第三十六話目~メキシコ料理屋のブリトー~
どれくらいの時間が経っただろうか?
窓の外には木々の代わりに高層ビルが連なり、人や車の流れも活発になってきている。道には見慣れぬ屋台などが立ち並び、そこではホットドッグなどの軽食が売られていた。
やはり観光地だからか、昼時は特に活気に満ちている。ディシディアは早く外に遊びに行きたいのか、耳をピコピコさせていた。
「もうすぐ着くから、準備しときな」
運転手が優しく語りかけ、交差点を左に曲がる。いかにもなアメリカの路地を抜けていくと、やがて大通りに出た。そこはとても賑わっていて、いくつも店が並んでいる。
運転手は車を端に寄せて徐行し、やがてピタリと車を止めた。右側には、大きなホテルが見えている。どうやら、ここが目的地のようだ。
「着いたぜ。お疲れさん」
「あぁ、どうもありがとう」
ディシディアはがま口の財布から代金を取り出し、彼に渡した。が、直後にハッとして手を打ちあわせる。
「そういえば、この国では『チップ』というものがあるらしいね。では、これを」
そう言って彼女が差し出したのは、一枚の金貨だった。運転手は目を瞬かせた後で、彼女の方を見やる。
「い、いいのか?」
「もちろん。楽しい話ができたんだ。それに、美味しいご飯も教えてもらったしね。ほんの礼さ」
「ありがてぇ。これで女房に美味い飯が食わせてやれるぜ。そんじゃ、荷物を下ろすか」
彼はすぐに車外に出てディシディアたちの荷物を外に出してやり、それからピッと敬礼をしてみせた。
「じゃあ、達者でな。よい旅を」
彼はタクシーに乗り込み、ゆっくりと発進させる。ディシディアはタクシーが見えなくなるまで手を振っていたが、しばらくしてほぅ……っとため息をついた。
「長い旅路だったね。少しだけ、疲れてしまったよ」
無理もない。良二はともかく、ディシディアは一睡もしていないのだから。彼女は欠伸を噛み殺しつつ、ホテルのロビーへと足を踏み入れる。中々に清潔で、高級そうなホテルだ。
「それにしても、この国の人間たちは大きいな……」
通りがかった巨漢の白人夫婦を見ながらディシディアがポツリと呟く。ともすれば『オーガ』族と見紛うほどの体格を持っているものだっている。日本人とはまるで違う背丈に良二も驚きを隠せないようだった。
が、すぐにディシディアは落ち着きを取り戻し、受付へと向かっていく。すると、そこにいたスーツに身を包んだ若い女性がニコリと微笑んできた。
「いらっしゃいませ。ご予約はお済ですか?」
「あぁ。こういうものだ」
これまたあらかじめ書いておいたメモを渡すディシディア。受付の女性はそれを見るなり、コクリと頷いた。
「イイヅカ様ですね? お部屋は八階でございます。鍵をどうぞ。オートロックですので、鍵の紛失にはご注意くださいませ」
「オートロック?」
「自動的に鍵が閉まる仕組みのことですよ。つまり、鍵を忘れたままドアを閉めてしまうと鍵を取りに行くことすらできないってことです」
「恐ろしい……よし、これは君に預けておこう。私よりも、君の方がこういったものにはなじみが深いだろう」
受け取った鍵をポケットに仕舞いつつ、良二はエスカレーターへと歩み寄った。それはそれなりの大きさを持っており、キャリーバッグを持った良二とディシディアが入ってもスカスカだ。
「じゃあ、行きましょうか」
良二が八階行きのボタンを押すと、ピコーンという電子音が鳴り響き、ドアがゆっくりと閉じられた。それから聞こえてくるのは、微かな駆動音だ。
幸いにも途中で止まるということはなく、すぐに目的の階へと到着した。ここは日本のホテルとそこまで大差ない。強いて言えば、廊下の幅が広い程度だ。
「えっと……八○ニ号室ですよね」
「リョージ。ここじゃないかい?」
カギに付属していたナンバープレートを見やりながら良二がぼやき、辺りを見渡す。と、先を歩いていたディシディアが見つけてくれた。良二は口元を緩ませつつ彼女の方に歩み寄り、鍵穴に鍵を突き刺し、一回転させる。
