第二話目~洋食屋さんのキノコクリームハンバーグ~
翌朝、ディシディアは布団の上で目を覚ました。
いつもと違う天井と枕の感覚に戸惑いながらも彼女は辺りを見渡して、そこでようやく自分が別の世界に来ていたことを理解する。そうして、チラリと自分の服を見やった。
彼女が身に纏っているのはローブではなく、この世界のものだ。小柄な体格の彼女は普通は小学生が着るようなパジャマを着ている。昨日、一悶着があった後良二が買ってきてくれたものだ。
彼女は慣れぬ服の感触に苦笑しながらも身を起こし、布団を畳む。
と、そこで良二の姿が横にないことに気づいた。昨日は隣同士で寝ていたというのに、だ。
「あ、ディシディアさん。おはようございます。と言っても、もう昼ですけど」
ふと、声の聞こえた方に彼女は視線をやって、ふっと微笑む。そこにはちょうど洗濯物を取り込もうとしている良二の姿があった。
借金取りからのプレッシャーから解放されたせいだろう。彼の顔は昨日に比べて随分と晴れやかだった。
「やぁ、おはよう。よく眠れたよ。いい布団だね」
「普通にセールで買った奴ですけど……気に入ってくれたならよかったです。それと、もうお昼ですよ。ずいぶん疲れていたんですね」
「む? あぁ、そんなに寝ていたのか。まぁ、転移の術は負担が大きいからね。それに、お腹いっぱい食べたのも久しぶりだったから」
それだけ言って、ディシディアは自らの腹に手を置いた。すると、それを待っていたかのように彼女の腹の虫がけたたましく騒ぎ出す。
「待っててください。これからちょっと出かけるんで、その時ついでにお昼も済ませちゃいましょう」
「あぁ、すまないね。助かるよ。では、私はその間に着替えておこう」
ディシディアはトコトコとタンスの方に歩み寄り、引き出しを開けた。そこに入っているのは、昨日良二が買ってくれた下着や洋服だった。彼女はその中から適当に服を取り出して、着替え始める。が、そこで良二がそちらを見ていることに気づき、妖しい笑みを浮かべた。
「ふふ、こんな体に興味があるのかい?」
言われて、良二の顔が真っ赤に染まり、彼は思わず持っていたシャツを地面に落としてしまう。だが、それにも気を留めず、彼はバタバタと手を振って否定の言葉を述べた。
「ち、違います! ただ、場所がわかるかとか、ちゃんと着替えられるかが不安だっただけで……と、とにかくそういう趣味はありませんからね!?」
「あぁ、わかっているよ。こんな年寄りなんて、若い子は嫌だろう。さて、それでは着替えるから見ないでおくれ」
ディシディアは近くにあったスカートを手に取る。これは向こうの世界にあったものと何ら変わらない。彼女はそれに足を通し、それからシャツに手をかけた。が、そこで彼女の目がスッと細められる。
「……ほう。これは面白い紋様が描かれているね」
彼女が手に持っているのは英字がプリントされたシャツだ。
現在、彼女は《自動通訳》の術を用いている。聞こえる言葉が自動的に自分の主言語に変わり、逆に自分が発する言語は相手の主言語になるというものだ。しかし、これは文字には適応されない。彼女は英字をどこかの部族の紋様か何かだと思ったようだ。なぜか小さく一礼してから、それに袖を通す。
そうして着心地を確かめるように両手をぐるぐる回して、ニッと笑みを浮かべた。
「うん。いい感じだ。この世界の布はいいね。ごわごわしていない。あのローブもいいものを使っているらしいが、こちらの方が私は好きだ。何より、可愛らしいしね」
ディシディアの視線はベランダに吊るされているローブに移る。大賢者になったものだけに譲渡されるものなのだが、濃い緑色のローブはお世辞にも可愛らしいとは言えない。良二もそれを手で伸ばしながら、苦笑していた。
彼は残りの洗濯物を全て干し終えるなり、満足げに頷いた。
「よし、お待たせしました。行きましょうか」
「あぁ、待っていたよ。それで? 今日はどこに行くんだい?」
「ちょっと銀行までお金を下ろしに行こうかと。もう借金取りの心配をしなくてよくなったんで、お昼は久々に外食しましょう」
