第二十九話目~口直しのアイスキャンディー~
良二は困惑していた。ディシディアが常識はずれなことを言い出したからだ。
意図せず頬がひくひくと動き、額からは脂汗が流れ出てくる。だというのに、口内はカラカラだった。彼は乾いた唇を舌で舐めつつ、ごくりと息を呑む。
「え、えっと……ディシディアさん? アメリカに行くって、本気ですか?」
「もちろん。君も言っていただろう? 海外のご当地グルメにも挑戦してみないか、と」
「言いましたけど……でもアメリカに行くってなると飛行機代やホテル代で滅茶苦茶にお金がかかるんですよ?」
「心配するな。金ならあるさ」
「……わぁ」
どこからか取り出してきた大量の万札の束を見て、良二の口からそんな声が漏れた。ディシディアはドヤ顔で卓袱台に置かれた万札の束をぺしぺしと叩いている。良二はそれを見て、深いため息をついた。
「わかりましたよ。もう行くことは決まってるんでしょう?」
「察しがよくて助かるよ。では、早速……」
「いや、申し訳ないですけど、それは無理なんですよ。海外に行くには、色々と準備がいるんです。パスポートとか、飛行機のチケットとか」
「パ、パスポート?」
キョトン、と首を傾げるディシディア。そういえばパスポートを見せたことはなかったな、と思いつつ、良二は近くの棚から黒い手帳のようなものを取りだしてきた。
「はい。これがパスポートです」
「ほほぅ……これの取得はすぐできるのかな?」
しかし良二は首を振る。
「いえ、少なくとも一週間はかかりますよ。住民票を提出したり、必要な書類をもらいにいったり……って、そういえばディシディアさんの住民票って作ってませんでしたね」
「まぁ、いいさ。私は最悪どうにでもなる」
言いつつパスポートを持つ右手に淡い藍色の光を宿らせるディシディア。次の瞬間、左手が強い光を放ち始めたかと思うと、彼女の小さな掌からシュッという効果音を立てて何かが出現した。
「それは……パスポート!?」
「そうさ。ほら、見てみたまえ」
受け取って中を確認してみれば、それは確かにディシディアのパスポートだった。
今、彼女が使ったのは投影魔法である。複製魔法ではなく投影魔法を使ったのはこちらの方がアレンジが効くからである。事実、パスポートの中身はディシディアのものに改編されていた。
「と、まぁ、ご覧の通りだ。それに、最悪の場合転移すればいいしね」
「……本当、すごいですよね」
良二は素直な感嘆を述べる。ディシディアが本気を出せば、できないことなどそうないだろう。この人間界は、彼女にとってはあまりにも狭すぎる庭だ。
良二はゴホン、とわざとらしく咳払いをして話を戻す。
「と、とりあえず! ディシディアさんはいいとしても俺の準備ができていないので、しばらく待っていてください。チケットを取ったり、色々と手続きをしておきますから」
「あぁ、もちろん待つとも。待つのは得意だからね。リョージが準備出来次第、出発しよう」
「えぇ。なるべく早めにやるんで安心してください」
「楽しみにしているよ。と、それはさておき、だ。リョージ。私は口直しが欲しい」
彼女はルートビアの空き缶をピンッと指で弾く。彼女は穏やかな口調だったが、瞳の奥には熱い何かを滾らせていた。ここで断れば、それはもう厄介なことになるだろう。
良二はグッと息を呑み、静かに席を立つ。それを見て、ディシディアがギンッと眼光を強めた。
「リョージ。頼むけどサプライズはよしてくれよ」
「はは……了解です」
乾いた笑いを浮かべつつ冷凍庫から取り出したのは、棒付きのアイスキャンディーだ。色とりどりのアイスキャンディーが箱の中にずらりと並べられる様は、さながら宝石の見本市だ。氷の粒が光を反射してキラキラと輝き、目にも嬉しい一品である。
卓袱台に置かれたそれを見て、ディシディアは先ほどまでの調子が嘘のように目を輝かせてそれを覗き込んできた。
「リョージ! これは何だい?」
