第三十九話目~海の怪物たちとポップコーン~
プレッツェルピーナッツを買った後、ディシディアたちはシアターの中央座席に腰掛けていた。比較的早めに入ったおかげか、中々にいい席を取れている。
シアター内は広々としていて、かなりの奥行きがある。座席数もそれに見合うだけの数があり、アメリカの男性でも楽に座れるよう大きめに作られていた。
ただ、少し気になるのが座席の造りだ。クッション製ではなく、プラスチック製だ。手で叩いてみれば、コンコンと音がする。それと、なぜか肩甲骨が当たる部分に小さな穴があった。
「リョージ。この椅子は?」
「えっと……流行の4DXって奴らしいですね。たぶん、何か仕掛けがあるんじゃないですか?」
パンフレットを見ながら良二が答えるとディシディアは小さく呻き、思案気に眉根を寄せた。が、その直後にブザーが鳴り響き、それを受け彼女は椅子に深く腰掛けて先ほど入り口で渡されたばかりの3Dレンズをかける。
それからすぐに照明が落ち、パッとスクリーンに映像が映し出された。
『ようこそお越しいただきました、皆様。今日は素晴らしき海の世界をご堪能ください』
スピーカーから音声が聞こえてくる。これはあらかじめナレーションがつけられているようだ。スクリーンには海の映像が映し出されている。だが、それは合成映像のようである。しかも、今の海ではなく過去の海――それこそ、太古の海を映しているようだ。
『かつて、この世界には今よりも巨大な生物たちが住んでいました。恐竜もその一つです。特に海には、大きな体を持つ生物たちが群れをなして住んでいました』
ナレーションが入ると同時、画面に首長竜の赤ちゃんが映し出される。その横にいるのは、それとは比べ物にならないほどの大きさを誇る首長竜の夫婦だ。仲睦まじく遊泳する様は見ていて微笑ましいものだ。
――が、途端にどこからか怪しげな音楽が聞こえてくる。
『……先ほども申しました通り、海には巨大な生物がたくさんいます。そして当然のごとく、生物たちの中で行われるのは――食物連鎖。その一部を、ご覧下さい』
その言葉に呼応すべく現れたのは――首長竜の数倍の大きさを誇る肉食恐竜だ。今の生物と比べてみると、外見はワニに近い。だが、その牙の鋭さも大きさも何もかもワニとは似ても似つかない。
その姿をいち早く察知した首長竜の夫婦は子どもを連れて逃げようとする――が、すでに遅い。巨大ワニは黒い宝石のような瞳をギロリと輝かせ、その巨体からは想像もできないほどのスピードで迫る。
奴は口をぐわっと開け、バクンッと閉じた。直後、
「うわっ!?」
「ひゃっ!?」
良二とディシディア――いや、このシアター内にいる全員の背中に鈍い衝撃が走った。何事かと見てみれば、先ほど見たシートに開いている穴から二つの棒が出てきているところだった。おそらく、あれが背中をつついたのだろう。
口が閉じるのと同時に背中を押されたのだから、たまったものではない。臨場感が数倍にもなって感じられた。
しかし、観客が驚いている間も映像は進んでいく。メスは食いちぎられ絶命したものの、オスと子どもは生きている。巨大ワニがメスの死骸を貪り食っている間にオスはなんとか子供とともに逃げんとする。
「――ッ!」
巨大ワニはメスを丸呑みした後で、さらにその貪欲さを露にする。体を蛇のようにくねらせながら高速で首長竜へと接近していく。が、今度は回避に成功した。首長竜は間一髪で身を捻り、そのアギトを避ける。
そのまま巨大ワニは勢いを緩めないまま進行していき、やがて姿を消していく。それを見ていた観客たちはほっと息をついた。
その直後だった。
姿を消していたかと思われた巨大ワニが下から接近し、首長竜のオスの腹に食らいついたのは。
