第二十二話目~快気祝いの炉端焼き~
時刻は十二時。ちょうど昼時に、二人は電車である場所へと向かっていた。ディシディアは電車内に貼られている路線図を確認した後で、ニパッと笑う。
「さぁ、リョージ。そろそろ着くみたいだよ」
一晩寝てすっかり元の調子に戻ったらしきディシディアは全身でウキウキを表現している。数日前まではぐったりしていたというのに、今はピンピンとしていた。
「わかってますよ。そう急がなくてもご飯は逃げませんから」
良二はどこか呆れ気味だったが、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。彼は耳と体をピコピコと上下させている彼女を視界の端に納めた後でふと電車内を見回す。今日はかなり空いていて、ディシディアへの負担も少なそうだ。それに、これから行く場所もどちらかといえば大通りからは外れた場所にある。またディシディアが体調を崩すことはないだろう。
『次は、中野。中野です……』
車内アナウンスが入ると、ディシディアは一層上機嫌になった。だが、それも当然だろう。
「ふふ、風邪のせいで存分に食べられなかったからね。今日はガッツリいかせてもらうよ」
――そう。彼女は数日前まで風邪を引いていて、ろくな食事を取れていなかったのだ。食べていたものと言ったら消化にいいものだったり、麺やおじやなどあまり噛まずともいいものだった。
ディシディアはすでに待ちきれないのか、腹を撫でさすっていた。気持ちはわからないでもないが少しばかりオーバーだ、と良二は思う。
しかし、満面の笑みを浮かべている彼女を見たらどうでもよくなった。良二はポリポリと頬を掻き、それからスマホを開く。
今日行く場所は、以前大学の友人から教えてもらったオススメの店だ。少しばかりわかりにくい場所にあるそうなのでメモをもらっている。
良二がそれを確認していると、電車の速度が徐々に緩まってきた。どうやら、そろそろ着くらしい。彼はポケットにスマホをしまいこみ、ディシディアの顔を見やる。彼女はぱちりと可愛らしいウインクをしてきた。
やがてドアが開くなり、ディシディアと良二は足早に改札口へと向かう。最初は改札のシステムにも戸惑っていた彼女だが、難なく通過。少しだけ自慢げだったが、それは追及しないことにした。
「で? どっちかな?」
改札を出ると、道は二つに分かれていた。もし間違った出口に行ってしまえば、それこそ時間を無駄にしてしまうことになる。だが、良二はスマホを眺めつつ左の方を指さした。
「あっちですね。行きましょうか」
「あぁ。今からとっても楽しみだよ」
ディシディアはワンピースの裾を翻しながらトテトテと歩いていく。足取りは軽く、顔はとても晴れやかだ。昨日、彼と話し合ったのがよかったのかもしれない。迷いをなくした彼女は見えない何かから解き放たれたかのようだった。
(……やっぱり、こっちのディシディアさんの方が好きだな)
良二はその後ろ姿を眺めながらそんなことを思う。ディシディアは普段は年相応の大人びた態度を見せているが、こと興味があることを目の前にした時は子どものような目をするのである。そのキラキラした姿は彼の目にはとても眩しく映る。
良二はクスッと笑い、すぐに彼女の後を追う。信号待ちをしていたディシディアはがま口の財布をちらつかせつつ、ピッと人差し指を立ててみせた。
「今日は私の驕りだからね。遠慮しないでくれ」
「はは……どうも」
「む? 不服かい?」
「いや、そうではないんですが……そこまで面倒を見てもらうと、その……ヒモっぽくなりそうというか」
借金取りの時といい、旅行や遠出する時といい、ディシディアは色々と金銭面で援助をしてくれる。本人曰く「自分が好きでやっているだけ」らしいのだが、どうにも養われている感じがして苦手だった。
だが、ディシディアは肩を竦め、耳にかかっていた髪を手で払う。
「気にすることはない。昨日、君が言ってくれたじゃないか。困ったときはお互い様だ。あいにく私はこの世界には乏しいが、金銭面では余裕がある。それに、私は君より年上だ。養う形になっても、何らおかしくはないだろう?」
「それは、まぁ……そうかもしれませんが」
ごにょごにょと口ごもる良二をよそに、ディシディアは瞑目した。
