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第三話目~パックのお寿司~

 夏真っ盛り、暴力的な日差しが降り注ぐ中、ディシディアはのんびりと冷房の効いた室内で横になっていた。彼女もだいぶこの世界の生活に慣れつつあるらしく、最初は驚いていた冷房にも窓から見える高層ビルなどにも驚きを示さない。

 今、彼女の興味を引いているのは小さなノートパソコンだ。彼女は子どものように目をキラキラと輝かせながら画面を見やっている。気のせいか、口からはよだれが垂れているようにも思われた。


「ふふ、すばらしい。私が知らないことがここには詰まっている。王都の大図書館に足を運ぶこともなくこうやって知識を得ることができるとは……魔法が発達していない分、法や行政はわれわれよりも進んでいるんだね。にしても、これは興味深い」


 カタカタ、と小気味よい音が部屋の中でこだまする。昨日操作を習ったばかりだというのに、ずいぶんと手慣れた動きだ。流石は大賢者。一度聞いたことはほぼ完全にマスターしてしまう。事実、彼女は日常で使う文字の読み書きくらいならできるようになっていた。

 とはいえ、まだ不十分なのも確かである。彼女は脇に置いてある辞書とパソコンの画面を交互に見ながら、カリカリとメモを取っている。画像と辞書の単語を照らし合わせ、それが自分の世界で何と言うのかを調べているのだ。

 しばらく彼女は画面を見やっていたが、やがてふっと息を吐き目尻を押さえる。


「うぅむ……にしても、これは目が疲れる。どうも、画面がチカチカしていけないね」


 これまでろくに外出していなかったせいで彼女の目は光に対して極端に耐性がない。休み休みやっているものの、それでも数十分ほどで目の痛みを覚えてしまうほどだ。

 ディシディアは良二が持っていた目薬を差し、しばし目を瞬かせたかと思うとグッと背伸びをしてパソコンの電源を切る。どうやら、今日はこれくらいで終わるようだ。彼女は満足げにメモを見つめながら、大きな欠伸をした。


「しかし、リョージは遅いな……待ちくたびれてしまうよ」


 チラリと時計を見れば、現在時刻は午後の一時。今日は大学で期末テストがあると言って去っていったはいいものの、帰ってくる気配はまだない。ディシディアは嘆息しながらその場に腰掛けて部屋の中を見渡した。

 つい先日まで借金取りに追われていたからだろう。部屋は全体的にもの寂しい様相をしている。必要最低限の家具や調理器具しかなく、娯楽を満たしてくれる漫画や小説は皆無だ。おそらく、生きるのに絶対必要とはいえないそれらから売り払ったのだろう。彼女はそれを理解するなり、やや悲しそうに目を伏せた。


「……全く。彼も若いのに大変だね。ライノスに見習わせたいくらいだよ」


 彼女の脳裏に浮かぶのは、賢者の家系に生まれて何の苦労もなく育ってきた弟子の顔である。こんなことを言っていればまた彼に怒られていただろう。ついそんなことを考えてしまって、ディシディアはひとりクスリと笑いをこぼした。

 と、その時だ。ガチャリ、という鍵が開く音がし、続けて扉が軋む音が耳朶を打つ。見れば、そこには晴れやかな顔をした良二の姿があった。彼の手には、半透明な袋が掲げられている。見たところ、中に何か入っているようだが……。


「すいません、遅くなって。ちょっと買い物してたら、予想以上に混んでて……」


「いいさ。それより、お疲れ様。試験は……その顔を見るに、ちゃんとできたようだね」


 その言葉に良二はニッと口の端を吊り上げ、グッとサムズアップをしてみせる。そうして中へと入り、持っていた袋から二つの長方形の容器を取り出した。透明な蓋を通して見えるものを見て、ディシディアは思わず目を細める。


「む? それは、なんだい?」


 見たところ、白米の上に何かを乗せた料理ではあるようだ。おそらく、魚だろう。だが、それにも種類がある。白身だったり、赤身だったり、はたまた銀色に輝く皮が残っていたりと、統一されていない。その上、丸い小さな粒が大量に乗っているのもあれば、卵焼きまで乗っているのだ。この奇怪な料理を見て、ディシディアは驚きを隠せないようでその長い耳がピコピコとアンテナのように動いていた。


「食べてからのお楽しみです。あ、もう座っていていいですよ。俺はちょっと手を洗ってくるので」


 言いつつ、良二はその二つの容器を冷蔵庫の中に入れた。ディシディアは最後まで怪訝なまなざしをそれらに向けながらも、あらかじめ敷いてあった座布団に腰掛けて良二が帰ってくるのを待った。