彼は手近にあった財布をズボンのポケットに突っ込むなり、そそくさと玄関へと向かう。ディシディアも慌てて彼の後を追い、小さなサンダルを履く。エルフ族がよく履いていたものに似ている、という理由だけで買ったものだったが、中々に履き心地がいい。彼女は満足げに鼻を鳴らす。
「じゃあ、行きましょう」
そうして良二がドアを開けると、彼女たちを迎えてくれたのは容赦のない日差しだった。
「う……眩しい」
これまで森の中でひっそりと過ごしていた彼女に、これはきつかったようだ。ディシディアはサッと右手で目を覆い、やや半身になって太陽から逃れようとする。
「だ、大丈夫ですか?」
「……あぁ、すまない。ちょっと太陽には不慣れでね。でも、大丈夫さ」
ディシディアはそろそろと手を下ろして扉の向こうを見るなり――ほぅっと感嘆のため息をついた。彼女は胸を撫でさすりながら、アパートの二階から見える景色を堪能する。
「素晴らしいね。文明が発達しているのが見てとれる。どうやら、魔法以外の文明が発達しているようだね。実に興味深い」
大賢者としての血がそうさせるのか、彼女はどこか楽しげだった。
そもそも、彼女が大賢者になれたのはその旺盛すぎる好奇心のおかげに他ならない。
この世の誰も知らない『未知』を『既知』にできるよう知識を蓄え、実践と反復を繰り返していたら、いつの間にか大賢者としてあがめられるようになっていたのだ。決して自分からなろうとしたわけではない。ただ、なりゆきでなっただけなのだ。
ディシディアは目をキラキラと輝かせて見える景色を全て脳に叩きこもうとしていたが、それは腹の虫によって妨げられてしまう。彼女はむっと唇を尖らせながらアパートの階段を降りていき、良二も鍵を閉めてからその後を追った。
「それで、ここからどれくらい歩くんだい?」
「ほんの数分ですよ。銀行に行ってお金を下ろしたら、何か食べましょう。何がいいですか?」
「と、言われても……私はこの世界について何も知らないからね。君に任せるよ」
「じゃあ……銀行の近くに洋食屋さんがあるので、そこに入りましょうか」
それに反対する理由はなかった。ディシディアはコクリと頷き、先へと進んでいく。その間も、周囲に気を配るのを忘れない。
目に映りこんでくるほとんどは、向こうの世界になかったものだ。
天を貫かんとばかりにそびえる高いビルや、縦横無尽に電線を張り巡らせる電信柱など、数え上げればきりがない。それら全てに興奮しているのか長い耳をピコピコと動かしているディシディアを見て、良二はつい笑ってしまった。
「どうしたんだい?」
「いや、ちょっと。だって、ディシディアさんすごく嬉しそうでしたから」
「それはそうさ。だって私はほとんど祠に押し込められていたからね。外の世界に出ると言っても、ろくに遊ぶこともできやしない。本当に窮屈な日々だったよ」
ディシディアは自嘲的な笑みを浮かべながら肩を竦めてみせる。良二は何かを言おうとしていたがグッと唇を噛み締め、ニコリと微笑んでみせた。
「じゃあ、こっちの世界で今までできなかった分を楽しめるといいですね」
「その通り。久々の自由だ。満喫させてもらうよ」
不敵な笑みを浮かべる彼女に頷き、良二は右にある小ぢんまりとした建物を指さした。そこが銀行である、とディシディアが理解したのは、中から紙幣らしきものを持っている人が出てきたのを見たからだ。
良二は唖然としている彼女の手を取り、中へと進んでいく。ディシディアはチラリと中を見やって小さく唸った。
「ずいぶんと混んでいるね」
「お昼時はこれくらいですよ。まぁ、すぐに下ろせますから」
その言葉通り、人は徐々にはけていき、とうとう良二たちの番になった。良二はATMの前まで歩み寄り、財布から持ってきていたカードを取り出す。
一方で、ディシディアは目の前にあるものがなんであるのかわかっていないようで首を傾げている。良二はそんな彼女にカードを見せ、それから差し込み口に入れてみせた。
