第三十五話目~アメリカのハンバーガー!~
『間もなく着陸態勢に入ります。シートベルトをお締めになって~……』
しばらくして、そんなアナウンスが聞こえてきた。時刻は、到着予定時間の十分前。この調子ならば、間違いなく予定よりも早く到着することだろう。
ディシディアはシートベルトをしっかりと締めつつ、横で顔面を蒼白にさせている良二を見やった。彼は目を泳がせながら彼女の方を見て、力なく笑う。それを見たディシディアはスッと目を細め、彼の手に自らの手をそっと添えた。
「やっぱり、怖いかい?」
「……えぇ、少し」
「なら、しばらくこうしておこう。これならば、少しはマシになるだろう?」
キュッと手を握られ、気恥しさと頼もしさがこみ上げてくるのを感じながら良二は静かに目を閉じて息を吐く。少なくとも、離陸の時ほどの恐怖はない。
徐々に高度が下がっていき、奇妙な浮遊感が体を包んでいても、隣にディシディアがいてくれるという安心感がある。良二は固く目を瞑りながら、ほぼ無意識のうちにディシディアの手を握りこんでいた。
そうこうしている間にも飛行機は着陸態勢に入っていき、やがてシートベルト着用を促すアラームが鳴り響く。窓の外には飛行場が映っており、地面はもはや目と鼻の先であった。
そうして――ガシュッというタイヤが擦れる音と共に不規則な振動が良二たちを襲う。ジェットコースターよりもよっぽどスリリングな瞬間だ。
「……ふぅ」
飛行機のスピードが次第に緩まっていき、徐行をし始めたころになってようやく良二は目を開けた。彼は緊張の糸が解れたのか、ふっと体を弛緩させる。その様を横で見ていたディシディアは彼を安堵させるような温かい笑みを浮かべてから、わずかに赤くなっている右手を引っ込めた。
「……さて、ではそろそろ準備をしようか」
ディシディアは自分のポーチなどを膝の上に置き、服のしわを手で伸ばす。良二も自分のカバンを座席の上にある荷物置きから取り出し、周りの様子を確認する。すでにほとんどの人々が準備を終えて降りていっている状態だ。ここで行っても問題はないだろう。
彼は静かに頷いてから、ディシディアと視線を交わした。
「じゃあ、行きましょうか」
「あぁ。だが、少し待ってくれ」
彼女はそう断るや否や、隣でぐぅぐぅと眠っている龍の肩をトントンと叩く。数度ほど叩くと彼の口から微かな呻きと大きな欠伸が漏れた。
「やぁ、おはよう。もう着いたみたいだよ」
まだ半分寝ぼけていた状態らしき龍はごしごしと目を擦り、ディシディアの方を見やる。それから辺りの状況を確認して、納得したように首肯を返した。
「起こしてくれたんだ。ありがとうね、ディシディアちゃん」
「どういたしまして。私たちはこれから降りるんだ。楽しい話ができてよかったよ。それでは、また」
「あ、待って」
去ろうとするディシディアに制止をかけ、龍は胸元の内ポケットから名刺を取り出してみせる。
「これ、俺の連絡先。もし長崎の方に行くことがあったら連絡してよ。少なくとも、オススメのご飯やくらいは教えてあげられるからさ」
「ありがとう。君に出会えてよかった。それでは、またいつか」
「うん。元気でね。そっちのお兄さんも」
龍は良二とディシディアにパチリとウインクを寄越した後で、自分も出発の準備をし始める。ディシディアは彼からもらった名刺を例のがま口財布に仕舞いこんでから、通路へと躍り出た。
「ディシディアさん。いつの間に仲良くなったんですか?」
「君が寝ている時さ。気のいい御仁だったよ。色々と面白い話も聞けたしね」
ディシディアは無邪気に笑いつつ、飛行機を後にする。それから長い通路を抜けると、右の方にエスカレーターが見えた。それを下りる途中で目に入るのは、超巨大なアメリカ国旗だ。
その勇壮たる佇まいに、思わず二人は息を呑む。
「おぉ……ッ! これがアメリカの国旗か。中々に派手な出迎えじゃないか」
ディシディアはこのスケールのでかさに度肝を抜かれたらしく、唖然としていた。だが、それも当然だろう。国旗はガラス張りの壁を埋め尽くさんばかりの大きさだったのだから。
よくよく見れば写真を取っているものも見えたりと、他の観光客にとっても好評のようだ。盛大な出迎えを受け、期待値がまたグンと上がる。
「あ、ディシディアさん。パスポートを用意しておいた方がいいですよ」
と、良二が注意を寄越す。何事かと国旗から目を離して彼が指差している場所を見やれば、入国審査場があった。いくつものゲートがあり、そこで検閲が行われている。
ディシディアはポーチの中からパスポートを取り出し、列へと並ぶ。良二もそこに並び、自分たちの番が来るのを待った。