刹那、ガコンッという衝撃とともに水しぶきがかかる。ディシディアは濡れたレンズを指の腹で拭い、またスクリーンに視線を移す。すでにオスは原形を留めないほどに食い散らかされており、けれど子どもは何とか岩陰に隠れることに成功していた。
『ご覧の通り、このような厳しい食物連鎖が行われていたのが過去の地球です。今の生物とは比較にならないほど巨大な体を持ちながらも、やはり自然の掟からは誰も逃れられないのです。そして皆さんもご存じの通り、これらの生物たちはやがて絶滅します。もし、このような生物たちが生きていれば、それこそ『海の怪物たち』と呼ばれていたかもしれません。それでは、皆様。引き続き、当館をお楽しみください』
その言葉を合図に照明がつけられ、映像がふっと消える。割れんばかりの拍手喝さいを聞きながら、ディシディアは静かにレンズを外した。
「どうでした?」
「……正直、圧巻だった。映像が飛び出てくるとは、どういう仕組みだい?」
ディシディアはレンズをジロジロと興味深そうに眺めていた。それから、今自分が座っている座席や前の座席など。探せば探すだけ仕組みがわかりそうだ。
そんな彼女を見て、良二はふっと口角を吊り上げた。
「そういえばディシディアさん。さっき、すごく可愛い声をあげてませんでした?」
その言葉を理解した瞬間、ディシディアの顔がぼっと赤くなる。確かに先ほど背中に衝撃が走った時、不覚にも「ひゃっ!」っと声をあげてしまったのだ。
ディシディアは赤面しながら、手をもじもじとさせながら唇を尖らせた。
「し、仕方がないだろう……びっくりしたんだから」
「いや、でも可愛かったですよ。新鮮で」
「……君は、たまにすごく意地悪だな」
ディシディアはフンッとそっぽを向いてから、出口の方へと向かっていく。良二は苦笑しながらも彼女の後を追い、入り口でレンズを返した後でパンフレットを開いた。
「で、これからどうします?」
ディシディアは不満げにしながらもその場で立ち止まり、腕組みをして考え込む素振りをしてみせる。
「……そうだな。とりあえず、順路を負って進もうじゃないか」
「じゃあ、一度あっちに戻る必要がありそうですね」
良二は前方――先ほど大きな魚のオブジェを見た場所を指さす。ディシディアはそちらを見るや否や、すたすたと歩きだす。その後ろ姿を見て、良二はやや不安げに語りかけた。
「あの……怒ってます?」
答えは返ってこない。ディシディアはただ先を歩いていくだけだ。
(ちょっとからかいすぎたかな……)
そんなことを思っている間にも先ほどの魚のオブジェの場所に到着。ディシディアは左に続く通路を足早に進んでいった。
そこは海のエリアだ。アメリカ近海などに生息している魚たちを集めたエリアらしい。タツノオトシゴやウツボ、ブルーロブスターなどが集められている。
アマゾンエリアとは違い、ここは基本的に海生生物たちだけで固められている。しかし、種類の豊富さは負けていない。そして、希少さもだ。まず、日本にいては見られないような姿形をしているものが大勢いて、見ているだけで楽しくなってくる。
その証拠に、先ほどまでむくれっつらだったディシディアも笑みを作っていた。
「あ~……ディシディアさん? あの、よかったらあれ食べませんか?」
今が好機と見たか、良二が口を開く。ディシディアがゆっくりとそちらを見やると、良二はいつも通り人のよさそうな笑みを浮かべながら左の方を手で示していた。
そちらにあったのは、ポップコーンの屋台。どうやらここは館内でも食事ができるらしい。すでにそこからはバターの芳しい香りが漂ってきて、こちらの鼻孔をくすぐってくる。その度に腹の虫が騒ぎ立てるのを感じながら、ディシディアはゴクリと生唾を飲みこんだ。
映画を見る前にピーナッツを食べてはいたが、やはりあれしきでは腹は膨れなかったのだろう。ディシディアは腹を撫でさすりながらそちらへと歩み寄る。
「無論、君の奢りだろうな?」