そうしてパネルをタッチしていき、操作を着々と進めていく。その手際の良さには、ディシディアも舌を巻いていた。
だが、彼女が一番目を奪われていたのは目の前のATMだ。暗証番号を打ち込むだけで、すぐに紙幣が出てくる。彼女の世界では手続きから金を受け取るまで、早くとも十分はかかっていた。だが、今かかった時間はほんの数分。この落差に、彼女は自分の足元が崩れ落ちていくような錯覚に襲われていた。
ようやく金を財布に仕舞い終えた良二は彼女を見やって、キョトンと首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「……いや、ちょっとね。私たちの魔法よりも便利なものがあったとは夢にも思わなかっただけさ。はぁ……私の魔法でもこうはいくまい。というか、攻撃魔法や防御魔法なんて今時時代遅れじゃないか」
なぜだかネガティブモードになっている彼女を不思議に思いながらも良二は銀行の外に出て、ちょうど対角線上にあった洋食屋を指さす。すると、ディシディアの顔がパァッと輝いた。
二人はゆっくりとそちらに歩み寄り、扉に手をかけた。そうして扉を引くと、上に取り付けられていたチャイムが小気味よい音を鳴らす。
「いらっしゃい」
それと同時、カウンターにいた一人の男性が口を開く。口元にひげを蓄えたダンディーな雰囲気を醸し出している人だ。彼はディシディアから良二に目を移すなり、驚いたように目を見開いた。
「おぉ、飯塚君じゃないか。久しぶりだね。元気だったかい?」
「どうも、マスター。ちょっと最近は色々ありまして……」
「知り合いかい?」
ディシディアの問いに、良二はコクリと頷く。
「えぇ。昔ちょっとお世話になってたんですよ。マスター、この人はディシディアさん。今、ウチの家に泊まりに来ているんです」
「ほう。なるほど。見たところ外国の人のようですが……ようこそ、ウチの店へ。歓迎しますよ」
「これはご丁寧に。こちらこそ、どうぞよろしく」
「さ、お好きな席へどうぞ。と言っても、ガラガラだけどね」
マスターは困り顔で肩を竦める。確かに、店には誰もいない。客どころか、従業員すら見当たらないくらいだ。
「ふむ……この店は、あまり繁盛していないのかな?」
たまらず、ディシディアが小声で良二に問いかけた。彼はマスターの方をチラチラと見ながら、これまた小声で返答する。
「……えぇ。でも、味は確かですから、心配しないでください」
「それは心配していないよ。この店がいい店だというのは、すぐにわかったからね」
ディシディアはテーブルにそっと人差し指を這わせてみせたかと思うと、サッとその指を良二に見せつけてきた。だが、そこには汚れが一切ない。ディシディアはふっと口元を緩めながら、店内を見渡した。
「清掃が行き届いているし、店の内装も凝っている。たぶん、客足が少ないのは別の理由があるからじゃないかな?」
「ご名答。お若いのに、素晴らしい観察眼だ」
そう答えたのは、お冷を持ってきていたマスターだ。良二は一瞬この店の客足の少なさを話していたことを聞かれたかと思いぎくりと身を強張らせたが、マスターはそれには気にも留めず言葉を続ける。
「実は、この店の近くにファミリーレストランができてね。そちらに客を取られてしまっているんだ」
「ふむ。そのファミリーレストランが何かはわからないが……一人でここを切り盛りするのは大変ではないだろうか?」
「まぁ、多少はね。でも、妻はこの店が大好きだったんだ。だから、できる限り続けていきたいんだよ。さて、注文が決まった時にまた呼んでくださいな」
遠い目をして去っていく彼の後姿を見送った後で、良二がそっと耳打ちしてくる。
「実は、昔はマスターと奥さんだけでこのお店を経営していたんですけど、二年前に奥さんが亡くなったんです。以後は、マスターだけでこの店を」
「……なるほど。あの御仁も若いなりに苦労しているのだな」
見た目は完全に小学生のディシディアだが、実年齢は二百歳に届かんばかりの老齢だ。彼女はほぅっとため息をついた後で、気分を晴らすかのようにメニューに目を走らせる。