検査、と言っても要は入国の理由を問われるだけでそこまで大仰なものはなされない。そのため、あっという間にディシディアの番がやってきた。彼女は受付の黒人男性に促されるまま、前に出る。
「アメリカに来た理由は?」
「観光さ」
スラリと答えたディシディアに対し、男性が驚いたように目を見開き口笛を吹く。
ディシディアは《自動通訳》の魔法を常に自分に対して用いている。そのため、自分には相手の言語が母国語――つまりはアルテラでの言語として聞こえ、相手には自分の言葉が母国語――この場合なら英語に聞こえるのだ。
黒人男性は一度咳払いをした後で、人懐っこい笑みを彼女に向けた。
「ずいぶん流暢な英語を喋るね」
「それは、まぁ。私の努力の賜物さ」
流石に魔法を使っているから、とは言えない。だが、男性は面白そうに笑い、持っていたスタンプを彼女のパスポートにポンッと押した。
「なるほどね。楽しんでいきなよ。ようこそ、アメリカへ」
「あぁ、ありがとう。そちらもよい一日が過ごせますように」
ディシディアは彼に一礼し、その場を後にして良二が来るのを待つ。彼はしばらく男性と問答を繰り広げてから、くたびれた顔をしてディシディアの方にやってきた。
「今ほど英語をもっと勉強しておくべきだったと思ったことはありませんよ……」
「あぁ、そういえば君には自動通訳をかけていなかったね。ふむ……そうだな。ここでは人目につくから、ホテルに着いた時にでもかけてあげるよ。それまでは、私が通訳を担当することとしよう」
「すいません。ありがとうございます……さぁ、次は荷物を取りに行きますよ」
良二はディシディアの手を引き、荷物受取所まで向かう。すでにそこは多くの人で溢れかえっており、大蛇のようにうねるベルトコンベアーの上には無数のスーツケースやキャリーバッグが乗せられていた。
「えっと、俺たちのは……あ、あれかな?」
良二は流れてきたキャリーバッグを手に取り、控えの番号と照らし合わせてみる。どうやらそれで間違いないようだ。その横にあったディシディアのキャリーバッグも取り、出口へと向かっていく。
「案外すんなりと通れたね」
「えぇ。おかげで遊べる時間が増えましたよ」
良二がいたずらっぽく笑うと、ディシディアも口の端を不敵に吊り上げてみせた。
それから出口へと向かっていき、自動ドアの辺りまで来たところで――ディシディアがピタリと足を止めた。彼女は大きく息を吐き、大きく足を踏み出す。
刹那、ドアが開かれ外の空気が流れ込んでくると同時言いようのない感情が押し寄せてきた。まだ見ぬ地への期待と、不安、高揚……それらが混じり合い、内側から絶えず押し寄せてくる。
日本とは違う空気、景色、人々。そんなものが絶えず視界に入ってきて、心をざわつかせる。ディシディアは無意識のうちに口の端をニッと吊り上げており、その横にいる良二も目をキラキラと輝かせていた。
「さぁ、行こうか。ここからが、私たちの旅の始まりだよ」
「えぇ。それじゃあ、まずはホテルに行きましょうか。ここからだと……タクシーで行った方がいいかもですね」
電車やバスなどもあるにはあるが、良二は英語があまり得手ではないし、ディシディアはそもそも英語が読めない。もし路線を間違えでもしたら、それこそ終わりだ。そのため、土地勘もあるタクシーを使うのは一番の安全策である。
幸いにも、出口付近には何台ものタクシーが止まっていた。その中で二人が寄ったのは、手近にあった黄色いタクシー――通称イエローキャブだ。運転席に座っていた中年男性はハッとして外に出てくる。
「どうも。ご利用かい?」
「あぁ。ここまで頼むよ」
ホテルの住所が書かれたメモをやると男性は何度か頷き、それからグッとサムズアップをしてきた。
「オーケー。それじゃあ、乗ってくれ。その前に、荷物を預かるよ」
彼は二人の荷物をタクシーの荷台に乗せ、それから恭しくドアを開けてくれた。まずはディシディアが乗り込み、続いて良二が足を踏み入れる。
シートはふかふかとしていて、いい匂いもしている。どうやら、アタリを引いたらしい。
「幸先のいいスタートですね」
「あぁ。それでは、楽しんでいこうじゃないか」
二人が頷き合っている間に運転手は運転席に座り、エンジンをかける。
「じゃあ、行くよ」
バルンッという音を立ててタクシーは道を走っていく。当然ながら、日本とは違う右側通行だ。ディシディアはわずかに不安げだったが、すかさず良二が優しく説明を入れる。
「アメリカでは右側通行が基本なんです。逆走しているとかではないですから、安心してください」