「もちろん。奢らせてもらいますよ」
良二は先に屋台の受付に並び、そこにいた若い女性に注文を告げる。
「すいません。バターポップコーン一つ」
「はい。では、しばらくお待ちください」
どうやら作り置きではなく出来立てをくれるようだ。やはりどの料理も出来立てを頂くに越したことはない。ディシディアは平静を装っているようだったが、耳はパタパタと忙しなく上下していた。
「はい、できましたよ。熱いので、気をつけて」
「どうも。じゃあ、これはディシディアさんに」
「ありがとう」
受け取った容器はそれなりに大きく、ディシディアが両手で抱えなければならないほどだった。彼女はそれを落とさないようがっしりとホールドしながら、手近にあったポップコーンを一つまみ口の中に放り込む。
濃厚なバターの風味が鼻を抜けていき、コクのある旨みがじんわりと舌の上で溶けていく。塩もちょうどいい塩梅で、バターとのバランスが取れていた。
出来立てでアツアツのポップコーンはポリポリとした歯ごたえで、実に食べごたえがある。しかし後味は軽く、いくらでも食べられそうだ。
以前映画館でポップコーンを買ったことがあったが、あれとは比較にならない。なにせこちらは量も味もまるで違うのだ。
おそらく、塩はただの塩ではない。岩塩だろう。力強くキリッとした味わいが特徴的だ。
たかが軽食と片付けるにはいささかもったいない品だ。バターや塩、そしてもちろんコーンも選りすぐっている。ちょっと気を抜けば、一瞬で食べつくしてしまいそうなほどだ。
ディシディアは一人それをむしゃむしゃと食べていたが、やがて思い出したようにハッとして、コーンを一粒良二の方に差し出す。
「え……? お、怒ってないんですか?」
その言葉に、ディシディアはふっと優しい笑みをもって応えた。
「怒ってなんかいないよ。ただ、ちょっと君に意地悪をしただけさ。ほら、仲直りだ。食べてみるといい。美味しいよ?」
「……えぇ。では、いただきます」
良二はそっと彼女からポップコーンを受け取って口に放り込むなり、破顔してみせる。
「あぁ、美味しいですね、これも」
「だろう。せっかくだ。歩きながら行こうじゃないか」
ディシディアがポップコーンをキープする役目を負いながら、先へと進んでいく。腹が膨れたからか、二人の足取りは徐々にゆっくりになっていき、水槽を眺める時間が増えていった。
そうして、次のエリアへと差し掛かったその時だった。前方に、丸いプールのようなものが設置されているのを見たのは。その周りには人が集まっていて、入り口と思わしき場所にはスタッフが立っている。
「リョージ。私たちも行こう」
当然、それに興味を示さないディシディアではない。彼女は良二の手を引っ張ってそちらへと歩み寄り――「おお」と感嘆の声を漏らした。
そのプールの中にいたのは、何匹ものチョウザメだ。それがエリア中央に設置されたコンクリート製のプールの中を悠々と泳いでいる。海面すれすれを泳ぐ様はやはり威圧感を感じさせられた。
「リョージ! あれは?」
「……たぶん、チョウザメですね。触れるみたいですけど、どうします?」
確かに、ここはチョウザメを触ったりすることもできるようだ。ディシディアは良二にポップコーンを預けるなり、すぐさま入口へと向かった。スタッフに促されるまま入り口をくぐり、簡易式の手洗い所でよく手を洗う。やはり、雑菌があってはチョウザメにも悪影響なのだろう。
ディシディアは石鹸で手を入念に洗ってからプールの前に立った。すると、ちょうど近くを泳いでいたチョウザメの一匹が彼女の方にやってくる。
まるで「触れ」と言っているかのように身を捻らせるチョウザメ。ディシディアは初めて見る生物に戸惑いを見せてはいたが、やがてグッと息を呑んで静かに手を触れた。