「まぁ、今日はここ数日看病してもらった礼だ。それならいいだろう?」
「……そうですね。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「そうとも。子どもは甘えるのが仕事だ、と言っただろう? まぁ、昨日まで君に甘えていた私が言えた義理ではないがね」
おどけつつ言ってのけるディシディア。良二はそんな彼女を見た後で、ふと前方を見やる。すでに信号は青に変わっており、人の流れができていた。彼はディシディアの手を取り、先へと進んでいく。
彼らが足を踏み入れたのは『中野ブロードウェイ』と呼ばれる場所だ。そこには大勢の人が集まっており、当然の如く飲食店やお土産屋などが立ち並んでいる。
が、良二はしばらく歩くなり、裏道に反れる。そちらはかなり閑散としていて、静かなところだった。道の脇には自転車が停められていたりと、どことなく下町的な情緒を感じる。
「あ、見えてきましたよ」
良二が指をさす先には、江戸時代の建物を模した店があった。店先には木製の看板と、なぜか駅のホームにあるような現在の駅と前後の駅が書かれた看板がある。それがどことなくアンバランスで、けれどそれが他とは一線を画す要因となっていた。
近づくうちに強まっていく魚が焼ける香ばしい匂いが鼻を突きぬける。この香りだけでご飯が三杯は食べられそうだ。
二人は同時にごくりと喉を鳴らし、ドアを開けた。すると――店の中央にある炉端が真っ先に目に映りこんでくる。そこには魚が刺さった櫛が大量に刺さっている。種類はバラバラで、統一性はない。開きもあれば、切り身のようなものもあった。
幸いにも、今日は空いているようだ。二人はそのまま奥へ――
「あ、こちらで食券をお買い求めください」
進もうとした時、ふとお呼びがかかる。声の方向を見れば、一人の女性がガラス越しにこちらを眺めていた。
彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、静かに手招きしてみせる。それを受け、二人はそちらへと歩み寄った。
「こちらで食券お買い求めいただいてから、あちらにどうぞ。今日の料理はこちらとなっております」
彼女はメニューをサッと指で示してみせる。ホッケや鮭と言った比較的ポピュラーなものもあれば、沖めだいなど普段は中々お目にかからないような魚まである。
ディシディアは悩んでいるようだったが、やがてある一点を指さした。
「では、この……沖めだい、とやらをもらおうか」
「じゃあ、俺はホッケで」
「はい。では、こちらをどうぞ」
渡されたのは、金色の切符――もとい食券だった。二人は彼女に一礼した後で、開いている席へと腰かける。すると、近くにいた若い板前さんが歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ! ご飯とみそ汁、それからお漬物はおかわり自由です! お漬物はあちらにありますので、どうぞ!」
彼は食券を確認するなり、その場を後にする。ディシディアは彼が指差していた辺りを見て、少し残念そうな顔をしてみせた。
「うぅむ……席が悪かったね」
彼女たちが座ったのは、漬物が置いてある場所のちょうど対角線だ。それなりに距離があり、取りに行くのも一苦労だ。
が、そこはやはりディシディア。美味しいものを食べるためならば労力はいとわない。彼女は立ち上がって向かおうとするが、それを良二が止めた。
「病み上がりなんですから、無理しないでください。俺が取ってきますよ」
「悪いね。ありがとう」
良二は彼女に手を振った後で、漬物を取りに行く。今日あるのは、キャベツと小松菜の漬物だ。彼は取り皿にそれらを少しずつよそって席へと戻る。そのころにはすでにお茶が到着していた。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう。ほら、君のだ」
良二は彼女から湯呑みを受け取るなり、グイッとお茶を飲みほしてみせる。夏の暑い日にはうってつけの、キンキンに冷えたお茶だ。渇いた喉にじんわりと浸透していき、疲れを癒してくれる。
「ふぅ……中々いい店だね」