「それはわかるが、何と言うか……違和感があるな」
ディシディアの言葉に頷きつつも、良二は窓の外に視線をやった。やはり、何もかもが日本とは違う。
看板の文字全てが英語なのはさることながら、カジノの看板が堂々と設置されていたり、はたまた巨大なハンバーガー屋の看板だったりと中々に種類が豊富なのである。それらを眺めているだけでも、十分に楽しむことができた。
「すまない。窓を開けても?」
語りかけるのは、ディシディアだ。運転手はそれに首肯を返し、ボタンを押して後部座席の窓を開けてやる。すると涼やかな風がタクシー内へと入りこんできた。
気温としては、日本と同じ――大体三十度前後だろう。だが、湿度が高くないおかげでべたつくような感じはせず、うだるような暑さという感じではない。中々に過ごしやすい気候だ。
「あんたたち、観光かい? どこか行くところは決めてるのか?」
タクシーの運転手がおしゃべり好きなのは万国共通のようだ。ディシディアはやや身を乗り出して彼に言葉を返す。
「あぁ。とりあえずは、シカゴピザを食べようと思っている」
「シカゴピザか! ありゃぁ絶品だよ。シカゴ市内には色々あるから、探してみるといい。博物館があるんだが、そこの近くにある店は最高だよ。種類も豊富だし、パスタも食べられるからな」
「ほぅ。ホテルからは近いのかな?」
「う~ん。まぁ、ぼちぼちだな。歩けない距離じゃないが、タクシーを使った方がいい。知らない土地を歩くってのは結構体力がいるだろう? それに、使ってくれた方が俺たちも儲かるからな」
ゲラゲラと楽しそうに笑う運転手とクスクス笑っているディシディア。だが、良二は一人ポカンとしていた。運転手はディシディアがネイティブだと思ったらしく、かなり早口で喋っていた。そのせいで、良二はほとんどなにがなんだかわかっていない状態だった。
呆けている彼をよそに、二人はまだまだ会話を続けていく。
「博物館で思い出したが、水族館――『シェド・アクアリウム』って所があるから行ってみるといい。結構面白いぜ? 海の生物に実際に触れるからな」
「それは本当かい!?」
運転手の言葉にディシディアはグィッと食いつく。実体験を重視とする彼女にとっては、生の生物に触れられる機会は何物にも代えがたいものだ。
反応がよかったのが嬉しかったのだろう。運転手は巧みにハンドルを操りながらも言葉を続けていく。
「もちろん。俺が行った時にはチョウザメを触ったし、後は……エイだな。他にも色々あったが、やっぱりその二つは圧巻だったよ」
「おぉ……リョージ! 明日は水族館に行こう! いいだろう!?」
「えぇ、いいですけど……その、すいません。何を話していたんですか?」
「あぁ。彼からオススメの観光地を聞いていたんだ。中々に詳しいようでね。興味が尽きないよ」
「ハハッ! そう言ってもらえると嬉しいぜ! あ、けど気をつけとけよ? 夜には出歩かない方がいい。少なくとも、一人ではな。特に人通りの少ない路地とかはギャングがいるから、早めにホテルに帰ることを勧めるよ」
正直、ギャングなどはディシディアの相手ではない。彼女が本気を出せば、一蹴することだって容易だろう。
だが、それを言っても納得してもらえないことはよくわかっている。
「ご忠告感謝するよ。では、夜には出歩かないようにしよう」
だからこそ、素直にその言葉に頷いた。男性はしばし真剣そうな表情をしていたが、すぐに快活そうな笑みを浮かべて良二を親指で指差した。
「そっちの兄ちゃんは何か興味があることはないのかい?」
「リョージ。彼は君が何に興味を持っているかを聞きたいようだ」
「えっと……そうですね。俺は色々と買い物がしてみたいです」
ディシディアがそれをそのまま運転手に伝えると、彼は「それなら」と前置きをしてからバックミラー越しに良二を見つめた。
「なら、ネイビーピアなんてどうだい? あそこには色々店もあるし、お土産を買うにはもってこいさ」
ディシディアの通訳を受けた良二はすぐにメモを取り出して『ネイビーピア』と書き綴る。その様を横目で見ながら、ディシディアは運転手に再び語りかけた。
「そこではどんなものが買えるんだい?」
「何だって買えるよ。服、アクセサリー、小物や本……それに食べ物屋もあるしな」
「ほぅ。なら、是非行くとしよう」
「それがいい! それなりに滞在するんだろう? だったら、色々行ってみるといいさ。もちろん、シカゴ以外にもな」
彼はそう言いつつ、ハンドルを右に切った。ふと窓の外に目を向けてみれば、まだまだ目的地には遠いのか、人と車の流れは少ない。
