものは揃えられるくらいの施設はある中々に過ごしやすい場所だ。
窓を開ければ、農場独特の匂いが風に乗ってやってくる。慣れていなければ鼻を塞いでしまいそうなほど強烈な匂いだが、ディシディアも良二もそこまででもない。彼らはむしろ穏やかな眼差しを外へと向けていた。
高層ビルがなく、おかげで太陽の恵みを十分に浴びることができている。この時期ならば、ピクニックやウォーキングなどをするにはうってつけだ。二人はまだ見ぬ家がどんな場所であるのか期待に胸を弾ませながら座席に体を預ける。
それから間もなくして、徐々に車の流れが少なくなってきた。どうやら、ここからは本当の田舎らしい。森が辺りに見え、ところどころに『鹿飛び出し注意』と警告された標識が見えてくる。
「ここら辺じゃ、結構飛び出しが多いんだ。野生動物だけどな」
「なら、安全運転しないとだね」
「違いない」
リーは苦笑しつつ、車の速度をやや緩めた。だが、もうそろそろ着く頃合いなのだろう。彼は懐かしそうに周囲に視線を巡らせる。
そうしてしばらく一本道を行っていると、右側に湖を示す標識がぽつんと置いてあるのが目に入った。それを見たリーは口元を緩め、ぱちんと指を鳴らす。
「そろそろ着くぜ。準備はいいかい?」
「もちろん! なぁ、リョージ?」
「えぇ、バッチリですよ」
彼らは身なりを整え、すっと姿勢を正す。その間にリーは右の小道へと入り、坂を上っていく。その時、左の方に大きな湖があるのが見えた。そこにはいくつかのボートが停泊しており、人が釣りをしている様や、そこで泳いでいるのが見てとれる。
「おぉ……湖まであるのか」
「そうそう。お義父さんはボートを持っているから、たぶん乗せてくれるよ」
「まさか、自前のボートかい?」
「もちろん。というか、ここに住んでいる人のほとんどは持っているよ」
その言葉にディシディアは舌を巻く。軽いカルチャーショックを受けているようだ。
そうこうしている間も車は順調に進んでいき、曲がりくねった道を抜けて坂を上る。そうしてこれまた左に見えた小道を上っていくと、前方に大きな家が見えた。
「着いたぜ。あそこがお義父さんたちの家だ」
リーがそう教えてくれる。
外観はとても綺麗で、しっかりとした建て構えだった。専用のガレージもあるし、バスケットゴールだってある。広々とした庭にはたくさんの花が植えられていた。
タクシーはのろのろと徐行し、家の前で停車する。
「よし、お疲れさん」
「ありがとう。では、代金を……」
「いやいや、いらねえよ。そういう気分じゃないんだ」
「しかし……」
「いいって。まぁ、遠目の帰省だったと思えばいいさ」
リーは快活に笑い、そう答えてみせる。ディシディアたちは戸惑っていたようだったが、やがて笑みを浮かべて彼に一礼する。
「ありがとう。では、ご厚意に甘えさせてもらうよ」
「本当にありがとうございます。色々とお世話になりました」
「いいって! なんか、話しているうちにあんたたちに情が移っちまってな。まぁ、そういうことだ。気にすんな。それより、早く中に入るぞ。たぶん、もういるだろうからな」
リーは自慢のドレッドヘアを掻いた後で、タクシーを後にした。良二たちもすぐに彼の後を追って外に出て、キャリーバッグを受け取った。
「んじゃ、行くぞ」
リーはそのまま玄関へと向かっていき、備え付けのチャイムを押す。
ピンポーンッという音が鳴り響いた後、パタパタと誰かが歩み寄ってくる音。その直後、ドアがサッと開いた。
「まぁ、リー。久しぶりじゃない」
ドアの向こうに立っていたのは、優しそうな女性だった。年は四十代半ば。顔にしわができつつあるが、穏やかな顔つきをしている。そのブルーの瞳はとても美しく、覗きこまれると心まで見透かされるようだった。
リーは彼女にハグをした後で、ディシディアたちの方を手で示す。
「お義母さん。この二人が例の旅人ですよ。ここに泊めてもらえるんですよね?」
「えぇ、もちろん。カーラよ。どうぞよろしく」
と、カーラが手をディシディアの方に差し伸べてくる。彼女はニコリと人の好い笑みを浮かべつつ、その手を取った。
「こちらこそ。ディシディアだ」
「まぁ、可愛らしい。それで、そっちの男の子は?」
