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第三十話目~ビールとつまみと前夜祭~

「よし、もう大丈夫ですね」


 アメリカ行が決定してから二週間後。良二は目の前に置かれたキャリーバッグを見て満足げに頷いた。すでにそこには荷物が詰め込まれている。とは言え、あちらで買うことも考えてかなりスカスカだが。

 いきなり行こうと言われた時は流石に戸惑ったものだが、いざ計画し始めると存外乗り気になってしまい、すでに航空券や渡航ビザまで取得している始末だった。

 そして、出発は明日の午前九時。成田空港から直行でシカゴ空港まで行く便に乗るのだ。


「ディシディアさん。そっちはどうですか?」


「心配いらないよ。順調さ」


 初めての海外旅行ということだったが、ディシディアはあまり緊張していないようだった。まぁ、未知に飛び込むことを好む彼女からしたら当然の反応だろう。

 彼女はキャリーバッグに新しく買った水着やら向こうで使う用のアメニティなどを詰め込んでいる最中だった。旅の準備、というのはそれだけで気持ちを高ぶらせるものである。ディシディアはニコニコとしながら鼻歌を歌っているほどご機嫌だった。


(にしても、結構すんなり行けたよな……)


 良二は内心そんなことを思う。ディシディアの金銭的補助はあったとはいえ、かなりスムーズに事が運んだのだ。ディシディアはこの世界の存在ではないため戸籍などはなく、本来ならパスポートは作れないのだが魔法によって偽造できる。

 ただ「それならどうして魔法で向こうまで行かないのか」と問うと、


「決まっているだろう? 魔法なら一瞬で着く。だが、それでは情緒がない。それに、私は飛行機というものに乗ってみたいんだ。きっと、それもまた私の好奇心を満たしてくれるだろうからね」


 ――だそうだ。ただ、本当に危なくなったときは魔法であちらに行くとのことである。

 良二は乾いた笑いを浮かべた後で、再び自分のキャリーバッグに目を移し、それを部屋の隅に寄せた。それを見ていると、いよいよ明日行くのだ、という実感がむくむくと湧いてくる。


「リョージ。これも頼む」


 どうやら詰め終わったらしきディシディアがキャリーバッグを寄越してきた。彼はそれを受け取り、自分のキャリーバッグの横に置く。ディシディアのは良二のものよりも、わずかに小さいものだった。


「さて、リョージ。明日はどんな予定なんだい?」


「予定って言うほど大げさなものじゃないですよ。朝七時くらいに起きてすぐ出発して、飛行機に乗ります。で、大体十二時間程度飛行機に乗っていることになりますね」


「十二時間! いや……なんとも遠い場所だね、アメリカというのは」


「本当ですよ。でも、もう取り返しはつかないですからね」


 良二は近くにあった財布の中から航空券を取り出し、ディシディアに渡してみせる。長方形の紙を受け取った彼女は苦笑し、ひょいと肩を竦めてみせた。


「わかっているよ。まぁ、君の言ったとおりもう取り返しはつかないんだ。せっかくだから、楽しもう」


 その言葉に良二は静かに頷き、自分の航空券を見た。席は、ディシディアの隣。三列席の廊下側である。ちなみに、ディシディアは三列の真ん中だ。本来なら窓際が欲しかったところだが、残念なことに今は夏休み期間中だ。家族連れや休みを手にした学生たちで溢れかえっている。この点に関しては、土壇場だのが悪かったと言えるだろう。


「ふふ、飛行機か。以前飛龍には乗ったことがあるが、乗り心地はいいのかな?」


「たぶん、鱗の背中よりはいいと思いますよ」


「それは楽しみだ。して、さっき調べたのだが飛行機では『機内食』というものが出るのだろう? どんな味なのか、今から興奮が止まらないよ」


 食い意地ここに極まれり、という感じだ。彼女はうっとりとした目で天井を見上げ、まだ見ぬ味に思いを馳せている。良二はそんな彼女に温かなまなざしを向けた後で、鞄の中からパンフレットを取り出した。

 そこは、シカゴ市内の観光地が書かれたパンフレットである。旅行会社に行った時にもらったものだ。

 シカゴには有名な建造物や名所が数多く存在する。それだけでなくレジャー施設や、ディシディアなら飛び上がりそうなほど美味しそうな食事を提供してくれるレストランなどもある。下手すれば、ここだけで一か月は楽しめそうなほどだ。


「っと、それはシカゴの写真だね? 私にも見せておくれ」


 ふと、自分の耳元で声が聞こえた。良二がハッとして横を見れば、ちょうど自分の右肩に手を置く形でディシディアがパンフレットを覗き込んでいた。彼女は耳にかかる髪を手で払いつつ、緑色の目でじっくりとパンフレットを凝視する。

