第二十三話目~居酒屋の親子丼~
時刻は午後の八時。中野での探索を終えた二人は帰路に着いているところだった。
「……少々冷えるね」
夏の夜とは、意外に冷えるものだ。すっかり暗くなった道を歩きながら、ディシディアはそっと肩を抱く。
「大丈夫ですか?」
「あぁ。そういう君こそ大丈夫かい? 君まで風邪を引いてしまったら大変だからね。私のことより、自分のことを気にかけていいんだよ」
良二は少しばかり過保護なところがある。不安げに眉を寄せている彼に対して優しく微笑みかけながら、ディシディアはほうっと息を吐いて空を見上げた。
見えてくるのは、丸くて大きな月だ。アルテラでは『フォーレ』と呼ばれていたものである。アルテラのフォーレは銀色だったが、こちらの黄金色の月もいいものだ。
が、彼女は寂しげな視線をその周囲へと送る。都会の空は淀んでいて、星が見えもしない。星が絨毯のように広がっていたアルテラとは異なり、少しばかり味気ない。
(できれば、あの空を彼にも見せてあげたいものだ)
そんなことを思いつつ、良二へと視線を送る。彼は彼女の視線に気づいて視線をしたに下げたが、ディシディアはただ曖昧な笑みを返すだけだった。
「ところで、夕飯はどうするんだい?」
「あ……決めてませんでした。何が食べたいですか?」
ディシディアはやや首を傾げた後で、ポンッと手を打ちあわせた。
「どうせなら、外食をしよう。せっかくここまで来たんだ。何かいい店を知らないかい?」
「それなら、うってつけの場所がありますよ」
良二はピッと人差し指を立て、すたすたと足を速めていく。彼に置いていかれないようにしながら、ディシディアはその横に並んだ。
しばらく歩くと交差点に差し掛かり、良二は右へと曲がる。その先には赤い暖簾と提灯が掲げられた店があった。そこからはじゅうじゅうと肉の焼けるいい匂いが漂ってきている。
それを敏感に察知した腹の虫がぐ~っと威勢のいい声を上げ、ディシディアは思わず赤面した。だが、それだけの魅力がその店からは溢れていた。
開けられた窓からは煙がもうもうと立ち上り、それが風に乗って届いてくる。中からは喧騒が聞こえてきて、暗い夜でもそこだけがお祭りをやっているかのようだ。
「なぁ、リョージ。あそこは?」
「居酒屋ですよ。一応、俺の行きつけです」
「おぉ……居酒屋とは、大衆酒場のようなものだったね? なるほど。面白そうじゃないか」
ディシディアは待ちきれないようで、目をキラキラと輝かせていた。今日一日へとへとになるまで探索をしていたとは思えない。興味を持った時ばかりは無尽蔵の体力を発揮する彼女にある種の畏敬の念を向けつつ、良二は居酒屋の引き戸に手をかけた。
「あ、いらっしゃい」
中から声をかけてきたのは、年若い女性だった。二十代中盤くらいだろう。薄紅色をした着物を身に纏い、頭には手拭いを巻いている。両手にビールが入っているグラスを持っていた彼女は良二に気づくなり、パァッと顔を輝かせてみせた。
「まぁ、良くん! 久しぶりじゃない!」
「お久しぶりです、珠江さん」
「リョージ。知り合いかい?」
女性とにこやかにあいさつを交わす良二に問いかけるディシディア。彼はそっと手で横にいる女性を指さした。
「はい。この人は三塚珠江さん。で、こちらはディシディアさん。一応、俺の親戚です」
と、あらかじめ考えていた設定を告げると、珠江は「あぁ」と頷いた。
「へぇ、親戚の子! はじめまして、よろしくね!」
「はじめまして。ディシディア・トスカだ。よろしく頼む」
「まぁまぁ、日本語がお上手で……と、いっけない。注文を受けてたんだったわ。あなた! カウンターに二人よ!」
「おう!」
野太い声を響かせるのは、カウンターの向こうに立つがっしりとした体格の男性。珠江の夫であり、この居酒屋の店主だ。彼はテーブルを丁寧にクロスで拭いてから、おしぼりを置く。
ディシディアは少しばかり背伸びをして高めの椅子に座り、良二はその横に腰掛けた。すると、店主は二人に向かってその強面からは想像もできないほど温かな笑みを向ける。