「はじめまして。良二です。どうぞよろしくお願いします」
「あら、礼儀正しい。どうぞよろしく。それで、リー? あなたはこれからどうするの?」
話を振られたリーはひょいと肩を竦め、タクシーを顎で示した。
「とりあえず、帰りますよ。ジェシカが待っているんで」
「相変わらずお熱いわね。そろそろ暗くなる頃合いだし、気をつけてね?」
「もちろん! それじゃ、ディシディア。リョージ。またな」
リーはブンブンと手を振りながらタクシーに乗り込み、すぐさま去っていく。早く愛妻に会いたいようだ。その微笑ましい姿に笑みを浮かべつつディシディアたちも彼の姿が見えなくなるまで手を振った。
「さぁ、長旅で疲れたでしょう? 急な連絡でご馳走はできなかったけど、とっておきがあるの。来てちょうだい」
と、カーラが優しい声音で告げる。ディシディアたちは頷き、中へと足を踏み入れた。
フローリング張りの床はピカピカで、普段から掃除していることが伺えた。リビングと思われる場所にはドデカイテレビが鎮座しており、しかも大きなソファや椅子まである。その上、ベランダにもイスとテーブルが置かれていた。
「も、もしかしてカーラさんのお家はとてもお金持ちなんじゃ……?」
「そうでもないわよ? 普通だと思うわ」
しかし、その言い方が逆に怖い。良二はきょろきょろと落ち着かない様子で視線を巡らせていた。
一方のディシディアの視線は、椅子の上にある二つのモコモコに向いている。しかもそれは時折ピクピクと動いていた。
「あら、気になる?」
どうやらディシディアの視線に気づいたらしきカーラが問う。ディシディアがそれに小さく首肯を返すと彼女はそちらへ歩み寄り、チョンとモコモコをつついて見せた。
すると、それの正体がようやく明らかになる。二つのモコモコは、二匹の猫が丸まった姿だったのだ。その子たちはふわぁ、と欠伸をしながら来客であるディシディアの足元に寄り、すりすりと頬ずりしてみせる。
その光景を見たカーラは驚いたように目を剥いた。
「珍しい。この子たちは結構人見知りなのに」
「ふふ、可愛らしいね。名前は?」
「ジョーイとジェシーよ」
「そうか。よろしく、二人とも」
ディシディアは灰色と茶色をした猫たちの頭をそっと優しい手つきで撫でる。猫たちはゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らし、また欠伸をしてその場で寝転がってしまった。
「しょうがない子たちね。着いてきて。ケントは下にいるから」
「ケント?」
「私の夫よ」
カーラは愛嬌たっぷりに言い放ち、階下に繋がる階段を下りていく。良二は一旦ディシディアの方に向きなおり、そっと手を差し出した。
「キャリーバッグは俺が運びますよ」
「ありがとう。気が利くね」
「ふふ、仲がいいわね」
その様子を見ていたカーラが呟き、ウインクをしてみせる。ディシディアたちはわずかにほほを染めつつ、彼女の後を追って階段を下りていった。
すると――
「いらっしゃい!」
大きく、陽気な声が響いてきた。その声を発した人物がいたのは――左にあるバーカウンターの向こうにいた恰幅の男性だった。
ひげを蓄え、愛嬌のある顔つきをした彼はのしのしと歩いてきて二人にサッと手を差し出す。
「ケントだ。ジェシカから話は聞いているよ。ここは君たちのお家だと思って、ゆっくりしていって!」
なんとも豪快な男性だ。彼はニコニコと笑みを浮かべながら二人の手を握り、ブンブンと振り回す。そのパワフルな歓迎に戸惑っていた様子だったが、ディシディアはすぐに慣れたようだ。彼女は楽しげに笑っている。
「さぁさぁ。ちょっと早いけれど、ごはんにしましょう。二人とも、そこに座ってちょうだい」
カーラが指差したのは先ほどのバーカウンターだ。
二階建てでボートを持っており、さらにはバーカウンターまでも家に備えている。間違いなくリッチな部類に入るだろう。が、二人はそれを鼻にかけてはいない。それが何とも心地よかった。
「ケント。私はご飯を取ってくるから、飲み物を用意してあげてちょうだい」
「了解。じゃあ、二人とも。とりあえず俺のオススメを飲んでよ」
