第三十四話目~二人で食べるデニッシュ~
さて、それからしばらくして。ディシディアと男性――西住龍は楽しげに談笑していた。
「いやぁ、実に興味深い。君の故郷は、長崎なんだね?」
「うん。それも、五島列島のそのまた小さな島さ。よかったら、おいでよ。君は山育ちだったんだろう? きっと気に入るよ。海は綺麗だし、ごはんは美味しいし、いいことづくめさ」
「はは、アメリカから帰ったらね。いつか行ってみるよ」
「それがいいね。やっぱり、こんな旅の縁もあるんだなぁ……できれば、あっちのお兄さんとも話してみたかったけど」
彼の視線は、ディシディアの向こう――良二へと向いていた。彼は未だにぐっすりと眠っている。よほど飛行機が苦手なのか、体が起きるのを拒否しているようにも思えた。
ディシディアはため息交じりに肩を竦めて首を振る。
「まぁ、仕方ないさ。それとも、私が相手では不服かい?」
「そんなことはない。君と話しているととても面白いよ。なんていうか、俺たちとは違う感じがして新鮮なんだ。擦れていないっていうか……まぁ、君がまだ子どもだからかもね」
男性は陽気に笑い、ガシガシと頭を掻き毟った。その後で、彼はふぁああ……と大きな欠伸をしてみせる。
「……すまない。そろそろ限界が近いようだ。悪いけど、ここで寝るとするよ」
「あぁ。色々と話せて楽しかったよ。では、よい夢を」
龍は小さく会釈した後で、持ってきていたらしきアイマスクと耳栓をしてぐぅぐぅと大きないびきを立てながら眠りに落ちる。
「さて、私もそろそろ限界かな……」
そう思い、シートをやや後ろに倒したその時だった。
パッと照明がつき、一気に客室内が明るくなったのは。
「……タイミングが悪いな」
スクリーンに映し出されている機体情報を見るに、どうやら後数時間で到着のようだ。だが、間が悪いことにディシディアは一睡もできていない。アイマスクがあればよかったものの、こうも明るい中では眠りに落ちることはそう容易ではない。
自らに睡眠魔法をかけるという手もある。が、ここはあいにく客室内だ。見られてしまえば、言い訳はできない。
「……仕方ない。今さら寝てもキツイだけだろう。このまま起きているとするか」
言いつつ、ディシディアは映画を見始める。ずっと座りっぱなしで体が固くなってはいるが、だるさはないのが唯一の救いだ。
それに、不眠不休でいるのには比較的慣れている。大がかりな儀式を行う際には数日間不眠不休で術式を組み立てたこともあったし、旅をしている頃は危険な森などで野宿をするわけにもいかず休まず歩き続けたことだってある。体調を崩すということはないだろう。
「……それにしても、綺麗な景色だな」
チラリと窓の外へと視線を移動させると、白い雲の草原が目に映りこんできた。広々としていて、どこまでも続く雲に乗れたらどんな気分だろう……そんなことを考えながら、ディシディアは頬杖をついた。
アルテラにも雲があり、空があった。そのどれもがこの世界に勝るとも劣らない美しさだったのはよく覚えている。
「……たまには、あちらが恋しくなるな。ふふ、これがホームシックという奴か」
一人含み笑いをしながら、ディシディアはそっと目を閉じた。脳裏に浮かんでくるのは、かつての旅の記憶だ。
まだ世間知らずだった彼女と共に旅をしていた傭兵たち。彼らとは、色々な思い出を作ってきた。見たことも内地に共に足を踏み入れ、魔物たちと壮絶な戦闘を繰り広げ、そうして互いに支え合ってきた。
いつしか傭兵と雇い主、という垣根を超えて本当の友人と呼べるようになったほどだ。
「……彼らにも、是非この光景を見せてあげたかったな」
飛龍では、どうしても雲の上まで行くことはできない。急激な気圧と酸素量の変化にディシディアたちの体が付いていけないからだ。
もし、ここに彼らがいたらどんな反応をしてくれるだろうか?