 それから数分もせず良二は洗面所から帰ってきて、冷蔵庫から例の容器を取り出してくる。その時、ディシディアは彼の右手に緑色のチューブ容器が握られていることに気が付いた。ここに来て初めて見るものだ。おそらく、あれも一緒に買ってきたのだろう。未知の物体を見たことにより、否応なく彼女の鼓動が早まる。

 良二は今にも飛び上がらんばかりの彼女を手で制しながら、容器の蓋をそっと開けた。

 と同時、ややツンとする酸味のある匂いがディシディアの鼻孔を貫いた。

 その感覚に、彼女の顔が歪む。


「む……これは、腐っているのか?」


「いや、違いますよ。これは、酢を使っているんです」


「酢……なるほど。確か、酸味のある調味料だったね」


「おぉ、そう。その通りです。すごいですね、ディシディアさん」


 早速覚えたての知識を披露する彼女に拍手を送りながら席を立ち、今度は二枚の薄い皿を持ってくる。彼は容器に入っていた銀色の袋の中身――黒くて艶がかっている液体をそこに注いだ。

 もしや、これもソースではないか、とディシディアは勘ぐるが、すぐにその考えは打ち消された。ソースのような濃厚でズシン、と響いてくるような匂いではない。少し甘くて、どこか懐かしい匂いだ。

 ソースではない。だが、食欲をそそるという点では同じだ。彼女は目を皿のようにしてその液体の入った皿を見つめていた。


「さて、もういいですよ」


「もうかい? ずいぶんと早いな……」


 などと言いつつも、ディシディアは割り箸を取ろうとする。が、それを良二が制した。不思議そうに首を傾げる彼女に向かって、良二はドヤ顔で告げる。


「素手でどうぞ。寿司は素手って言うのが俺のポリシーなので」


「む……そうか。ならば、そうさせてもらうよ」


 ディシディアはローブの袖をめくり、ゆっくりと手近にあった赤い身が乗った『寿司』に手を伸ばす。


「持ったら、今度はおしょうゆにつけてください。ただし、つけすぎないように。ご飯じゃなくて、上に乗っているネタにちょんちょんって感じでつけるといいですよ」


「ふふ、なるほど。君はずいぶんとこの料理が好きなんだね」


 図星をつかれ、良二はギクリと身を強張らせた。実際、彼はかなりの寿司好きだ。だからこそ、それなりのこだわりを持っている。それを見透かされたことに赤面しながらも、良二はポリポリと頬を掻いた。


「別に、嫌ならいいですよ。俺のポリシーってだけなので……」


「そう悲しい顔をするな。ちょっと意地悪が過ぎたようだね。では、いただきます」


 彼女はそっと瞑目し、おそるおそる寿司を醤油につけ、ひょいと口内に放り込んだ。そうしてもぐもぐと咀嚼していたかと思うと、彼女はカッと目を見開いた。

 良二はニヤリ、と微笑むが彼女の様子がおかしいことに気づく。目尻には涙が浮かんでいるし、顔はギュッとしかめられている。それに、手はわなわなと震えていて行き場をなくしたように右往左往していた。

 これはもしや……。

 やがてごくりと嚥下した彼女は大きな息を吐きながら良二を睨む。


「か、辛……ッ! これはやはり腐っているんじゃないのか!?」


「え? あ、すいません! それ、ワサビ入りでした! こっちがディシディアさんのです!」


 やはり、彼女が食べたのはワサビ入りの寿司だったようだ。彼は慌てて自分の元にあった寿司を彼女に渡す。だが、ディシディアはブルリと体を震わせてそれから距離を取った。


「そ、それも辛いのか?」


「大丈夫ですよ。ほら、見てください」


 良二は割り箸を使って自分のネタとディシディアのネタを持ち上げてみせる。彼の方には緑色のペーストがコメの上に塗りつけられているのに対し、ディシディアのものにはない。それを見て、彼女はそっと胸を撫で下ろした。


「……どうやら、大丈夫なようだね。いや、ビックリしたよ。舌が痺れて死ぬかと思った」


「すいません。辛いの、ダメだったんですね」


「うん。恥ずかしながら、私は辛いものが不得手でね。いや、未知の味を探求するにあたって好き嫌いがあるのはいただけないと自分でも理解はしているのだが……」


「まぁ、徐々に慣れていきますよ。さ、口直しにこれをどうぞ」


 と言って、彼が手で示したのは卵焼きが乗った寿司だった。不安定な卵焼きが落ちないように海苔が巻いてある。ディシディアはそれにもわさびが入っていないか不審げだったが、やがてゆっくりと持ち上げた。