カチャリという音とともにドアが開かれる。そうして、まず二人の目に飛び込んできたのは――巨大なテレビだった。薄型の液晶テレビであり、日本で買えば百万はくだらないだろう。良二の自宅にある貧乏くさいテレビとは比べるのも馬鹿らしくなるほどだ。
「おぉ……ッ! リョージ! ベッドもふかふかだぞ!」
ベッドにダイブしていたディシディアがトランポリンのようにその場で跳ねてみせる。その度にスカートの裾が翻ってパンツが見えるものだからあまり直視できるものではなかったが、彼女はとても楽しそうだ。
良二は彼女と自分のキャリーバッグを部屋の隅に押しやった後で自分もベッドの上に寝転んでだらんと身体を弛緩させた。
「あぁ……確かに、これいいですね」
シーツからは微かにお日様の光がするし、枕と掛布団はどちらもふわふわの羽毛が詰められている。寝転んでいると、体がずぶずぶと沈み込んでいき、けれど確かな反発感がある。一瞬でも気を抜けば、この心地よさに体を委ねてしまいそうなほどだ。
良二とディシディアはうっとりと目を細めていたが、やがて静かに体を起こして部屋全体を見渡す。清掃が行き届いており、とても綺麗な部屋だ。枕元には洒落た照明が置いてあるなど、インテリアにもこだわりが見られる。
「ふぅむ……いい部屋だ。王族が泊まってもおかしくないくらいだよ」
「ディシディアさんって、たまに異世界トークをしますよね」
「おや、ダメかい?」
「いや、結構好きだからいいんですけどね。言ってみただけです」
クスリ、といたずらっぽく笑われてはかなわない。良二は頭をポリポリと掻き、降参を示すように首を横に振った。それを見て、ディシディアはふふんと自慢げに鼻を鳴らす。
「私はアルテラでも旅をしていたが、ここは今まで行った中でも五本の指に入るほどの宿だよ。清潔だし、何より寝具などが充実している。旅の疲れを癒すにはもってこいだ。ただ、ちょっとばかし部屋割りが悪かったかもね」
と、肩を竦めて言ってみせるディシディアの手が示すのは窓だ。その向こうには別のビルが建てられており、お世辞にも景色がいいとは言いにくい。まぁ、部屋割りに関しては正直言っても仕方のないことである。ディシディアはそちらを一瞥した後で、テレビのリモコンを取って電源を入れた。
刹那、画面に映し出されたのはアメフトの試合だ。ラインマンたちが壮絶なぶつかり合いを繰り広げ、ランニングバックが敵の網をかいくぐってタッチダウンを決める。それと同時に画面からは割れんばかりの歓声と喝采が巻き起こった。
ディシディアは目をパチクリさせながらも、それに魅入られているようだった。良二は彼女の隣に腰掛け、説明を入れてやる。
「これはアメリカンフットボールっていうスポーツですよ。こっちではとてもメジャーらしいです」
「なるほど……しかし、とてつもなく激しい試合だな。怪我はしないのか?」
「怪我をしないようプロテクターをつけているので大丈夫らしいですよ。まぁ、それでもするときはしちゃうらしいですけど」
「ほぅ。いや、それにしてもすごいな。すさまじい迫力だ」
ディシディアはグイッと体を前傾にして画面を見やる。よほど気にいったのだろう。彼女は食べ物を目の前にした時と同じくらい興奮しているようだった。
ちなみに、今戦っているのはグリーンベイパッカーズとシカゴ・ベアーズである。どちらも実力的には五分。だが、優勢なのはパッカーズの方だ。上手く立ち回り、パスを繋いでいる。
「……」
残り時間はわずか数分。ここで守り切れば、パッカーズの勝利である。だが、ベアーズもただで終わる気はないらしい。死に物狂いでボールを取りに行っていることが画面越しに伝わってきた。
その様を、ディシディアは息を呑んで見やっている。まさしく手に汗を握る一戦だ。彼女は息をするのも忘れているようで、顔を真っ赤にして結末を見守っていた。
パッカーズのクォーターバックが放り投げたボールをワイドレシーバーがキャッチ――する寸前で、ベアーズのコーナーバックがインターセプトする。かなりガタイのいいコーナーバックはその体格に似合わぬスピードで疾走していく。
