第二十一話目~小さな悩みと三種の薬味そうめん
ピピピ……という乾いた電子音が響く。ディシディアはもぞもぞと布団の中で体を蠢かせ、腋に挟んでいた体温計を取り出して近くにいる良二に渡した。
「うん。熱もないですし、治ったみたいですね」
良二の介抱もあったおかげか、ディシディアは快方に向かいつつあった。まぁ、元々が軽い夏風邪だったのでそこまで心配することでもないのだが、彼女と良二とではいかんせん体の造りがまるで違う。
ひとまずは落ち着いたことにホッとしつつ、良二はゆっくりと腰を上げた。
「何か食べたいものはありますか? できるだけリクエストには応えますよ」
「なら……食べやすいものを買ってきてくれ。まだ重いものは食べられそうにない」
流石に昨日の今日で食欲が完全回復するわけではない。事実、今朝はお粥を作ってあげたのだが、それも半分程度しか食べられていなかった。健啖家である彼女からは想像もできない話である。
「わかりました。じゃあ、少しだけ待っていてくださいね? あ、具合が悪くなったらすぐに呼んでください。後、何か困ったことがあったら……」
「大丈夫だよ。君は心配性だね。まぁ、悪い気はしないけど」
そんなふうに言われ、良二は顔を熟れたリンゴのように赤くしてしまう。ディシディアは子どもに向けるような穏やかな視線のまま微笑を湛えていた。
「も、もう行きます。本当に危ないと思ったら遠慮しないでくださいね!」
これ以上追及されるのを避けたかったのか、良二はどたばたと慌ただしく外へと駆けだしていってしまう。アパートの階段を駆け下りていく音を聞きつつ、ディシディアはふと天井を見上げた。
もう体にだるさはない。思考もはっきりしているし、昨日よりはよくなっていることは自覚できた。
とはいえ、まだ十分に動けるわけではない。テレビを見る気力もないし、いつものようにパソコンで知識を貪る余裕もない。
しかし、思えばこうやってゆっくりと体を休めるのは久しぶりのことだった。
こちらに来て以来、彼女は物珍しいものを手当たり次第に探り、奔走していた。もちろん、ここは彼女にとっては異界の地だ。同じ生活を送っていた良二よりも先に根をあげるのは至極当然だろう。
その時、ふとある考えが脳裏をよぎる。
「ひょっとして、彼にも無理をさせてしまっていたかな?」
良二は優しい子だ。自分よりも他人を優先してしまう、根っからのお人よしだとディシディアは思っている。だからこそ、自分にいやいや付き合ってくれていたのではないだろうか?
そんな考えが、脳内を埋め尽くしていく。
「……もしかしたら、私は彼の邪魔になっているのではないだろうか?」
風邪で弱っているせいか、どうしても思考がマイナスに向かってしまう。それを自覚しつつも、一度そうだと考えてしまうとなかなか抜け出せない。ディシディアはその端正な眉を歪め、口をへの字にしていた。
「……仮にここを出るとしたら、色々と準備はいるな。この世界についての知識はそれなりに揃ってきたと思うが……」
などと彼女がぶつぶつ言っていると、慌ただしく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。良二が帰ってきたらしい。
数秒もせずにガチャリとドアが開く音がして、彼の「ただいま」という優しい声が聞こえてくる。
「大丈夫でしたか? 今ご飯作りますからね」
「……ああ」
その声はわずかに沈んでいるように思えた。が、それは風邪のせいだろうと考え、良二は買ってきた食材を冷蔵庫に入れる。それからいくつかの食材を取り出して台所に向かい、鍋に水を入れてコンロに火をかける。そして水が沸騰するのを待っている間に、まな板においてあった食材を切り始めた。
トントントン、と淀みない包丁の音が聞こえてくる。チラリと台所を見れば、良二が鼻歌を歌っているところだった。これも、見慣れた光景である。
ディシディアは妙な安心感を得ながら、再び体を弛緩させる。すると、少しだけ眠気が押し寄せてきて意図せず欠伸が漏れた。彼女は目をゴシゴシと擦り、グッと伸びをしてみせる。ずっと寝ていたからだろう。腰からゴキゴキという快音が響いてきた。
「ディシディアさん」