メニューにはほぼすべての料理に写真が付いていた。言葉がわからないディシディアでもこれなら簡単に何がよいのかがわかる。
彼女はしばらくメニューに目を走らせ、ある一点を指さした。
「私はこれを頼むよ」
「わかりました。マスター! 『キノコのクリームハンバーグ』と『ナポリタン』お願いします!」
「あぁ。ちょっとだけ待っていてくれたまえ」
マスターは厨房へと消えていき、調理に取りかかる。その間、ディシディアはまたしても店内に目を走らせた。
フローリングの床はピカピカで汚れ一つ見当たらない。全体的にシックな造りをイメージしたのかシャンデリアの灯りはそこまで強くなく、仄かに店内を照らす程度だ。クラシックが常に流され、とても落ち着く雰囲気作りがなされている。
ディシディアはほぅっと安堵のため息を漏らした。
「ずいぶんと心地よい場所だね。ここで本を読めれば最高だ」
「コーヒーだけでもいいらしいですから、いいと思いますよ。というか、ディシディアさんってこの国のお金持ってますか?」
「いいや。私が持っているのは……そうだな。ちょっと見てもらった方が早いだろう」
そう言って、彼女は宙に指を走らせ、魔法陣を描いた。直後、そこから数枚の金貨が音を立てて飛び出してくる。彼女はそれを指で弄びながら、魔法陣を見やった。
「一応、これは私固有の結界のようなものだ。大賢者クラスだけが持てる自由格納空間、とでも言った感じかな? ここに金銀財宝をあらかた詰め込んである。換金すれば、いくらかにはなるだろうさ」
「いや、普通に金持ちじゃないっすか……」
出てきた金貨を見つめながら良二はぐったりと項垂れた。と、そこにマスターが歩み寄ってくる。彼は手に持つナポリタンの皿を持ち、二人を見渡した。
「えっと、こちらはどっちの注文かな?」
「あ、俺です」
「そうか。どうぞ、ナポリタンでございます」
テーブルに置かれたのはごくごく普通のナポリタンだ。やや太めの麺。具は一口大に切ったウインナーとスライスしたピーマンや玉ねぎだ。
だが、それでもディシディアには物珍しいものに移ったらしい。彼女は感嘆のため息を漏らしながらナポリタンの皿に顔を近づける。
「おぉ、これもまた美味しそうだ」
すぅっと息を吸い込むと、やや酸味と甘みが混じり合ったような匂いが漂ってきた。嗅いでいるだけで腹の虫が喚きだすほどだ。
「よかったら、食べますか?」
「いいのかい?」
差し出された皿を見て、ディシディアは目を丸くする。だが、良二はにこやかにほほ笑んだ。
「もちろんですよ。まだディシディアさんのは時間がかかるみたいですし、その間に一口、どうぞ」
「では……失礼するよ」
彼女はフォークを持ち、ごくりと唾を飲みこむ。
湯気を掻き分け麺の山にフォークを突き刺した。そうしてクルクルと手首を捻っていくにつれ、先端の重みが増加していく。時折浮かして具も加えていき、ゆっくりとフォークを持ち上げた。
初めて嗅ぐケチャップの濃厚な匂いに彼女の脳がぐらりと揺れる。ディシディアはそっとフォークを口元に持っていき、ぱくりとかぶりついた。
と同時、彼女の口内に旨みが広がっていく。
ケチャップの甘みと酸味が絶妙に麺と絡み合っている。麺はアルデンテにしてあり、しっかりとした歯ごたえが返ってくる。噛み締めれば噛み締めるほど至福が生まれていく。
ウインナーから出た肉の脂がそれにまたアクセントを加え、ピーマンとたまねぎのシャキシャキ感が口内に変化を与えていく。
ともすれば統一感がない、と思われてしまうだろうが、それがむしろ心地よい。それぞれ違った持ち味があって、主張しつつも協調している。
気づけば恍惚の表情を浮かべていたディシディアはハッと我に返り、恥ずかしそうに咳払いをして口元についていたケチャップを備え付けの紙ナプキンで拭う。
「美味しかったですか?」
「聞かなくてもわかるだろうに、君は底意地が悪いね」