「おぉっ!」
興奮したのか、ディシディアは意図せず立ち上がって拳を握りしめる。そうしている間にもコーナーバックはフィールドを駆けていく。が、パッカーズの守備は甘くなかった。
横からのタックルを浴び、地面を転がるコーナーバックとボール。そして数秒後、聞こえてくる試合終了の合図と歓喜と落胆の声。悲喜交々の中幕を下ろした試合を見ていたディシディアはほぅっと息を吐き、ベッドにへたり込んだ。
「……すごい試合だった。思わず見入ってしまったよ」
「みたいですね。気に入ったみたいで何よりです」
ディシディアはコクリと頷きを返すなり、体を振り子のように揺らしてからその反動を利用して体を起こして再びテレビを見やった。
「シカゴ・ベアーズ、ということはこの市のチームかい?」
「えぇ。パッカーズは……ウィスコンシン州のチームらしいですね」
「ほほぅ。なるほど。ベアーズとパッカーズ、どちらのチームのゆかりの地に行ってみたいものだ」
ディシディアはククク、と喉を鳴らした後で、大きく息を吐いて良二を見やる。彼は一瞬驚いたように身を強張らせたが、すぐに居住まいを正した。
ディシディアはごほんと咳払いをした後で、ピッと人差し指を立てた。
「リョージ。君に《自動通訳》の魔法をかけてあげよう。このままでは、コミュニケーションに支障が出るだろうしね」
「すいません。お願いします」
良二はぺこりと頭を下げ、グッと目を固く瞑った。だが、そんな彼を労わるようにディシディアが彼の額を優しく撫でる。
「そう緊張しなくていい。すぐに終わるから、楽にしていたまえ」
ディシディアの小さな口が微かに動く。と同時にその指先に淡い緑色の光が宿り、良二の体を優しく包み込む。まるでぬるま湯の中に使っているような心地よさを感じたのも束の間、良二は目の前が開けていくような錯覚に見舞われた。
「これは……?」
良二は目を瞬かせながら自らの体を見やる。外見的には目立った変化はない。だが、体の内から力が湧き上がってくるような、これまでに得たことがない感覚があった。
そんな彼に対し、ベッドの上にちょこんと正座しているディシディアは優しく語りかけてきた。
「リョージ。テレビの音を聞いてごらん?」
言われるがままテレビから聞こえてくる声に耳を傾ける。すると、驚いたことに英語ではなく日本語が聞こえてきた。これまではさっぱりだったが、今は簡単に内容が理解できる。だが、やはり少しばかり違和感があった。
驚愕に目を見開く彼を見て、ディシディアは安堵のため息を漏らす。
「どうやら、無事に魔法はかかっているようだ。が、君には魔力耐性がない。体がビックリしている状態なのだろう。今日は安静にしておくのが吉だろうね」
ディシディアたちのような魔力を有している存在ならともかく、人間界にいる良二には魔力耐性がない。だからこそ、魔法をかけられた場合体がそれに慣れるまでに時間がかかるのだ。
自分の体のことはよくわかるのだろう。良二は頷き、それから窓の外を見やった。
「じゃあ、早いですけど夕飯を食べに行きますか?」
「うん。そうだね。確か、ホテルの前にファストフードの店があった。そこでいいかい?」
「もちろん。早く行きましょう」
良二は頷き、ベッドから立ち上がる。ディシディアも彼に続き、共に部屋から出た。そうして、今度は一階へと下りていく。
その間も、ディシディアは良二の体を気遣うのは忘れていなかった。彼女はチラチラと不安げな視線を送ってきて、その度に良二が苦笑を返す。
「大丈夫ですよ。そんなに心配しなくて」
「だが、万が一ということがある。もし何かあったら……」
「そんな顔をしないでください。俺はディシディアさんのことを信用しているんですから」
サラリとそんなことを言ってのける良二虹と目を向けた後で、ディシディアは額に手を置いて大きなため息をついた。
「全く、君は相変わらずだな……まぁ、嫌いではないがね」