「アイスキャンディーですよ。たぶん、気に入ると思います。何味がいいですか?」
「何があるんだい?」
「えっと……オレンジ、グレープ、パイナップルとアップルですね」
「むぅ……悩ましいな。君のオススメは?」
「俺は断然グレープですね」
「じゃあ、それをもらうよ」
ディシディアは箱の中に手を忍ばせ、そこから濃い紫色のアイスキャンディーを取り出す。棒に突き刺さった円柱型のアイスはひんやりとしていて美味しそうだ。ディシディアは期待に胸を弾ませながら包装を解き、露わになったアイスキャンディーにおそるおそる舌を伸ばす。
ピンク色の小さな舌が、ピトッとアイスキャンディーに触れた。すると彼女は驚いたのかすぐにハッと舌を離してしまう。だが、その目は好奇心に駆りたてられた者の目をしていた。
舌に広がるのは、優しくも力強いグレープの甘み。ひんやりとしているからこそ、味がキリッとしていた。
「これは面白い……果実の汁を固めてあるのかい?」
「まぁ、そんなところです」
百パーセントではないが、それでもグレープの果汁は入っている。アルテラにいたころは、このような料理は目にしたことがなかった。
かつて彼女が賢者であり、各地を放浪している際、冷やした果物を売っている屋台は目にしたことがあった。魔法でキンキンに冷やした果物を器用にくりぬき、そこにすりつぶした実を入れてストローで飲む。あれは中々に上品な味わいのものだった。
「ディシディアさん? どうかしましたか?」
「ッ!? い、いや、なんでもない」
思わずトリップしていたディシディアはハッと我に返り、再びアイスキャンディーに舌を伸ばす。ひんやりとした甘みが舌にじんわりと広がっていき、グレープの強烈な香りが鼻を抜けていく。
暑い夏にはうってつけの品だ。さらに、ルートビアで麻痺していた舌を心地よく冷やしてくれて、リセットしてくれる。
「うん。これは好きな味だ」
「気に入ってくれて何よりです」
「ところで、君は何味を食べているんだい?」
「オレンジです。美味しいですよ」
彼が持っているのは橙色のアイスキャンディーだった。彼はパタパタと手で顔を煽ぎつつ、ペロペロと舐めている。ディシディアはちょいちょいっと手招きし、良二を近くに呼び寄せた。
「? どうかしましたか?」
その直後だった。ディシディアがその小さな口を目いっぱい開けて、アイスキャンディーにかぶりついたのは。
「ッ!?」
良二は驚きに目を見開き、身を強張らせる。一方でディシディアはアイスキャンディーを口に咥え、舌を器用に操ってペロペロと舐めていた。
(こ、これは……っ!)
一心不乱にアイスキャンディーを舐めているディシディアとは対照的に、良二は混乱していた。ディシディアは上目づかいでアイスキャンディーを舐めているし、口の端には薄い笑みを浮かべている。
彼女の口からはぴちゃぴちゃ、という湿っぽい音が漏れてきており、溶けてきたアイスキャンディーの雫が顎の下に添えられた彼女の手にぽつぽつと落ちていく。どこか扇情的で背徳的な光景に、良二はグッと息を呑んでアイスキャンディーから手をゆっくりと離した。
「ん……ッ!」
突然のことに驚いたのか彼女の長い耳がピンッと張り、口からは小さな呻きが漏れる。ディシディアは支えを失ったアイスキャンディーが落ちないようキュッと口をすぼめて受け止めた。彼女はそれを口からチュポンッと引き抜いてから、少し怒ったように頬を膨らませる。
「急に手を離さないでくれ。びっくりするじゃないか」
「す、すいません……」
「……まぁ、いいさ。もう一本食べられたことだしね」
言いつつ、ディシディアはアイスキャンディーをペロペロと舐めはじめる。
(この人、色々と無防備だよなぁ……俺がもっとしっかりしないと)
そんなことを思いつつ、グッと拳を握る良二。一方のディシディアは嬉しそうに両手に持つアイスキャンディーを交互に堪能していた。