ニヤニヤとしている彼を見ながらディシディアはポツリと呟いた。良二はまるで幼い妹を前にしているかのような視線を彼女に向けながら、奥の方を指さした。すでにそちらからは美味しそうな匂いが漂ってきている。彼女の小さな鼻と長い耳がまたしても可愛らしく動くのを見て、良二は笑い声を押し殺した。
「お待たせしました。『キノコのクリームハンバーグ』でございます」
「おぉ……これはなんと面妖な……ッ!」
彼女の眼前に置かれたのは、真っ白なソースがかけられたハンバーグだ。ソースにはマッシュルームが加えられており、付け合せにはほうれんそうのソテーが添えられている。鉄板から聞こえてくるジュウジュウという食欲をそそる音と、立ち上ってくる濃厚な肉の匂いに彼女はうっとりと目を細めた。
「では……いただきます」
彼女はそっと手を合わせ、フォークとナイフを手に取った。そうしてフォークをハンバーグに突き入れるなり、ぷっと脂が噴き出てくる。彼女は期待に胸を弾ませながらナイフを動かしてハンバーグを食べやすいように切った。
断面からは肉の脂が滝のように流れてきている。それがぽたぽたと落ちて鉄板に当たるたび香ばしい匂いが漂ってくるのだからたまらない。
早く喰わせろ、と泣き喚く腹の虫を宥めながら彼女はハンバーグを口に入れた。
直後、彼女を襲ったのは――これまで感じたことがないほどの多幸感だ。
肉に歯を入れるたびに肉汁が溢れだし、しかもそれが濃厚なクリームソースと混じり合う。どちらも個性が強いはずなのに、なぜか見事な調和をなしている。しっかりとした肉の旨みとソースの風味が全身を突き抜けていく。
「ほぉ……」
まるでこれまでの疲れがすべて吹き飛んだような表情になって彼女は息を吐いた。喉を過ぎていったはずなのに、それでもまだ絶大な存在感が口内に残っている。それもしつこくなく、むしろ心地よいものだ。
「よければ、こちらもサービスでどうぞ」
マスターが持ってきてくれたのは、大盛りのご飯だった。彼は茶目っ気のある笑みを浮かべ、ぱちりとウインクしてみせる。
「そこまで美味しそうに食べてくれるなんて料理人冥利に尽きますよ。ご飯のおかわりは自由ですから、どうぞお気軽に」
「……む。これはありがたい。では、いただきます」
彼女はフォークでご飯を掬い、口元に持っていきまたしても幸せそうに頬を緩める。だが、それを見てマスターはちょいちょいとハンバーグを指さした。
「よければ、ハンバーグと一緒に食べてみてください」
言われるがまま、彼女は一口大に切っていたハンバーグを口に入れ、続けてご飯を放り込む。刹那、彼女のパッチリとした目がさらに大きく見開かれた。
「おぉ……何と!」
ハンバーグ単品でも特上の味だったが、白米と食べることで味に広がりが生まれる。肉の旨みが白米によって加速し、もっと食べていたいという欲求が沸いてくる。彼女はガツガツと白米を口いっぱいに詰め込んでもぐもぐと咀嚼した。
「よかったらおかわりもどうぞ」
颯爽と去っていくマスターのことなど、彼女の目には映っていないだろう。今、彼女の視線は目の前のハンバーグと白米に注がれている。
ほうれんそうのソテーは軽く下味がつけられており、それだけでも十分美味い。だが、ソースとからめるとその美味さが数倍も跳ねあがる。やや分厚くスライスされたマッシュルームはハンバーグと食べてもいいし、単品でも十分主力と成り得るものだ。キノコ類独特の臭みはなく、旨みだけが凝縮されている。
この小さな鉄板の上に、これほどまでの世界が広がっている。それに、ディシディアは興奮を禁じえなかった。
「本当、いい食べっぷりですね」
ナポリタンをぱくつきながら、良二が言う。ディシディアは口がソースで汚れるのも構わず一心不乱にハンバーグを食べていた。
そうして、鉄板の上が空になったと同時、彼女はやや不満げに頬を膨らませた。
「むぅ……」
「どうしました?」
「いや、大変美味しかったのだが、もっと食べたいと思ってね。肉なんて本当に久しぶりだったから、もっと食べたいんだ」
良二はチラリと財布を開き残金を確認する。
ハンバーグは七百円。今、財布にあるのは五千円だ。ナポリタン六百円を差し引いても、十分余裕がある。彼は財布をポケットに仕舞ってから、そっと手を上げた。