 無論、彼女はまだ完璧に読めない。だが、反復学習の成果か、多少は読めるようになっていた。専門用語はわからないが、ひらがな、カタカナ、常用漢字はマスターしている。彼女は写真と見比べつつ、感嘆の声を漏らした。


「ほぅ。シカゴピザ、か。変わった形だね」


 彼女が見ているのは、深い鉄皿に入れられたピザだった。イタリアで食べられているピッツァとは違う、シカゴピザと呼ばれているパイのようなピザのことだ。写真でもわかるほど分厚く、チーズが滴っている。その様に良二も思わず喉を鳴らしてしまい、目ざとくそれを見ていたディシディアはふふっと軽く笑った。


「向こうに着いたら一緒に食べようか」


「ですね。後、ここもよさ気じゃないですか?」


 良二が指差したのは、シカゴ某所にあるチョコレートショップだ。写真が載っているが、そこには無数のチョコレートが映し出されている。巨大なチューブに色とりどりのチョコが入れられ、子どもたちがそこに群がっていた。


「おぉ……確かにいいね。まるで天国だ……」


 大の甘党である彼女にはそう映ったのだろう。良二はそんな彼女に追い打ちをかけるように、次の写真を指さした。そこには、何重にも巻かれたソフトクリームがある。まるで、アナコンダがとぐろを巻いたかのような長さだ。ソフトクリームだけで軽く赤ん坊の身長くらいはある。


「これはすごい……ッ! ソフトクリームの塔みたいだ」


 その夢のような光景に、ディシディアは目をキラキラと輝かせ耳を千切れんばかりに上下させていた。

 アメリカはディシディア好みの甘味を多く有している。スーパーに売っているようなお菓子やドリンクをはじめとして、店で売られているようなちょっと高級なスイーツまで、様々だ。

 この奇想天外な見た目に彼女は度肝を抜かれ、ハートを奪われてしまったようだ。が、すぐにいつもの調子に戻ってごほんと咳払いをしてみせる。


「ま、まぁ、食べるだけではない。あちらの文化を経験するつもりだよ」


「それはわかってますよ。伊達に数か月一緒にいたわけじゃないですから」


 そう。ディシディアは粗食に嫌気がさして脱走を試みたわけだが、決して食べることだけを目的として人間界を満喫しているわけではない。そこに根付く文化や、生きる人々に触れることも同時に楽しみにしているのだ。先ほど飛行機に乗る、と言ったこともそこに由来する。

 ただし、やはり食の優先順位は相当高いようで、ディシディアはパンフレットがめくられて料理の写真が映るたびに耳をピクッピクッと動かしていた。本人的には平静を装っているつもりなのだろうが、動揺が丸わかりである。


「そうだ。リョージ。聞きたかったのだが、他の地域には行かないのかい?」


「あ……すいません。それは考えていませんでした。シカゴの空港に着くので、もうそこで済ませてしまおうかと」


「なるほど。まぁ、それはおいおい考えようじゃないか。何せ、時間はたっぷりあるんだ」


 ディシディアは――言い方は悪いがこちらの世界では無職だし、特にやることもない。良二の大学も、始まるのは十月の頭だ。まだまだ時間はあるし、アメリカには数週間程度滞在する予定である。そう急くことではない、と考えたディシディアはゴロンと床に寝転がり、再びパンフレットを読み始めた。


「あぁ、楽しみだ。待ち遠しいよ」


「寝ればすぐですよ……って、まだ昼前ですけど」


 時刻は午前十一時。まだまだ出発には時間がある……どころか、日を跨いですらいない。ディシディアはパンフレットをパタンと閉じ、チラリと良二を見てきた。


「ところで、リョージ。今日の昼はどうするんだい?」


「適当に済ませるつもりですよ。だって、明日からは旅行ですからね。たぶん、美味しいものもいっぱい食べるでしょうし。ですから、今日は粗食でいきます」


「まぁ、そういうとは思っていたがね。いいよ。こっちの粗食は、向こうの贅沢と同じくらいの価値があるからね」


 クスクス、と赤子のように無邪気に笑いながらディシディアが言う。実際、その点はこちらに来てずっと感じていることだった。

 あちらで言う粗食とは、本当に粗末なものだった。材料が、調理の仕方が、あるいは単純に味が粗末で悲惨なものを出されていたのだ。

 だが、人間界においては違う。こちらで言う粗食とはあくまでも『質素』という意味合いが強い。地味でお世辞にも高級とは言えない食材を使っているが、それでも美味いことには変わりなかったのだ。

 ディシディアは過去にアルテラで食べていたパサパサで味気ないパンの味を思い出しつつ、冷蔵庫に寄った。出発前、ということもあって食材はここ最近でかなり減らす努力をしてきた。そのおかげで、今入っているのは保存が効くものか調味料くらいだ。


