第二十話目~風邪の日は味噌おじやとリンゴヨーグルト
その日は、少しだけ妙な一日だった。朝になっても、ディシディアが起きてこなかったのである。いつもなら味噌汁の匂いにつられて起き上がってくるのに、今日はいつまで経っても起きてこないのだ。
良二はディシディアが横になっている布団をチラリと見やる。彼女は彼に背を向ける形で寝ているせいで、顔を伺うことはできない。
良二は一旦調理の手を止めて、彼女の方に歩み寄った。
「ディシディアさん? 大丈夫ですか?」
答えはない。良二はやや焦燥感を覚えながら小走りで布団の傍まで歩み寄り、そっとしゃがみ込んで彼女の肩を掴んで仰向けにさせた。
その瞬間、彼はハッと息を呑む。
ディシディアの顔は赤く、息も荒い。額には大粒の汗が浮かんでおり、その端正な顔は苦痛に歪んでいた。
「ディシディアさん……ッ! すごい熱じゃないですか」
彼女の額に手を置いた良二は小さく歯ぎしりする。思えば、昨日から変なところはあったのだ。
昼ごろにはすぐに寝てしまっていたし、夕食時にも起きてこなかった。普段の彼女からは、想像もできないことだ。
それに、ついつい忘れがちだが彼女は異世界から来た存在だ。当然、環境一つとっても無効とはまるで違う。彼女は順応性が高いように思えるが、やはり無理をしていたのだろう。
良二は己の不甲斐なさに歯噛みし、無意識のうちにギュッと拳を握りしめていた。
「……んぅ」
悩ましげな声が、彼女の口から洩れる。ピクッと形のよい眉が歪み、しばらくすると彼女の瞼がゆっくりと開かれた。
彼女はきょろきょろと辺りを見渡し、不安げな良二の顔を見るなり力ない笑みを浮かべた。
「……やぁ、おはよう」
力なく、掠れた声だ。彼女は少しでも良二を安心させようと笑みを浮かべているものの、それがむしろ悲痛なものに映ってしまい、良二は瞑目した。
「すいません。具合が悪いことに早く気づいていれば……」
「謝らないでくれ。元はといえば、私が悪いんだ。君に心配をかけたくなかったんだが……結果的に、心配だけじゃなくて迷惑までかけてしまうとは」
そんなことない。そう言いたかった。けれど、喉の奥に何かが使えたような感じがして、良二は上手く言葉を発せなかった。
一方で、ディシディアはふっと唇を歪める。
「どうやら、はしゃぎ過ぎていたようだね……不甲斐ないよ」
「ちょっと、失礼します」
良二は彼女の額に自分の額をつけ、温度を測る。そのまま彼女の口を開け、喉の奥を観察。それからゆっくりと体を起こし、少し安心したような表情になって告げる。
「たぶん、夏風邪ですよ。だから、すぐ治ります」
「……そうか。よかった。ありがとう」
「少し、待っていてください」
良二はすぐさま立ち上がり、風呂場へと向かう。それからしばらくして風呂桶に温かいお湯とタオルを入れたものを持ってくる。
「ディシディアさん。ちょっと体を拭きますけど我慢してくださいね?」
汗をかいたままでは、極端に体温と体力を消耗してしまう。それに、寝苦しいままでは休息も取れないだろう。
ディシディアは小さく頷き、服をはだけさせる。
「……では、頼むよ」
「はい。すぐ終わりますからね」
言いつつ、彼女の白い背中をタオルで優しく拭いていく。その背中は、いつもよりもずっと小さく、か弱く見える。ほんのり上気した彼女の頬を見て、良二もつられて赤面した。
彼女の体はまだまだ瑞々しく、数百年を生きているとは思えない。エルフ族は長命ではあるが、彼女は特に異色だ。彼女と同じ年齢の女性たちは成熟した体をしているが、ディシディアだけは依然として子ども体型なのである。
曰く、異常なまでの魔力が若返りの力を付与しているらしい。専門家が言うには、魔力が切れない限り彼女は疑似的な不老を得るそうなのだ。
「……悪いね。君には、迷惑をかけてばかりだ」
「気にしないでください。俺が好きでやっているだけですから……はい。終わりましたよ」
「ありがとう。じゃあ、後は私がやるよ」
流石に、体の前面を拭いてやることはできない。良二はよく絞ったタオルを彼女に渡し、自分は台所へと足を向けていく。
「食欲はありますか?」
「まぁ、少しは。あまり食べられそうにはないが」
「わかりました。じゃあ、少しだけ待っていてくださいね」
去っていく良二を視界の端に納めた後で、ディシディアはタオルで体を拭いていく。
彼女とて、羞恥心はある。良二に無防備な背中を見せるのは少しばかり照れ臭かったのだろう。顔が赤くなっているのは、熱があるからというだけじゃないはずだ。
