第三十三話目~あまりもののアイスクリーム~
機内食を食べてからしばらくして――飛行機内は真っ暗になっていた。時差ボケを回避するためにあえて照明を落とし、体を慣れさせようとしているらしい。そんな中、ディシディアはじっくりと映画を鑑賞していた。
すでに何本見たのかすら覚えていない。ただ、二時間構成の映画を見続けているのだからそれなりの量にはなっているはずだ。
本来なら、疲れこけて眠れているはずだろう。だが、ディシディアはどうにも寝られなかったのだ。それは期待と興奮が入り混じっているからかもしれない。
「……はぁ。しかし、そろそろ疲れたな」
彼女は目頭を押さえ、大きなため息をつく。ずっと映画を見続けていたのだ。無理はないだろう。彼女は一旦映画を見るのを中断し、そっと背もたれに体を預ける。
良二に限らず、機内にいる人々のほとんどは眠りに落ちていた。ただ、ぽつぽつと読書灯が付いている。耳を澄ませば、誰かの話し声も聞こえた。
「……リョージめ。すやすやと気持ちよさそうに……結局、機内食も食べ損ねているじゃないか」
ポツリと呟き、横で眠る良二の手を握る。離陸時はあれほど動揺していたというのに、今はぐっすりと寝ていた。その穏やかな寝顔を見つつ、ディシディアはコーヒーを煽る。
砂糖をたっぷりと入れた特別仕様だ。優しい甘さが口の中にじんわりと広がっていき、疲れまでも取り除いてくれるようだ。
「……ふぅ」
ひとつため息をつき、窓の外を見やる。と、隣に座っている男性とバッチリ目が合ってしまった。彼はにこやかな笑みを浮かべ、ヘッドホンを外す。
「寝れないのかい?」
「あぁ。少し、興奮していてね」
「俺もさ。よかったら、少しお話しないかい? 話をしていたら、いつか眠くなるかもしれないだろう?」
それを無下にすることはできない。ディシディアは頷き、彼の方に体を向けた。
「そうだね……君は旅行でアメリカに行くのかい?」
「あぁ。そちらは?」
「俺は仕事さ。ほら」
それを示すように、彼は着ているスーツを引っ張ってみせる。すると服の下の肌は真っ白で、真っ黒に焼けた顔との対比が読書灯によって照らされた。どうやら、営業マンのようだ。
「今回は商談でね。少し海外に留まる予定なんだ」
「ほぅ。ちなみにどちらに?」
「シカゴにね。大体、三か月ほどかな?」
「なるほど……大変では?」
「いやいや、そうでもないよ。だって、仕事が終われば観光し放題だからね。むしろ、観光がメインといった感じさ」
わざとらしくおどけてみせる彼を見ていると、ついつい笑いがこぼれてしまった。ディシディアは口元を押さえながら、続けて問う。
「海外に行ったことは?」
「いやぁ、恥ずかしながらこれが初めてでね。正直、緊張しっぱなしさ」
「その割には楽しげだが……」
「まぁね。でも、君はその答えを知っているんだろう?」
図星をつかれ、ディシディアがグッと息を呑む。それを見て、男性は優しく微笑んだ。
「やっぱりさ、旅って不安だけど楽しさが詰まっていると思うんだよ。知らないことを知るって、楽しくないかい?」
ディシディアは耳と頭をブンブンと上下させ、肯定を示す。そこまでの反応が得られるとは思っていなかったのか、男性は驚いたようにしつつもさらに告げた。
「俺はね、これまでずっと小さな島にいたんだ。社会人になるまでね。やっぱり、井の中の蛙っていう言葉は本当だと思ったよ。この世界は、未知で満ちている。ダジャレみたいだけどね」
「私もそう思うよ。この世界は……私たちを飽きさせない」
「ふふ、君はまだ子どもなのに、どこか達観した視点を持っているね。その通りだと俺も思うよ。たぶん、百年も生きられない人間にとってこの世界はとっても小さな箱庭だよ……」
ディシディアは彼の言葉に深く頷く。おそらく、日本時刻では今はちょうど深夜だ。深夜テンションになっているのかどこか詩的なことを言ってみせる彼の頬はわずかに赤く染まっていた。
「っと、ごめんね、俺の話ばかり。退屈したかい?」
彼は気恥しさと誇らしさが混じり合ったような表情になって告げ、ディシディアはフルフルと首を振って否定を返した。
「いいや、退屈はしていないよ。むしろ、もっと聞きたいくらいだ」
「そうかい? じゃあ……」
と、彼が続けようとした時だ。
空気を読まず、ディシディアの腹の虫がぐ~っという間延びした音を立てたのは。
彼女はハッと両手で腹部を押さえ、申し訳なさそうに笑みを浮かべる。
「す、すまない。どうしてもお腹が空いてしまって……」
「気にしないで。そうだ。ちょっと待ってて」
彼は朗らかに言いつつ、座席脇のボタンを押す。するとしばらくして客室乗務員がやってきて、二人を見渡してきた。男性は彼女の姿を見るなり、ピッと人差し指を立ててみせる。
「すいません。何か小腹を塞げるものはありませんか?」
「あぁ、それなら……しばらくお待ちください」
女性はそれだけ言ってその場を去り、数分もしないうちに戻ってきた。その手には、二つの容器が握られている。どうやら、アイスのようだ。
「はい。あまりものですが、どうぞ」
「どうもありがとう。はい」
「ありがとう」
ディシディアは男性からアイスを受け取り、蓋を開けた。
目に入ってくるのは、真っ白い大地――どうやら、バニラアイスのようだ。氷の粒が読書灯の光を浴びて煌き、幻想的な光景を醸し出している。
ディシディアはごくりと息を呑み、スプーンでそれを一口掬う。
口に含むとバニラの芳醇な香りと濃厚な甘みが炸裂した。ひんやりとしていて、滑らかで上品な舌触りだ。空きっ腹に優しく染みわたり、疲れを溶かしてくれるようだ。
彼女がパクパクとアイスを口にしていると、男性が慈愛に満ちたまなざしを向けてきた。
「よかったね。余ってて」
「あぁ。それにしても、ありがとう。おかげでこんなに美味しいものが食べられた」
「気にしないで。それより、今度は君の話を聞かせてよ」
「いいとも。ただし……」
「ただし……」
「このアイスを食べ終わってからでいいかい? 溶けては、もったいないからね」
ディシディアはわざとらしくもったいぶって告げる。男性は苦笑しつつも、それに確かな首肯を返した。