ケントは意気揚々とバーカウンターの向こうに行き、ガチャガチャと酒瓶を漁った。かと思うと、そこから数本の瓶を取り出してきて調合を開始する。
ずいぶんと手慣れた動作だ。やはり、普段からやっているのかもしれない。ケントは興味深そうに目を丸くしているディシディアに向かってぱちりと目配せをした。
「はい、お待ちどうさま。レッドアイだよ」
と、彼が差し出してきたのはレッドアイ――ビールとトマトジュースのカクテルだ。が、日本で見ていたものとはまるで違う。
中にはたっぷりの氷が浮かび、マッシュルーム、ピクルス、さやえんどう、オリーブが刺さった串がマドラー代わりに用いられている。見た感じは、アルコール飲料というよりはコップに注がれたスープか何かに見えた。
差し出されたそれを指さしながら、良二は曖昧な笑みをケントに向けた。
「えっと、これは……」
「レッドアイさ。アメリカでは結構有名なんだよ。ほら、飲んでごらん」
良二はゴクリと喉を鳴らし、改めてレッドアイを見やる。正直、日本のものとは違いすぎて味のイメージが全く沸かない。だが、ここで飲まなければ場が白けてしまうだろう。
「じゃあ、いただきます!」
良二は意を決した様子でコップを掴み、グイッと中身を煽る。直後、彼の固く閉じられていた瞼がパッと開いた。
「美味しい……」
その言葉を聞いて、ケントはふふんと鼻を鳴らす。良二は信じられない、といった面持ちでレッドアイをぐびぐびと飲んでいた。
ビールのホロ苦さと、トマトジュースの清涼感が混じり合って非常に飲みやすい一品だ。互いの風味を生かしつつ、倍増させている。また、最初はどうかと思えた串に刺さっている品々もいい味を出している。
マッシュルームは歯ごたえがよく、さらに繊維質なためにレッドアイの汁気を存分にすって口の中で旨みを炸裂させる。
ピクルスの甘酸っぱさがレッドアイの中できらりと光り、異色を放つ。コリコリとした食感もよく、酒のあてとしても優秀だ。
口の中でカリッという快音を響かせるさやえんどうはレッドアイとの相性もよく、食べていて飽きが来ない。ディップするとますます味に深みが増した。
オリーブはこれらの中でも特に風味に長けており、レッドアイと合わさってますますその魅力を発揮する。トマトとオリーブの相性の良さは、知っての通りだろう。それの強化版といった感じだ。
「と、そうだ。これも試してみなよ」
ぐびぐびと喉を鳴らして飲み続ける良二を見ていたケントがあるものを差し出す。それはなんと――タバスコだった。目を剥く良二たちをよそに、ケントは解説を寄越す。
「タバスコを数滴垂らしてごらん? 味がガラッと変わるよ」
「じゃあ、少しだけ」
良二はおそるおそるタバスコを数滴入れ、それからちょびっと啜る。
「あれ? 美味しい……」
そうして、またしても意外そうに目をパチクリさせた。
タバスコを入れれば辛くなると思ったが、そうでもない。トマトジュースが持つ甘さに中和され、けれどその風味は確かに残しつつ味の奥行きを増加させている。邪魔どころか、むしろレッドアイの新たな一面を見せてくれる名脇役となっていた。
「わ、私も呑みたいんだが……」
「あぁ、ごめんよ。えっと……」
「ディシディアだよ」
「そうか! じゃあ、ディシディアちゃんにはアルコール抜きね」
まぁ、要するにトマトジュースである。ただし、付け合せなどはそのままであるのでそこまで問題はない。ディシディアも別段酒が飲みたかったわけでもなかったので、そのままクイッと煽った。
「――ッ! 美味い!」
ディシディアも先ほどの良二と同じリアクションを繰り返し、またごくごくと飲み始める。しかし、タバスコには手をつけない。やはり、苦手であることを自覚しているのだろう。ケントもそれを察したのか、勧めることはしなかった。
「あら、もう仲良くなってる」
いつの間にかピザを抱えて持ってきていたカーラがそんな言葉を漏らした。ケントは豪快に笑いながら、良二たちを指さす。
「カーラ。この子たち、俺のカクテルを美味しいってさ」
「まぁ、そうなの。よかった。私たち、カクテル作りが趣味なの。今度、一緒に作りましょうね? と、それより先にご飯と自己紹介ね」