「にしても、久しぶりだなぁ。今日はたっぷり食べていけよ!」
「えぇ、ありがとうございます。もう夜ですけど、いつものお願いできますか?」
「あいよ! ちょっと待ってな! 珠江! いつものを二つ! 片方は大盛りでな!」
「は~い」
珠江はパタパタとカウンターの向こうに行き、調理に取り掛かる。若く見えても立派な若女将だ。手際がよく、一切の無駄がない。その洗練された動きを見て、ディシディアは感嘆の声を漏らした。
「……すごいな。この国の職人は素晴らしい技術を持っている」
「そう言ってもらえると恐縮です」
珠江はカウンターからぱちりとウインクを寄越しつつも、手は休めない。ディシディアがその姿に目を奪われていると、店主がふと何かを差し出してきた。
「お通しだよ。できるまで食べていな」
「これは……酢の物か」
差し出されたのは、小鉢に乗った酢の物だった。細切りにされた大根とキュウリ、ハムが入っており、上にはゴマが散らされている。小鉢との色合いのバランスもよく、見た目にも楽しめる一品である。
「……いただきます」
口に含めば、食欲をそそる酸味が舌を刺激する。キュッと口をすぼめてしまうような酸っぱさなのに、気づけばまた箸を伸ばしている。ただの食前の品、と片付けるにはあまりにもったいないものだ。
大根とキュウリは歯ごたえをしっかり残しており、コリコリとしていて実に心地よい。ハムの微かな塩味とゴマの風味が味をより引き締め、いいアクセントとなっている。
また、酸っぱいものには疲労回復効果がある。居酒屋に来るのは、大半が仕事終わりのサラリーマンなどだ。酢の物を出したのは単に食欲増進効果を意識しているからではなく、疲れ切った体を癒してもらおうという気遣いによるものだろう。
食前としては、最良の一品だ。満足感があり、かつ、これからの品への期待値をグンと高めてくれる。
ディシディアは今しがた届いたばかりのキンキンに冷えたウーロン茶をグイッと煽る。彼女はプハッと息を吐き、口元を指で拭った。
「どうだい? 外国の人の口には合ったかな?」
「無論だとも。まだまだ食べたいくらいだよ」
「そうかい、そうかい! んじゃ、特別サービスだ!」
店主は豪快に笑い、ディシディアの皿に酢の物を大盛りにして返してくれる。その有様に、彼女は目をキラキラと輝かせた。
「ありがたい。では、また頂くとしよう」
どうやら本当に気に入ったらしい。彼女は時折酸っぱさに体を震わせながらも酢の物をパクパクと口にしていた。
そのあまりに美味しそうな食べっぷりに、周りの客たちの視線も集まる。だが、彼女はそれを気にもしていない。彼女の目に映っているのは、照明に照らされて宝石のように輝いている酢の物だけだ。
「はい、お次はこれをどうぞ」
そう言ってきたのは、珠江だ。彼女は二人に小さな椀を寄越してみせる。そこに入っているのは、味噌汁だ。が、ディシディアはキョトンと首をかしげる。
「む? これは……何だい?」
「あぁ、味噌汁ですよ。これは、赤味噌ですね」
「ほう! 味噌にも種類があるのか!」
思えば、これまでは白味噌を用いた味噌汁しか食べていなかった。すでに味噌汁については知識を深めていると考えていたディシディアは、予想外の品に戸惑いを隠せない様子である。
彼女はグッと息を呑み、おそるおそる椀を持ち上げて味噌汁を啜った。刹那、その目がカッと見開かれる。
「これは……昼に食べたのとはまた違った味わいだ……ッ! 深みがあって、コクがあって……」
ディシディアはごくごくと味噌汁を飲んでいた。別段、特別な具は入っていない。わかめとねぎが入っているだけだ。だが、十分に出汁が取られているおかげで何とも言えない旨みが感じられる。
昼に食べたものに勝るとも劣らない一品にディシディアは嬉しそうに頬を緩めた。
「ふふ、本当に美味しそうに食べてくれて嬉しいわ。作った側として、これほど嬉しいことはないわよねぇ」