返ってくるのは、ぬめっとした感触だ。が、そこにはざらっとしたサメらしい側面も見られる。肉質は案外しっかりとしていて、押すと確かな反発が感じられる。それと同時に、逞しさと力強さが掌から伝わってきた。
「……これは、癖になるな」
チョウザメは『サメ』とはわずかに異なり、その性質は極めて穏やかだ。ディシディアに撫でられるたび、くすぐったそうに体を捩るもののどことなく嬉しそうに尾びれを揺らめかせている。
撫でる度にざらりとした感触とぬめっとした感触が返ってくる。これは、中々珍しいものだろう。少なくとも、鱗を持つ魚ではこうはいかない。
ディシディアは慈愛に満ちたまなざしをチョウザメに向けた後で、静かにその手を引いた。
「……ありがとう。おかげでいい経験ができたよ」
その言葉がわかったわけではないだろうが、チョウザメはパチャッと水しぶきをあげて別の場所へと移動していく。ちょうどそこにいた子どもたちは寄ってきたチョウザメを見て大はしゃぎしていた。
ディシディアは満足そうにしながら出口へと向かっていき、そこでもよく手を洗って良二の元へと歩み寄る。彼はというと、ディシディアから預かっていたポップコーンをむしゃむしゃと頬張っていた。
彼女はニパッと快活な笑みを浮かべながら、腰に手を当ててプールの方に向きなおった。
「中々に面白かったよ。次はリョージも触ってくるといい」
「いや、俺は遠慮しておきますよ。ほら、手だって汚れていますし」
「? 気にすることはないだろう。あそこで手を洗ってくればいい」
と、入り口の近くにある簡易式の手洗い場を指さしながら言うディシディア。彼女はキョトンと首を傾げた後で、何かに思い至ったかのようにその形のよい眉を歪めた。
「リョージ。もしかして君……怖いのかい?」
ビクッと良二の肩が震える。図星だ。彼は顔面を蒼白にしながら、首を横に振り続ける。
「い、いや、だって考えてみてくださいよ。チョウザメって結構でかいじゃないですか。ほら、小学生よりも大きいんですよ?」
「安心したまえ。いい子たちばかりだから」
「で、でももし噛まれたら……」
「あ、それは大丈夫よ。この子たちはプランクトンとかしか食べないから」
二人の会話を聞いていたらしきスタッフが割って入ってくる。彼女は良二に向かってグッとサムズアップをしてきた。つまりは『行け』ということなのだろう。
だが、本能的恐怖には抗えない。良二はすぐさま踵を――
「待ちたまえ」
返そうとする間もなく、ディシディアに服の裾を掴まれる。
ギギギ、という効果音が付きそうなほど不自然な動作でディシディアの方を見ると、彼女はニコニコしながらプールの方を指さしていた。
「さぁ、行っておいで。大丈夫。私がここで見ていてあげるから」
「でぃ、ディシディアさん……や、やっぱり怒って……」
「怒ってない」
キッパリと断じるディシディア。だが、目はまるで笑っていなかった。
「さぁ、リョージ。頑張ってきたまえ」
「頑張って、お兄さん!」
背中を押してくるディシディアと、その手を引っ張ってくる水族館のスタッフ。良二はがくがくと震えながらプールの淵に寄り、海面を見下ろす。そこにはすでにこのプール内でも一番の大きさを誇るチョウザメが控えていた。彼は良二を見るや否や、ゆっくりと浮上してくる。
徐々に近づいてくる巨大な生物を見て、良二はブンブンと首を振った。
「や、やっぱり無理……」
「大丈夫ですよ~。怖くないですよ~」
スタッフがまるで子供をあやすように言いながら、良二の手を取って無理矢理チョウザメの方へと伸ばす。見た目は可憐な女性だったが、やはり水族館勤務というだけあってかかなりの腕力だった。
必死の抵抗虚しく良二の手はチョウザメの方へと伸びていき――やがて、ピトッとその肌に触れた。
それから数分後。チョウザメと半ば強制的なスキンシップを交わした良二が死人のような顔で出口から出てきたのは言うまでもない。