「マスター。ハンバーグ追加で」
「いいのかい?」
「もちろんです。お金に余裕はありますし、食べたい時に食べるのが一番ですよ」
「……ありがとう。では、容赦なくいかせてもらうよ」
その時、彼女の緑色の瞳が妖しく光った――様な気がした。
――そうして、一時間後。そこには顔面蒼白になって頬をひくつかせている良二と満足げに頬を赤く染めているディシディアの姿があった。彼女たちの前には、鉄板が山のように積み上げられている。
その数ざっと……十。その小さな体からは想像もできない食欲だ。
「ふぅ。満足だ。いや、肉は本当に久しぶりだ。森では木の実ばかりだったからね。うんうん。それに、何より料理人の腕がいい。さて、そろそろお腹もいっぱいになったし帰ると……どうした? リョージ?」
「いや、その……お、お金、が、ありません……」
彼が財布をパタパタと開くと同時、そこから五千円札がひらひらと落ちてくる。それは儚げな様相でテーブルに着地した。
「ど、どうしましょう? いや、銀行はあるから下ろしてくれば済むんですけど……」
まさかここまで食べられるとは思っていなかったのか、良二は今にも泣きだしそうな顔をしている。それを見て申し訳なく思ったのか、ディシディアの長いエルフ耳がしゅんと縮まった。
「す、すまない。本当に久しぶりで気分が舞いあがっていたんだ……」
「いや、いいですよ。だって、これまでずっと禁欲生活だったんですよね? これからもそうなりそうですけど……」
と、二人が顔を見合わせて言い合っていると、ふとマスターが寄ってきて五千円札をひょいと持ち上げる。
良二は慌てて彼の方に向きなおった。
「す、すいません、マスター! 今、俺それしかお金がなくて……」
「いや、いいよ」
しかし彼の予想に反して、マスターから返ってきたのは穏やかな返答だった。彼はほうっと息を吐き、穏やかな視線をディシディアに向ける。
「ここまで美味しそうに食べてくれるお客は初めてでしたよ。どうもありがとうございます。この店をやっていてよかったと、改めて認識させられましたよ」
「私こそ、こんなに美味しいものを食べたのは初めてだった。だから、それに関してはちゃんと礼をしたいと思う。あいにく、私はこの世界の金銭を持っていない。だから、これで勘弁してもらえないだろうか?」
彼女は先ほど取り出した金貨をスッとマスターの方に突き出す。彼はそれを受け取るなり、目を丸くした。
「これは……金貨、ですか?」
「あぁ。一応、五千円がどれくらいの価値かはわからないが、この食事には値するだけの値打ちはあると思う。金貨三枚。これで手打ちとしてくれないだろうか?」
「いや、むしろ大幅な利益が出る気がするのですが……ともかく、ありがとうございます。もしよろしければ、またいらして下さい。それまで、私も腕を磨いておきますから」
「もちろん。しかし、今日はこのあたりで……」
と、ディシディアが席を立とうとしたその時だ。彼女の体がぐらりと揺れ、そのまま地面に尻餅をついてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄る良二。だが、ディシディアは困ったように笑いながらポリポリと頬を掻く。
「いや、大丈夫だよ。ただ……その……悪いが、おぶってくれないか? 食べ過ぎて動ける気がしないんだ」
一瞬、世界が止まる。マスターも良二も何を言われたのかわかっていないようだったが、しばらくして脳が理解をし始めたようでマスターはクスクスと子どものように笑い、良二は呆れたようにため息を漏らした。
「全く……ほら、行きますよ」
良二は彼女の体をひょいっと持ち上げる。俗に言う、お姫様抱っこだ。ディシディアは彼の胸に抱かれながら、マスターへと別れを告げる。
その時の彼女の顔はとても幸せそうだったが、それはお姫様抱っこされていることに対してではなく、美味しい昼食を食べられたことによるものだろうということは誰の目にも明らかだった。