ディシディアは居住まいを正しつつ、運転手に問う。
「後、どれくらいで着くんだい?」
「まぁ、もうすぐさ。あ、そうだ。あんたたち、昼飯は食ったか?」
二人が首を振ると、運転手はタクシーのメーターを一度止めて、ハンドルを右に切る。そこにあったのは、ハンバーガー屋だ。と言っても、日本に進出しているような有名チェーン店ではなく、アメリカでは有名なチェーン店だろう。中々に綺麗な建て構えをしている。
運転手はドライブスルーの列に並びながら、後部座席の方に体を向けひょいと肩を竦めてみせた。
「俺もちょうど腹が減ってたんだ。ドライブスルーで悪いが、何か買っていこうぜ」
「賛成だ。メニューは……お任せで頼むよ」
運転手はその言葉に小さく首肯を返しつつアクセルを踏み込む。そうしてインターホンのところに来るなり、グイッとそちらへと体を寄せた。
「それじゃ……チーズバーガーのセットを三つ。飲み物はコーラとマウンテンデューとルートビアで」
さりげなく聞こえた悪魔の飲み物の名を聞き、ディシディアがブルリと体を震わせる。だが、なぜそんな反応をしているのかわからない運転手はそのまま進んでいき、窓口でできあがったばかりの商品を受け取り、良二に渡した。
「ほらよ。先に選んでくれ。俺は残ったのでいいから……つっても、飲み物以外は一緒だけどな!」
一人ゲラゲラと楽しそうに笑う運転手をよそに、ディシディアと良二は紙袋の中のハンバーガーと飲み物、そしてポテトを見つめる。どれもこれも美味そうで、見ているだけでよだれが溢れてきた。
「では、いただきます」
ディシディアはチーズバーガーとコーラ、それからポテトを取り出した。チーズバーガーとポテトは出来立てなのか熱く、コーラは対照的にキンキンに冷やされている。どちらとも、食べるには絶好のタイミングで提供された品だ。
彼女はまずチーズバーガーを手に取った。ずっしりと重く、バンズの隙間からはトロトロになったチーズとスライスの牛肉、そして肉厚のパティが覗いていた。さらに、バンズの上にはピクルスが乗せられている。どうやら、日本のハンバーガーとは少しばかり違うようだ。
ディシディアはその小さな口を目いっぱいに広げてチーズバーガーにかぶりついた。すると、驚くほどの肉汁が溢れ出てきて口内を満たしていく。
肉厚のパティからは肉汁がこれでもかと溢れ出てくる。薄切り肉は噛めば噛むほど肉の美味さが染み出てきて、パティとはまた別の食感と味わいを提供してくれた。
トロトロになったチーズによってコクと深みが倍増し、胃袋と舌に力強いインパクトを与えてくれる。ガツンと響き、それでいて全くくどくない。むしろ「もっと食べたい」と思わせてくれる類のものだ。
バンズは香ばしく焼かれており、肉やチーズとの相性も抜群である。肉とチーズの旨みを全て逃すことなく受け止め、加速させているのだ。焼かれているおかげで肉汁が染みすぎてふにゃふにゃになっているということもなく、見事な仕上がりだ。
ここだけ見れば、濃厚なチーズバーガーのようにも思える。だが、そこで一役を買っているのがピクルスだ。酸っぱく、それでいて口の中をサッパリさせてくれるピクルスがあるからこそ、味がまとまっている。
パティ、バンズ、チーズ、ピクルス……この四つが複雑に、そして密接に絡み合うことによって高度な味わいが生まれているのだ。喉を過ぎていくのが惜しいとすら思えてしまう一品……アメリカに来て最初の品としては、十分すぎるものだ。
「では、次はこちらを」
ディシディアはポテトに手をつける。これは『クリンクルカットポテト』というギザギザにカットされたポテトだ。外はカリッと、中はほくほくとしていて塩がしっかりと効いている。
ハンバーガーの味に飽きたころにこれを食べると、またハンバーガーが食べたくなる。そうして飽きると、またポテト……といったようにこの二つで完璧な循環が形成されていた。
「美味しいですね。ディシディアさん」
「そうだな。ハンバーガーとは、こんなに美味しいものだったのだな」
ファストフードとして軽んじられつつあるが、ハンバーガーはかなり色々な種類がある。国によって特色があり、国民性が最も出る食べ物の一つだ。
アメリカの特色としては『豪快な味付け』と『最高の満足感』といったところだろう。少なくとも、このハンバーガーに関しては当てはまるものだ。
「……最初がこれなら、今回の旅も期待できそうだね」
コーラをチビチビと啜りつつ、そんなことを呟くディシディア。彼女は窓の外に流れゆく景色を眺めながら、次に出会う料理へと思いを馳せていた。