第二十四話目~お昼の天丼・五百円~
昨日の騒動から一夜明け、ディシディアは再び居酒屋へと赴いていた。しかし、その横に良二の姿はない。今日は昼過ぎまでバイトなので、今回はディシディアだけが料理を頂くことになっていたのだ。
「さて、そろそろか」
あたりをきょろきょろと見渡しつつ、そんなことを呟く。徐々に距離が近づくたびに期待で胸が弾むのを感じながら、ディシディアはごくりと喉を鳴らした。
まだ昨日の感動が忘れられない。思い出すだけで、よだれが溢れてくる。
丼物はその見た目から『お手軽料理』と軽視されがちだが、その実は『お手軽にできて、かつ奥深さを持つ料理』と言うべきものだ。工夫を凝らすだけでそれらはとてつもないポテンシャルを発揮する。
それは世界的にも知られており、丼は今や海外でも人気の品である。
無論、ディシディアはそんなことは知らない。ただ、昨日の料理は今まで食べた中でもかなり上位に食い込んでくる美味さだったのだけは確かだった。
などと考えているうちに、いつの間にか店はかなり間近まで迫っていた。店先では、珠江が暖簾を上げている。彼女はディシディアの存在に気づくなり、にこやかに手を振ってきた。
「まぁまぁ、ディシディアちゃん。いらっしゃい。ちょうど開店するところよ」
「それはよかった。では、お邪魔するよ」
「えぇ、どうぞ」
暖簾をくぐると、昨日とは打って変わって静かな店内が迎えてくれた。彼女はまたカウンターの席に腰掛け、厨房を見やる。すでにそこでは店主が調理を開始しているところだった。
「はい、お水とおしぼりね。後、メニューだけど……まだ読めないわよね」
その言葉に、ディシディアはコクリと頷く。珠江はそれに不快感を示すことなく優しく微笑み、ポケットからスマホを取り出してあらかじめ撮っていたらしき写真を見せてくれる。
ザッと見た限り、丼ものの種類は十を超えている。しかも、どれもこれも美味そうだ。
「食べたいもの、あるかしら?」
「むぅ……では、これを」
「天丼ね。あなた、天丼一つ」
「あいよ! 待ってな!」
店主は野太い返事を寄越し、さっそく調理に取り掛かる。そのゴツイ見た目に似合わない繊細で見事な仕事ぶりだ。伊達に店主を名乗ってはいないということだろう。その鮮やかな手際に、ディシディアはまたしても舌を巻いた。
「待っている間退屈だと思うから、できるまでこれをどうぞ」
と、珠江が差し出してきたのは野菜のサラダだ。ニンジン、レタス、ゴーヤなどがたっぷり入れられている。上にかかっているのは、ポン酢のジュレだ。初めて見るトゥルトゥルとした感触の物体に戸惑っているのか、ディシディアは目をパチクリさせていた。
「いただきます」
が、食べなくては始まらないと思ったのか、彼女は箸を取り、サラダを口に入れた。
すると、よく冷えた野菜が火照った体を一気に冷ましてくれた。おそらく、自家製だろう。ポン酢のジュレからは微かにゆずの香りが漂い、それが無性に食欲をそそる。
さらに、野菜はどれもこれも新鮮で食べやすい。変に野菜臭くなくてサッパリとしており、時折感じるゴーヤの微かな苦みが味をよりシャープにしてくれる。その上、ゴーヤは夏バテにも効果抜群だ。ただ美味しいだけではなく栄養面まで考えられていることにディシディアは改めて感心する。
そうやってサラダを食べている内にも、パチパチジュワジュワという揚げ物をする音と何とも言えない美味しそうな匂いが漂ってきた。ディシディアはうっとりと目を細めながら厨房を見やる。
店主が揚がった天ぷらを網の上にあげ、珠江がどんぶりにご飯をよそっている。完成は間もなくだろう。待ちきれない、と言ったようにディシディアは体をそわそわさせていた。
それを見た珠江は微かに微笑み、ホカホカのご飯の上にこれまたアツアツの天ぷらを乗せ、特製のたれをサッとかける。すると揚げ物と混じり合ったたれの濃厚な香りがディシディアの鼻孔をくすぐった。脳がくらくらするような蠱惑的な香りに、彼女の目がとろんと潤む。