「あぁ。良二。お前とよく似てるよ」
「はは……そうですか?」
本当は血など繋がっていないのだが、そう言われたことが少しばかり気恥しかったのだろう。良二は頬を赤く染めていた。
一方のディシディアは一心不乱に味噌汁と酢の物を食べ進めている。と、そこに新たな一皿が寄越された。
それは、大きめの丼だ。蓋がしてあるので中身を見ることはおろか、匂いも密閉されている。だが、それが宝箱のように対象の心を惹きつける。無論、ディシディアもその魅力に囚われた者だった。
「これは?」
と、ゆっくりと蓋を持ち上げたその時だ。中から得も言われぬ香りと湯気が上がったのは。
丼の中身は――親子丼だ。半熟になった卵が白いご飯の上に乗っており、一口大に切られた鳥がゴロゴロと入っている。この鳥も、炭火で焼いたのだろう。鼻を突き刺すような刺激的な香りが漂ってきた。
またしてもごくりと喉が鳴る。ディシディアは添えられていたスプーンを手に取り、親子丼を勢いよく掻きこんだ。
口に広がるのは、卵の濃厚でまろやかな味わいとジューシーでがっしりとした肉の旨みだ。白米と一緒に食べることでより味がまとまる。鳥皮にはあえて焦げが作ってある。これがより一層味のレベルを引き上げるのだ。
半熟卵はほかほかのご飯と絶妙に絡み合い、これがたまらない。生臭さはなく、卵の新鮮な味わいだけが伝わってくる。
箸でなくスプーンが添えられていたのにも大きな意味がある。スプーンで掻きこむことで、つゆ、白米、鶏肉、そして卵を同時に味わうことができるのだ。これらが口の中で混ざり合う時などはもはや天にも昇る気持ちである。体中に旨みが駆け巡り、意図せず満足げな吐息が漏れてしまう。
カウンターに置いてある七味や山椒を入れると、これまた絶品だ。七味を入れれば辛さが加わるとともに風味が段違いに上がる。山椒を入れればピリッとしたアクセントと共に鼻を突きぬける清涼感を得られる。
昼に食べた沖めだいとはまた違った趣向に舌鼓を打ちつつ、ディシディアは丼を見やった。この一椀にどれだけの技術が詰め込まれているのだろうか?
丼という世界が構築され、食べるものを問答無用で引きずり込む。優しい味わいだが、それだけではなくズシンとした芯があった。
「美味しいでしょう? 本当はお昼時限定なんですけどね」
「ふふ、そうね。でも、ここまで喜んでもらえるならいつでも出すわよ? ねぇ、あなた」
「おうよ! こんなに美味そうに食べてもらえたら料理人冥利に尽きるってもんだ!」
店主と珠江は互いに笑い合う。ディシディアは口に入っていたご飯を嚥下してから、二人を見つめた。
「夜だけではなく、昼も営業を?」
「えぇ。そっちは定食屋的なニュアンスが強いけど。あ、メニュー見てみる?」
珠江が渡してくれたのは昼のメニューだ。当然ながら漢字なので、良二が解説を加える。
「焼き魚定食みたいな定食系も充実してますし、丼ものも充実してますよ」
「む? 他にも丼ものがあるのかい?」
「えぇ。カツ丼、天丼、マグロ丼に牛丼。数え上げればキリがないですよ」
その時――ディシディアの目がギラリと妖しく光ったのを良二は見逃さなかった。こういう時は大抵、突飛もないことを考えているのである。
その予想通り、彼女は口元を不気味に吊り上げた。
「……店主。女将。少し頼みがあるのだが……」
「あら? 何かしら?」
「明日の昼、また来てもいいだろうか? 少し、この店の丼に興味が沸いたもので」
「まぁまぁまぁ! 嬉しいわぁ! えぇ、是非来て頂戴!」
「じゃあ、早速仕込みをやんなくちゃな……っと、その前に」
店主は一旦言葉を止め、店内を見渡す。客たちの視線は、ディシディアが掲げている丼に注がれていた。
「た、大将! 俺にも親子丼!」
「俺も俺も!」
「こっちは大盛りでくれ!」
誰ともなく注文が上がり、我先にと客たちが注文を口にする。無論その中にディシディアと良二が含まれていたのは言うまでもないことだった。