同じく茶で喉を潤していたディシディアが辺りを見渡しながら呟く。炉辺を中心として複数の板前たちが作業を行っており、活気に満ちている。奥の方にはショーウインドウがあって、そこには古めかしい置き物などが並べられていた。
ディシディアは特に炉端が気に入ったようだ。あれは、アルテラにもあったものである。思わず郷愁の思いに駆られながら、ディシディアは瞑目した。
「はい! 沖めだいとほっけ! お待たせしました!」
と、そこで板前の威勢のいい声が聞こえてきて彼女はハッと目を開けた。板前は慣れた手つきで配膳し、また別の客の方へと行ってしまう。
ディシディアは自分の方に出されたトレイに乗っている料理を見やってまたしてもごくりと喉を鳴らす。
沖めだいはたれで仕上げられている。塩で味付けされていると思っていたのか、ディシディアは意外そうだった。が、塩とはまた違った香ばしい香りが漂ってくる。
ご飯は艶々と照り輝いていて、ピンと粒が立っている。いいものを使っているのだろう。それは見ただけで感じることができた。
味噌汁に入っているのは豆腐とわかめ、ネギというポピュラーな素材。だが、味噌汁の芳醇な香りは決して凡庸なものではない。匂いを嗅いでいるだけで、腹の虫が暴れ出すほどだ。
「では……いただきます」
ディシディアがまず箸を伸ばしたのは、沖めだいだった。箸を入れると簡単にほぐれ、ふんわりと仕上がっている。店内の照明に照らされ、身は美しく輝いている。
彼女はそれを口に入れ、続いて白米を掻きこむ。そして次の瞬間――
「はぁ……」
その口から悩ましげな吐息が漏れた。
魚にかかっているたれは甘辛く、食欲をそそるものだ。また、微かに感じる山椒の風味がたまらない。ピリリとした刺激があり、それがご飯を掻きこむ手を加速させる。
炭火で焼かれた皮はパリッとしており、柔らかい身との対比が何とも言えない。
味噌汁も絶品だ。出汁が十分効いており、これだけでもご飯が進む。豆腐からは豆の甘み、わかめからは力強い磯の香りを感じることができる。小さく刻まれたネギが味噌汁にまた違った側面を与えるなど、細部にまでこだわった品である。
「次は、これを食べてみようか」
彼女が箸を伸ばしたのは、キャベツの漬物だ。口に含むとパリッという快音が鳴り響き、口の中をスッキリさせてくれる。後味もよく、これを食べることでまた魚や味噌汁を存分に味わうことができる。
「ディシディアさん、こっちも美味しいですよ」
良二は小松菜の漬物をそっと差し出し、ディシディアはそれをつまんで口に入れる。
茎は歯ごたえがよく、葉の部分は柔らかくてご飯を巻いて食べると天にも昇るような美味さである。塩気がご飯とよく合い、醤油をつけずともバクバクと食べ進められる。
「すまない。おかわりを頂こう」
「はい! かしこまりました!」
ディシディアはすでに味噌汁とご飯を平らげており、おかわりをリクエストしていた。一分もしないうちに到着したそれらを受け取るなり、彼女はまたしてもバクバクと食べ進める。
「美味い……美味すぎて箸が……むご。止まらない……っ!」
風邪のせいで食べられないストレスが溜まっていたのだろう。彼女は大食い選手顔負けの勢いでご飯を喰らっている。
ご飯、味噌汁、漬物、沖めだい……品は四つだ。普通なら、どこかで飽きてもおかしくないだろう。だが、食べる順番を少し変えるだけで違ったコンビネーションが生まれるのだ。だから、飽きない。
また、これらの品は全て素材の味を活かしたものだ。キチンとした下ごしらえと調理を行っているからこそ、爆発的な旨みが生まれるのだ。
「おかわりをもらえるかい?」
「はい! 喜んで!」
またしてもおかわりを要求するディシディア。待っている暇も惜しいのか、漬物をポリポリと齧っていた。
「はい、お待ち!」
「ありがとう」
今しがた届いたばかりの白米を食べている彼女を見て、良二は頬を引くつかせる。ディシディアはキョトンと首を傾げつつ、目を瞬かせる。
「どうしたんだい?」
「いや、よく食べるなって……」
「ふふ、食べ放題なのだろう? なら、心行くまで食べておこうと思ってね」
その言葉に、良二は苦笑を寄越す。
結局、彼女は味噌汁とご飯をそれぞれ五杯ずつおかわりし、漬物に至っては先に食べ終えた良二が彼女のために何度も往復することとなったのだった。