丁寧にタオルで汗を拭ってから、彼女はほぅっとため息をつく。
まだ体にだるさが残っている。全身が熱く、力が入らない。視界が揺れ、考えがまとまらない。
普段は風邪などとは縁遠い彼女であったが、慣れぬ地には免疫がなかったのだろう。疲れて抵抗力が落ちている時にはよくあることである。
台所から聞こえてくる包丁のリズミカルな音を聞きながら、静かに目を閉じる。
一人ではない。誰かがいる。そんな心地のよい安心感を、確かに感じていた。
「ディシディアさん。もうすぐできますから待っていてくださいね」
良二の声は、やや緊迫した調子だった。普段の彼らしからぬ慌てぶりに、ディシディアは疑念を抱く。が、首を振ってその考えを追いやった。
「はい、お待たせしました」
その声を受け、彼女はなんとか起き上がろうとするものの、良二がそれを制止する。
「大丈夫ですよ。寝ててください」
良二はディシディアの枕元に腰掛けるなり、トレイに乗っていたお椀を手に取る。彼はレンゲで中に入っていた味噌仕立てのおじやを掬い、よく冷ましてから彼女の方に差し出した。
「ちょっとでもいいので、食べておいてください。でも、無理はしないように」
ディシディアはコクリと頷き、おじやを口に入れた。
病人を気遣ってか、優しい味に仕上げられている。溶き卵とネギがたっぷりと入れられているので、栄養面としても問題なしだ。
良二は彼女が食べやすいよう彼女の上半身を少しだけ起こしてやり、甲斐甲斐しくレンゲを口に運んでやる。ディシディアは数口ほどおじやを食べていたが、フルフルと首を振って彼の手を押さえた。
「やっぱり、食べられないですか?」
「……すまない。せっかく作ってくれたのに」
「いいんですよ。冷たいものなら、食べられそうですか?」
「たぶん……」
「わかりました。お水もたっぷり飲んで脱水症状には気をつけてくださいね」
良二は彼女に水を飲ませてあげた後で、その場を後にした。
布団に仰向けにされた形になったディシディアは、どこか満足げに微笑む。
「やっぱり男の子だね。頼りになるじゃないか」
元々、こういったことには慣れていたのだろう。彼の対応は完璧に近いものだった。
彼に対する感謝を抱きながら、ディシディアはチビチビと水を啜る。だが、胃が弱っているのだろう。そこまで飲むことすらできず、すぐに口を離してしまう。
彼女はぐったりとした様子で横になり、荒い息をつく。だが、先ほどよりは少しばかりマシだ。寝苦しさもないし、喉も潤っている。上手くいけば、明日には回復するだろう。
「お待たせしました。これを食べたら、しっかり寝てください」
と、そんな声がかかる。見れば、良二が小さな皿を持ってきているところだった。
「すりおろしたリンゴをかけたヨーグルトです。風邪の時はこれが一番ですよ」
良二は優しく言ってやり、またしても彼女の体を支えつつスプーンでヨーグルトを与える。ディシディアは少しばかりの気恥しさを覚えながらもヨーグルトを口に含んだ。
微かな酸味と、リンゴの芳醇な甘さが絶妙に混じり合って食べやすくなっている。冷たく、するりと喉をすり抜けていくので喉にも負担がかからない。
先ほどよりもほんのちょっぴり一口が大きくなっているディシディアの姿を見て、良二はほっと息を吐く。
とはいえ、やはり全部を食べることは難しかったのだろう。ディシディアは先ほどと同じように良二の手を押さえ、首を横に振る。しかしそれでも半分は食べられていた。これなら、まだ大丈夫だろう。
「もし何かあったら言ってください。俺は今日休みですし、一日いますから」
「色々ありがとう。じゃあ、一つだけお願いがあるんだが、いいかな?」
「何です?」
そう問うと、ディシディアはいつも見せている凛とした表情からは想像もできないほど緩んだ顔になって、そっと良二の手を握ってきた。
「私が寝付くまで、傍にいてくれないだろうか? 少しだけでいいんだ」
風邪を引いている時というのは、心細くなりがちである。それに、彼女にとってはこの『風邪』も未知の症状だ。できるなら、誰かにいてほしかったのだろう。
良二は快く頷き、
「えぇ。じゃあ、俺も横になりますよ」
と、彼女の布団にもぐりこんでみせる。
「そこまでしなくてもいいんだが……うつっても知らないよ?」
「大丈夫ですよ。こう見えても俺は丈夫ですから」
「……そうだね。君は立派な男の子だ」
ディシディアは彼の存外に厚い胸板に、こつんと額をつける。ややこそばゆくはあったが、彼の温もりが傍にいてくれているのは非常に心強いものだった。