と、そんな声が頭上から聞こえてくる。良二はニコニコと笑いかけながら、食器棚から皿を取り出していた。
「もうすぐご飯ができるので、少しだけ待っていてくださいね?」
「……なぁ、リョージ」
「はい?」
「私は、君の迷惑になっていないだろうか?」
それに驚きを示したのは良二よりもディシディアだった。口が滑った、といった感じだろう。彼女はハッと口を押え、そろそろと良二を見上げた。
彼は――キョトン、と首を傾げていた。なぜ、彼女がそんなことを言ったのかわからない様子だ。しかし、次の瞬間には少しだけ真剣そうな顔つきになって、ディシディアの枕元に腰を下ろしてきた。
「どうしたんですか? 急にそんなことを聞いてきて」
「いや、何……私は、ここに来てからずっと君に迷惑をかけてばかりだったから、もしかしたら、と思ってな。もし、迷惑に思ったり邪魔になったら言ってくれ。その時は……」
「ディシディアさん」
彼女の言葉を遮り、良二は厳しい声音で告げる。
「もし、今ディシディアさんが病気じゃなかったらお説教しているところですよ。邪魔? 迷惑? とんでもない」
「だが、私は……」
「俺が一度でも、そんなことを言いましたか?」
グッと言葉を詰まらせるディシディアに向かって、良二は力強い眼差しをもって続ける。
「もし本当にそう思っていたら言っていますよ。ディシディアさんは気づいてないかもしれないですけど、俺は存外この生活が気に入っているんです。ディシディアさんと一緒にいると楽しいですから」
彼は髪をガシガシと掻き毟り、大きなため息を漏らした。
「前、俺の家族のことは話しましたよね? 父と母が離婚してから、俺はずっと独りだったんです。母は仕事で帰りが遅くて、誰かと一緒にご飯を食べることも滅多にありませんでした。外食なんて、もっての外です。祖父母に引き取られるまで、俺はそんな生活を送っていたんです。だから……やっぱり好きなんですよ。こうやって誰かと一緒にご飯を食べることが」
ディシディアは彼の顔をじっと見つめていた。嘘を言っているようには見えない。本心を話すことを恥ずかしがっているのか、彼の頬はわずかに赤くなっていた。
「だから、あれです。気にしないでください。本当に嫌気がさした時にはハッキリ言いますから。じゃ、もうすぐ茹で上がるので戻りますね」
彼はそれだけ言って足早にその場を去ってしまう。一人残されたディシディアは天井を見上げつつ、口元を歪めていた。
「全く、これではどちらが年上かわからないな」
自分よりもずっと年下のくせに、しっかりとした芯を見せてくれた彼に対しそんなことを思ってしまう。まだまだディシディアの方が上手だが、たまにこうやって的を射たことを言ってくるのだからわからないものである。
(……確かに、私も誰かと一緒に食事を取るのは好きだな)
大賢者となってからというもの、彼女は祠で食事を取っていた。当然、そこには誰もが入れるわけではない。ライノスを含む多くの弟子やお付はいたが、彼らは「恐れ多い」と言ってディシディアとは食事を取ろうとしなかった。
たまに誰かと食事を取ると言っても、それはどこかの貴族に招かれた時や誰かの賢者就任の席などであり、良二と食事を取っている時のような和やかな雰囲気ではなく厳かで息が詰まりそうなものだった。
知らず知らずのうちに、彼女も良二と同じくそんな気楽で、ともすれば平凡でありきたりと思われてしまうような食卓を望んでいたのかもしれない。
そのことを今さらながら自覚した彼女は皮肉げな笑みを張り付けて乾いた笑いをこぼした。
「ディシディアさん。できましたよ」
いつもの通りの穏やかな調子に戻った良二の声が聞こえてくる。彼はガラス製の椀を抱えており、そこには大量の白い麺とたっぷりの氷が入れられていた。
彼は片手で器用にちゃぶ台を引きずってきて、その上にその椀を置いてみせる。それから、いつもよりも少しだけ柔らかい笑みをディシディアに向けてきた。
「さぁ、いっぱい食べて元気になってください。お腹が空いていると、どうしても思考も暗くなりますから」
「……そうだな。色々と、ありがとう」
「どういたしまして。少し待っていてくださいね。麺つゆとか持ってきますから」