そんな他愛ない妄想にふけりながら、ディシディアはまたしてもククッと喉を鳴らした。
「嗚呼、私も年を取ったものだね。過去の記憶を思い出して、それに思いを馳せるとは」
自嘲気味な笑みを浮かべながら、ディシディアはやれやれ、といったふうに首を振り、すっかりぬるくなったオレンジジュースで喉を潤す。酸味と甘みが喉を通り抜けるのを待ってから、チラリと横を見やる。相も変わらず、良二は安らかな寝息を立てていた。
「……きっと、彼らがいたらこういうだろうね……『俺たちのことは忘れて、先に進め』と。忘れられるわけがないだろうに……だが、そうだね。少なくとも、私には彼が、リョージがいる。これからは、彼と共に新しい思い出を作っていくさ」
彼女はそれだけ言って、宙に指を走らせる。だが、そこに魔力は介在していないので指先に光が灯ることもなく、描いた軌跡が色とりどりの文字となって浮かび上がることもない。ただ、それでも彼女は指を走らせ、魔法文字を描き続ける。まるで、天国にいる友人たちに手紙を送るように。
「……ディシディアさん?」
「ん? あぁ、おはよう。起きていたのかい」
ふと声がかかり、ディシディアは横を見てふっと頬を緩めた。良二は瞼を擦りながら、ぺこりと頭を下げてくる。
「今まで起きてたんですか?」
「あぁ。そこの御仁と色々話しながらね。まぁ、彼はもう寝ているけれども」
「……そうだったんですか。すいません、俺、爆睡してて……」
「謝ることじゃない。ただ、機内食を食べそこなっていたが大丈夫かい?」
「たぶん、大丈夫ですよ。だって、ほら」
彼が指差す先からは、客室乗務員が例のごとくワゴンを引きずってやってきていた。それを見て、ディシディアは「ああ」と頷く。
「なるほど。いい時間帯に目覚めたようだね」
「えぇ。それと……ディシディアさん。さっき、何か言ってませんでしたか? 俺がどうとか……」
「いいや。寝ぼけていたんじゃないかい?」
「……かもしれませんね。ふぁ~あ」
良二は大きなあくびをし、ぐ~っと背伸びをしてみせる。そうしているうちに客室乗務員はやってきて、二人に優しく微笑みかけてきた。
「おはようございます。こちらをどうぞ」
渡されたのは、袋詰めされたデニッシュだった。かなり大きく、ディシディアの両手から少しはみ出すくらいである。
「よければ、お飲み物も追加いたしますが、いかがなさいますか?」
「じゃあ、コーヒーを頼む」
「俺もお願いします」
「かしこまりました」
甘いデニッシュとアツアツのコーヒー。これ以上ないほどの最強の布陣だ。ディシディアは静かに手を合わせ、
「いただきます」
デニッシュが入っている袋を破き、そこからデニッシュを取り出した。表面には砂糖がまぶされているが、付属の紙ナプキンがあるおかげで手がベタベタになることはない。
ディシディアはその小さな口を目いっぱい開けてかぶりつき、耳をぶるっと震わせた。
外はサクサク、中はしっとりしている。甘く、それでいてしつこくない。コーヒーと交互に呑むことで互いの味がより強調され、楽しむことができる。
バターの濃厚な風味が鼻孔をくすぐり、食欲を刺激する。朝にはうってつけの一品だ。
「美味しいな」
「そうですね。とても美味しいです」
(……たぶん、一緒に食べる相手がいるからでもあるだろうけどね)
このデニッシュは市販のものを使っている。もちろんいいものを使っているのだろうが、やはり市販は市販。大量生産のため、味は中の上といったところである。
だが、それでも美味しく感じるのは一人じゃないからだろう。誰かと一緒に食べる食事というのは美味しくなるものだ。
「……ありがとう」
「え? 今、何か言いましたか?」
「何でもない。まだ寝ぼけているんじゃないかな?」
これ以上追及されるのを避けるように、ディシディアはデニッシュを頬張る。その時の彼女の横顔は、非常に晴れやかでキラキラとしていた。