「む……」


 冷蔵庫内に目を走らせていたディシディアは、奥の方に眠っていた見覚えのある缶を見て小さく呻く。あの薬品臭いドリンクの味を脳内から追い出すように、彼女はブンブンと首を振って冷蔵庫を閉めた。


「お昼、何かリクエストはありますか?」


「いいや、特にないよ。簡単でいいさ。君の言う通り、明日からは食い倒れの旅になるかもしれないのだから」


「それもそうですね……っと」


 良二はスッと立ち上がり、冷蔵庫の元へと向かってそこからハムを取り出し、野菜室からキュウリとカイワレ大根を取り出してみせた。彼は台所でそれらを調理しつつ、ディシディアに指示を寄越す。


「ディシディアさん。冷蔵庫にビールがあったんで、それを出しましょう」


「まだ昼前だが、いいのかい?」


 その言葉に、良二は口の端をあげながら返す。


「もちろんですよ。お酒が入っていた方が、眠りやすいでしょう?」


「それもそうか。では、ビールを出しておくよ。例のルートビア以外のね」


 過去の失敗をほじくられ、良二は申し訳なさそうに肩を縮ませる。それを横目で見つつディシディアは冷蔵庫から二つビールの缶を取り出した。どちらもキンキンに冷えており、夏にはもってこいである。


「さ、それじゃあ食べましょうか」


 良二が持っているさらには、キュウリとカイワレ大根をハムで巻いたものがあった。色合いも美しく、一口サイズで可愛らしい。二人は卓袱台に腰掛けて、同時に手を合わせた。


『いただきます』


 二人は近くにあったキュウリをハムで巻いたものを口に入れる。ロースハムの塩味とあっさりしていて瑞々しいキュウリのハーモニーがたまらない。ビールを流し込めば、たちまち至福が訪れる。

 ビールの苦みがあっさりとしたキュウリによく合う。そこに塩っ気があるハムまで加わるのだから、とてつもない美味さだ。

 次に二人が手を伸ばしたのは、カイワレ大根をハムで巻いたものだ。こちらは、キュウリよりも風味が強い。カイワレ大根の微かな辛味と苦みはビールとも相性がよく、酒の肴としては最高だ。


「うん。たまには真昼間からお酒を飲むのもいいものだね」


「ですね。なんか、こう……いけないことをしている背徳感みたいなのがありますが」


「それがいいんじゃないか。もう一本、いくかい?」


 空になった缶を振りながら言うディシディアに首肯を返すと、彼女はすぐさま冷蔵庫から二本の缶ビールを持ってきてくれた。彼女はそれをちゃぶ台の上に置くなりプルトップを開け、勢いよくグイッと煽る。

 ゴクッゴクッと音を立てながら、美味しそうに飲んでいる彼女を見ているとどうにも食欲を刺激される。彼女の魅力は、ここにもあるのだ。

 おそらく本人は意識していないだろうが、ディシディアは美味しいものを食べる時は本当に幸せそうなのだ。端から見てもその料理を美味しいと思って食べていることがうかがえる。だからこそ、あそこまで美味しそうに食べているものを自分だって食べてみたい、と思ってしまう。

 以前居酒屋で親子丼を食べた際、他の客たちが手を上げたのもそれに起因する。ある意味これも才能だ、と良二は思う。


「リョージ。他につまみはないのかい?」


 見れば、すっかり皿の上にあったつまみはなくなりつつあった。良二はすぐに頷き、台所の棚から非常食用として保存してあった缶詰を取り出してくる。


「リョージ。確か棚にはポテトチップスもあっただろう? 私が取ってくるよ」


「あ、ありがとうございます。せっかくですし、前夜祭といきますか」


「はは、いいね。素晴らしい提案だ」


 軽口を躱しつつ二人は至る所からつまみやお菓子を取り出してきて卓袱台の上に置く。気づけば卓袱台から溢れんばかりの量になっていたそれらを見て、彼らは顔を見合わせて笑い合う。


「粗食をしよう、と言ったばかりなのにね。こんなに食べることになるとは」


「ま、まぁ、いいじゃないですか。前夜祭、前夜祭……」


「そう気に病むな。ほら、せっかくのビールがぬるくなってしまう。早く飲もうじゃないか」


 口ごもる良二にぱちりとウインクをした後で、ディシディアは缶ビールを掲げた。それに合わせて良二も缶ビールを掲げると、ディシディアの小さな口が微かに動く。


「では、これからの私たちによき巡り合いと未来が待っているように……乾杯」


「乾杯」


 缶ビールを打ち合わせ、二人はグイッと中身を煽る。この数時間後、卓袱台の上はすっかり空になり――その周辺には大量の空き缶と、すやすやと気持ちよさそうに眠っている良二たちの姿があったのは言うまでもない。


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