去っていく彼と入れ替わりで、ディシディアはちゃぶ台の方に寄った。ガラス製の椀に氷がたっぷりと浮かんでいる様子は見ているだけで涼しげだ。麺はソバよりも細く、これならば食べやすいだろう。
しばらくして、良二は黒いつゆが入った湯呑みといくつかの薬味が入った小皿を持ってきた。
「冷やしそうめんです。夏バテ防止の薬味もありますので、よかったらぜひ」
「あぁ。では、いただきます」
ディシディアは彼から箸を受け取り、麺を持ち上げてみようとする。だが、意外にも掴みにくく、するりと箸から抜け落ちてしまう。
「持ちにくいなら、椀に沿う形で持ち上げるといいですよ」
言われるがまま、麺を椀に添わせる形で持ち上げ、そのまま湯呑みにダイブさせた。それからしっかりと箸で持ち上げ、つるりと啜る。
よく冷やされた麺は口当たり、喉越し、どれをとってもすばらしい。麺つゆは濃すぎず、薄すぎないように作られている。これならば、いくらでも食べられそうだ。
「薬味もどうぞ」
彼が差し出してきた小皿にはネギ、みょうが、ショウガなどの薬味が乗っている。ディシディアはまずネギを少量入れ、またそうめんを啜る。
ネギはシャキシャキしており、辛味がない。おそらく、新鮮なものを買ってきてくれたのだろう。瑞々しく、微かな甘みだって感じる。麺と合わせることでネギ本来の味がより強調され、かつ主役であるそうめんの旨みを補強する。また、食べ終えた後の満足感も十分なものだ。
ディシディアは次にしょうがを少量つゆに入れ、麺と共に啜る。しょうが独特の香りが鼻を突きぬけ、先ほどとはまた違った味わいを与えてくれる。スゥッと胸のすくような清涼感を感じながら、ディシディアは嬉しそうに唇を吊り上げた。
「美味しいですか?」
「あぁ、美味しいとも。最高だ」
それを聞いた良二は、心底幸せそうな顔をしてみせる。
「やっぱり、そうやって料理を美味しいって言ってもらえると嬉しいですね」
ディシディアは年相応の喜びようを見せる彼に温かい視線を向けた後で、今度はみょうがを麺つゆに投入。それから麺を啜ると、今度は得も言われぬ味わいが舌を魅了した。
ネギのようにシャキシャキとしていて、それでいてしょうがよりも香りが強い。けれど、決して主役を殺すことなく、絶妙に引き立てている。あっさりと食べられ、それでいてまた食べたい、と思ってしまう。
薬味を全て入れてみると、驚くほどにまとまった味がした。それぞれ違った素材であり、当然ながら味も風味も何もかもが違う。しかしそれらがしっかりと絡み合い、主役であるそうめんに華を添えている。
もしも薬味がなければ、この料理はたちまち単調なものとなってしまうだろう。美味しいが、いつか飽きが来てしまう。だが、この三種の薬味があるからこそ一口ごとに違った世界が口の中に広がるのだ。
それに、これらの薬味は風邪のときや夏バテの時に重宝されるものでもある。食べやすいと感じるのは、そのせいでもあるのだろう。
気づけば椀の中はあっという間に空になっていた。その結果にはディシディア自身驚いているようで、目をパチクリさせている。
そんな彼女を見て、良二は安堵のため息を漏らした。
「よかったですね。食欲が戻ったみたいで」
「だが、君の分が……」
「いいんですよ。また作ればいいんですから。後、言い忘れないうちに言っておきますね? こうやって共同生活をしていれば迷惑をかけるのは当然なんですから、そこまで気にやまなくてもいいんですよ。俺だって、ディシディアさんに迷惑をかける時があるでしょうし」
と、肩を竦めてみせる良二。一方のディシディアはやれやれ、と言わんばかりに額に手を当てた。
(……嗚呼、やはり彼は馬鹿だ。お人よしだ。けれど……そんな彼のことを好いている私はそれ以上の大馬鹿だろうな)
緩みかけた口元にグッと力を入れ、彼女は笑みを繕ってみせる。
「ありがとう、リョージ。では、これからは甘えさせてもらうとするよ」
「えぇ、そうしてください。俺も困ったときは頼らせてもらいますから」
「あぁ、もちろんだとも。これから一緒に暮らすんだ。助け合わなくてはね」
すっかり元の調子に戻ったらしきディシディア。その顔は以前よりもずっと晴れやかで、エメラルド色の瞳には力強い光が宿っていた。