 彼女は先ほどと同じようにそっと醤油につけ、口に放り込む。刹那、再び彼女の目が大きく見開かれた。だが、それは決して辛さに驚いたからではない。卵焼きの柔らかな甘さに驚いたからだ。

 ふわりとした口どけの卵焼きは酢飯とよく合って口の中で絶妙に混じり合う。卵焼きには砂糖が入れられているのか、辛さで痺れた舌を優しく癒してくれるようである。そこに醤油が加わることで味に重厚感が生まれている。先ほどとは打って変わって恍惚の表情を浮かべているディシディアを見て、良二はそっと胸を撫で下ろした。


「気に入ってくれたようでよかったです。よければ、他のもどうぞ」


「あぁ、そうさせてもらうよ。いや、これはいい。一見簡単そうに見えるが、奥が深そうだね。だが、ワサビだけは勘弁してくれよ?」


「それはもう忘れてください……」


 しょんぼりと肩を落とす良二を見てクスリと笑いながら、ディシディアは再び寿司を手に取る。今度は、赤い粒が大量に乗せられた何かだ。彼女はその透き通るルビーのようなものを見て、うっとりと目を細める。


「あぁ、美しい……紅水晶のようだよ」


 彼女はまたしてもちょいと醤油を付け、口に放り込む。

 直後、彼女の口内でプチプチっという食感が広がり、濃厚なエキスが溢れ出てくる。それが酢飯と渾然一体となり、喉を下る様はもはや感動ものだ。


「ほう、これは……何かの卵かい?」


「えぇ。いくらです。鮭の卵……つまり、魚卵です」


「魚卵か。なるほど。私たちの世界ではそれを食う習慣はなかったからね……それに、生魚なんてものを食べるのもずいぶんと久しぶりだ」


 ディシディアはふふっと軽く微笑み、次々と寿司を頬張っていく。エビ、タコ、タイ、カレイなどなど。食感も味もまるで違う。だというのに、どれもこれも酢飯との相性は抜群である。ただの白米とは違う。酢が入っているからこそ、全体の調和が取れているのだ。

 ただの白米ではこうはならないだろう。素がそれぞれのクセをマイルドにしつつ、旨みを底上げしているのだ。

 ディシディアはもぐもぐと寿司を咀嚼しながら、そっと頬に手を当てた。ずっとこの時が続けばいい、そんなことを思いながら彼女は息を吐く。

 しかし、終わりというのは案外あっさりくるものだ。彼女は手を伸ばそうとして、すでに容器が空になっていたことを理解する。かと言って、良二のものには例のわさびが入っており、到底食べられるとは思えない。

 ディシディアは思案気に眉根を寄せていたかと思うと、何かを思い立ったように良二を手招きした。


「なぁ、リョージ。一つ交渉したいんだが……」


「おかわりは、ダメですよ」


「なっ!? ちゃんと私の金で買うつもりだが、それでもダメかい?」


「ダメです。昨日、ハンバーグを食べて歩けなかったのを忘れたんですか? そうならないために、今回は回転寿司じゃなくてパックの寿司を買ってきたんですからね!」


「むぅ……ライノスみたいなことを。いいじゃないか、ほんの少しくらい。私だってたまの贅沢を満喫したいんだ。数百年以上味気のない食事ばっかりだったのだから」


 ディシディアはムスッと頬を膨らませた。正直、腹八分くらいだがまだまだ食べたいと思っている自分がいる。それだけこの寿司が美味かった、ということだ。

 そんな風にむくれている彼女を見て、良二は困ったような笑みを浮かべた。


「……まぁ、俺も明日からは夏休みですし、色々食べに行きましょう。とりあえず、今日はこれくらいで勘弁してください」


 と、そこでディシディアの顔に怪しい笑みが浮かんだ。それを見て、良二は小さく唸る。

 完全に、嵌められたのだ。ディシディアはニコニコと微笑みながら、満足げに鼻を鳴らす。


「ふふ、やっぱり君は優しいね。その言葉を待っていたよ」


「……やられました。俺の負けですね。でも、食べ過ぎはダメですよ! 体にも悪いんですから」


「あぁ、お気づかいありがとう。と言っても、数千年を生きる私たちエルフ族だ。今さら寿命が縮んだところでどうともあるまいよ」


 その時、なぜか彼女の顔が陰った――様な気がした。


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