などと言っているうちに一階へと到着し、二人はホテルの外へと歩み出る。ちょうど右端にはメキシコ料理屋があり、その横には日本でもよく見られるアイスクリームチェーン店があった。
「では、行こうか」
ディシディアが向かったのはメキシコ料理屋だ。ドアを引くとベルがカランコロンと軽快な音を立て、中にいた男性たちがこちらに視線を送ってくる。
ディシディアは彼らに軽く会釈を返しつつ、レジへと向かった。が、当然のごとくメニューは英語で書かれている。彼女はポリポリと頬を掻きながら、レジの男性へと視線を向けた。
「すまない。この店のオススメは何だい?」
「ああ、それならブリトーだね。セットがお得だよ」
「なら、それを二つ頼もう。いいかな? リョージ」
「えぇ。というか……やっぱりすごいですね、魔法って。めちゃくちゃ便利じゃないですか」
自動通訳のおかげでレジの男性の英語が簡単に理解できるようになった良二は目をキラキラと輝かせている。ディシディアは一瞬だけ口の端を吊り上げたが、すぐに首を横に振った。
「だが、頼りっきりではいけないよ。特に君はまだ若いのだから、勉学に励みたまえ」
「……はい。頑張ります」
「よろしい。では、ご褒美だ」
彼女は少しばかり静かな口調になって告げ、今しがたサーブされたばかりのブリトーのセットを良二へと手渡す。良二はそれを受け取ってから、ディシディアと共に窓際の席へと腰かけた。そこにはタバスコなどの調味料が一式置いてある。どうやら、ブリトーに使うようだ。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
ディシディアと良二は手を合わせ、ブリトーを包んでいるアルミホイルを剥がす。すると中から大きなブリトーが顔を出してきた。まだ温かく、食欲をそそるものである。
良二はゴクリと喉を鳴らし、勢いよくかぶりついた。
直後、中からパラパラとした米が躍り出て、続けて熱で溶けたチーズがとろりと流れてくる。辛いサルサソースは舌をビリッと痺れさせるほど強烈だが、それは中に入れられている瑞々しいレタスとトマトが緩和してくれる。
牛ミンチは塩こしょうで下味がつけられているのでそれ単体で食べても十分美味いがサルサソースや他の具と合わさった時にこそ、その真価は発揮される。
モチモチの生地の中でいくつもの素材たちがそれぞれの良さを引き出し合う様はもはや芸術の域だ。この小さなブリトーの中に、一つの秩序が生まれている。決して争いは怒っていない。あるのは、ただただ見事な調和だ。
咀嚼している時に感じるのは至福のみ。違う食感と味わいを持った食材たちのハーモニーを堪能するのには余計な感情などいらない。良二は目を瞑りながら、もぐもぐとそれを咀嚼していた。
「……美味しいですね、ディシディアさん」
やがて口の中のものを嚥下した彼はディシディアの方を見やる。が、彼女は顔を真っ赤にしたままドリンクを煽っているだけだ。ブリトーは一口分齧られた程度で終わっている。
それを見た瞬間、良二はハッと目を見開いた。
「か、辛かったんですか?」
返されるのは、確かな首肯。確かに、ブリトーに入れられているサルサソースの辛さは日本のものとは比べ物にならない。レタスなどで緩和されていても、ディシディアには耐えられなかったのだろう。
彼女はごくごくとコーラを飲んだ後で、プハッと息を吐いた。
「……すまないが、食べてもらえるか?」
「それはいいですけど……後で、別の夕飯買いますか?」
良二はちょうど目の前に見えているコンビニエンスストアを指さす。ディシディアはわずかに思案気な表情をしてみせたが、やがてゆっくりと頷いた。
「わかりました。じゃあ、食べたら行きましょう」
「あぁ。ただ、急がなくていい。よく味わって食べるといい」
目尻に涙を浮かべながらも大人びた発言をするディシディアが少しだけおかしくて、良二はぷっと吹き出してしまった。
無論この後、ディシディアから脇腹を小突かれたのは言うまでもない。