「はい、お待ちどう様」
到着したのは、見事な天丼だった。綺麗に盛り付けがされており、もはや芸術の域にまで達している。
ディシディアはそろそろと箸を伸ばし、まずは主役とも言えるエビ天を口にする。衣はカリッとしており、軽い口当たりだ。舌にズシンと響くような重厚感のある味だが、しつこくなくていくらでも食べられそうだ。
ご飯と食べると味のレベルが数段上がる。かかっているたれはご飯とも天ぷらとも相性が抜群で、それぞれの味をグンッと引きたてていた。
次に口にしたのはレンコンの天ぷらだ。カラリと揚がったレンコンは素材の味が活かされ、歯を入れるとカシュッという心地よい音が鳴り響く。天丼において、食感にアクセントを与えてくれる貴重な食材だ。
イカ天は柔らかく、歯を入れるとスッと切れる。しかし噛みごたえはあり、噛めば噛むほど旨みが溢れ出てくる。キチンとした処理がなされているからこその味わいだ。またしても職人芸が光る一品である。
――昨日から感じていたことだが、この店の料理はかなりレベルが高い。それはもちろんいい食材が使われている、と言うこともあるが何よりも珠江たちの料理人としての腕がいいのだ。
下ごしらえがキチンとしているからこそ、これほどまでの味に仕上がっている。特に魚介類は扱いが難しいものが多く、下手をすれば生臭くて食べられたものではなくなってしまう。しかし、この丼に限ってはそんなことは一切なく、最高の出来だ。
天ぷらとご飯のバランスも抜群。偏りがあってはいけない。どちらかが前面に出過ぎてはいけないのだ。その点もキッチリと考えられている。
この丼において特に変わったことはしていない。基本がしっかりしているからこそ、ここまでの深みが生まれているのだ。
「美味しい?」
と、カウンターに両肘をつき、首を傾げつつ珠江が問う。それに、ディシディアは大きな頷きを返した。
「もちろん。それと失礼だが、お二人はどこかで料理の修業を?」
「えぇ。ちょっとね。同じ料理学校にいたの」
「なるほど。料理学校か……よほどの名門校だったに違いない」
すっかり空になった天丼の器を見ながらそんなことを呟く。が、すぐにハッと我に返って財布に手を入れた。
「と、すまない。お勘定を頼みたいのだが、いいだろうか?」
「えぇ、もちろん。お代は五百円よ」
その言葉に、一万円に手をかけていたディシディアの手がピタリと止まる。
「ご、五百円? 安過ぎではないか? その倍以上の値段がついてもおかしくはないと思うのだが」
ディシディアが言うことももっともだ。味にしても、二人がこの丼にかけていた労力を考えても、五百円というのは不釣り合いだろう。
しかし、珠江はフルフルと首を横に振る。
「いいのいいの。ウチは安くて速いがモットーなんだから」
「しかし……」
口ごもるディシディア。見かねてか、店主が二人の間に割って入った。
「いいんだよ、五百円で。子どもなんだから、お金は大事にしな。それよりも、なぁ。ウチの丼をそこまで見込んでくれたんなら、一つ頼まれてはくれないかい?」
「何だろうか? 私にできることならば、何でも」
「そう言うと思ったぜ。実は、試作中のメニューがあるんだ。どうせこれから数日は来るんだろ? なら、それを食べてもらいたいんだが、いいか?」
「もちろん! 喜んで!」
即答だった。店主はガハハ、と豪快に笑いグッとサムズアップしてみせる。
「ありがとうよ! 客観的に味を言ってくれる奴が欲しかったんだ。じゃあ、明日からまた来てくれよな」
「あぁ。では、代金はここに置いておこう。本当に美味しかった。では、また明日」
「えぇ、お粗末様でした。じゃあ、楽しみに待っていてね?」
にこにこと笑っている二人に手を振り返し、ディシディアはその場を後にする。彼女の頭の中は、すでに明日のことでいっぱいだった。