彼女はピザをカウンターに置き、それからケントに視線をやる。彼はゴホンとわざとらしく咳払いをしてから、マイクを持つ仕草をしてみせた。
「俺はケント・ブランク。趣味はカクテル作りとダーツ。後、釣りかな? 君たちと出会えて本当に嬉しいよ! 少しの間かもしれないけど、よろしく!」
ディシディアたちはパチパチと惜しみない拍手を送り、彼に笑みを送る。ケントは照れ臭そうにしながら、カーラの肩を叩いた。
「じゃあ、次は私ね。カーラよ。ケントの妻で、趣味はカクテル作りと料理。それから、読書も好きね。ここに泊まっている間は、私たちのことを本当の家族だと思ってくれていいのよ? よろしく」
ディシディアたちはまたも盛大な拍手を寄越した。その後で、良二がスッと席から立って二人に挨拶をする。
「はじめまして。飯塚良二です。リョージと呼んでください。アメリカに来たのは初めてで色々とご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「ヘイヘイ、固いぞ、リョージ!」
ケントが茶々を入れ、カーラが彼の脇腹をつつく。その温かな雰囲気に包まれながら、今度はディシディアが立ち上がった。
「ディシディア・トスカだ。今はリョージと共に暮らしている。趣味は食べ歩き。ウィスコンシンでは美味しいものが食べたいと思っている。仲良くしてくれると……嬉しいな」
「もちろん! よろしく!」
ケントたちの拍手を受け、ディシディアは珍しく恥ずかしそうに頬を染めた。
「さぁ、それじゃあご飯を食べましょう。デリバリーだけど、味は保障するわ。食べてちょうだい」
『いただきます』
二人の前にあるのは、巨大なピザだ。シカゴピザではなく、日本でも見るような形をしている。が、大きさが桁違いだ。日本のものよりも二回り以上大きい。流石はアメリカ。超特盛だ。
無論、味の方も問題ない。とろけたチーズはまろやかでコクがあり、エッジの効いた塩味のサラミは実に食欲をそそる。キノコはジューシーで、噛むと汁がじゅわっと溢れ出てきた。
「あぁ、そうそう。二人のお部屋は、あっちね? リョージは右、ディシディアちゃんは左よ。私の娘と息子が使っていた部屋なの」
チラリと後ろを見れば、確かにそこには二つの部屋があった。どちらも中々の間取りで、大きなベッドが置かれている。
「それと、お風呂やトイレは一階のものを使ってくれ。俺たちのは二階にあるから、気にしなくていい」
と、ケントが付け加えてくれる。
アメリカではこういった形態は普通らしい。ディシディアたちはピザを頬張りながらもうんうんと頷いていた。
「いやぁ、それにしても面白い話じゃないか。まさか、リーがこんな子たちを連れてくるなんて」
「えぇ。とっても愛らしくて、優しそうな子たちだわ」
ケントとカーラは中々にいい印象を持ってくれているようだ。ディシディアたちも、それは同様である。
ケントとカーラは人を安心させる雰囲気を持っており、まるで本当の家族であるかのようだ。まだ会ったばかりでよくわからない部分もあるが、それは時間が解決してくれるだろうと直感できた。
「おっと、レッドアイのおかわりはいるかい?」
ケントの問いに、ディシディアたちは同時に頷いて顔を見合わせ、ぷっと噴き出した。その様子を見ていたカーラもおかしそうにクスクスと笑っている。
「はは、了解。今度はもっと美味しく作ってあげるよ」
よほど自分のカクテルを褒めてもらったのが嬉しかったのだろう。ケントは上機嫌でカクテルを作成し始める。そうしてサーブされたレッドアイは先ほどよりも凝っているように思えた。串にはこれでもかと先ほどの野菜類が刺さっているし、中身はコップから溢れそうなくらいだ。
「ケント……張り切り過ぎよ」
「ハハ、悪い悪い。ちょっと調子に乗りすぎた」
熟年夫婦がリアルに行う夫婦漫才を肴にしながら二人はレッドアイを啜る。日本のものとは一風違ったものではあるが、二人はとても気に入ったようだ。
結局、この後レッドアイを五杯以上飲み、とうとうケントも根を上げたほどである。けれど、ケントもカーラもとても微笑ましそうに二人を見やっていた。
まるで、久しぶりに帰ってきた孫を見やっているかのように――。