第百九十六話目~ダイエット食とランニング~
日が昇って間もない頃、ディシディアはアパートの階段付近でストレッチを行っていた。色気もないイモ臭い赤茶色のジャージに身を包んだ状態で、屈伸運動を行っている。
今日からダイエット生活が始まりだ。と言っても、そこまで大きな変化があるわけではない。
「よし、と」
ひとしきりストレッチを終えた後でぐ~っと背伸びをする。もう体はだいぶ温まっており、朝の寒い風にも負けない。朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みつつ、ディシディアは視線を左右にやった。
「ふむ……どちらに行こうか?」
ランニングコースでもあればいいのだが、ここいらには存在しない。散歩コースとしている道があるので、今日はそちらに行ってみようと決めた彼女は小さく頷き、グッと足に力を込めて地を蹴る。
きわめて美しいフォームだ。と言っても、これは別に誰かから習ったというわけではなく、旅をしている時に魔獣などから逃げる際自然と身に付いた型だ。腕をしっかりと振って推進力をプラスしつつ前方をよく見据えて上体を起こす。
(感覚は衰えていないな……しかし、ランニングをするのも久しぶりだな)
こちらの世界に来てから横着していたことは認める。悔しいが、事実だ。
小うるさいことを言ってくる一番弟子や大賢者としての自分を知っている者がいないだけに少々……いや、かなり肩の力を抜いていた。たぶん、人間世界での彼女の行動をあちらの世界のものが見れば「あの大賢者が!」と言って卒倒するだろう。
苦笑しながらも足を止めない。軽快な歩みで先へと進んでいく。
「たまには、朝駆けもいいものだな」
周りを見ていると、ついそんな言葉が漏れた。
早朝の街並みはいつもと違って見える。朝露が日の光を浴びて煌き、木々が心地よいハーモニーを奏でる。徐々に目を覚ましつつある鳥たちのさえずりも心地よいものだ。
運動は嫌いな方ではない。むしろ、好きだ。
最初はあまり乗り気ではなく渋々だったが、やってみると意外に楽しいものだ、とディシディアは思う。体を動かすと体内に溜まっている淀んだ『気』が出ていくような気がするし、何より朝のひんやりとした空気はとても心地よい。
散歩コースは大体に、三キロくらいあるだろうか? それを走り終えるころにはちょうど良二も起きているだろうと高をくくり、悠々と走り続ける。
その時、前方からランニングウェアに身を包んだ女性が前からやってきた。すれ違いざま、互いに一礼する。ランナーとして最低限の礼儀だ。
(ほぅ……音楽を聞きながら走っているのか。確かに、いいかもしれないな)
後方にいる女性の方を見ながら、そんなことを思う。
ランニングウェアに身を包み、サングラスをかけた女性はイヤホンも装着していた。すれ違いざま洋楽らしきものが聞こえてきたので、何かしらを聞いていることは間違いない。
思えば、携帯型の音楽プレイヤーがなかったことに今さらながら思い至ったディシディアはリズミカルに駆けながらも脳内で考えを巡らせる。
(通販で買えるだろうか? いや、店の方がいいか……あれば助かるのだがな)
彼女はこちらの世界の音楽をとても気に入っていて頻繁に聞いているのだが、良二はCDを買わずスマホにそのままダウンロードしている派だし、彼女自身が音楽を聞く術は今のところパソコンしかない。
パソコンが悪いとは言わないが、台所に立って水洗いをしている時や掃除機をかけている時はあまり聞こえない。音量を上げればいいではないか、と思われるかもしれないがあのぼろアパートでそんなことをすれば近隣住民にも迷惑がかかってしまう。
(うん。やっぱり買おう。こうやってダイエットを始めたのもいい機会だ……ウェアも買おうかな?)
莫大な財産を持っているからこそ言えることである。彼女はたまにとんでもない衝動買いをしてしまうことがあるのだ。特に、ネットショッピングを始めてからは顕著になってしまっているが。
そんなことを考えつつもランニングを続けていく。その間も何人かのランナーたちとすれ違ったが、年齢こそ違っても全員ウェアは揃えているなど力を入れている様子だった。
途端にジャージ……それもありえないほどイモ臭いものを着て走っている自分が恥ずかしくなり、赤面してしまう。自然と足が早まってしまい、予定よりも早く家に到着した。
「ふぅ……いい汗を掻いたな」
ジャージのポケットからがま口財布を取り、その中からさらにタオルを引き出す。適度な疲れは実に心地よいものだ。ジャージの中に手を潜り込ませ、じっとりと汗ばむ身体を拭く。
そうしながらも階段を昇っていき、ポケットから取り出した鍵をクルッと指で回して鍵穴に差し込み一回転。ガチャンっという音の後でドアノブを捻れば、そこには布団を片付けようとしている良二の姿があった。
彼は寝ぼけ眼を擦り、ぼさぼさ頭のまま礼をしてくる。
「おはようございます。ランニング、どうでした?」
「気持ちよかったよ。でも、ちょっと汗を掻いてしまったからシャワーを浴びてくる」
「じゃあ、朝食の準備をしておきますね」
朝食、と聞いて腹の虫が否応なく呼応した。部屋全体に響き渡るほどの大きな腹の虫の声に、二人は声を揃えて笑った。
――さて、それから数十分後。風呂から上がったディシディアを迎えてくれたのは――存外にしっかりとした朝食だった。
「へぇ。てっきり断食させられるのかと思っていたよ」
「どこの修行僧ですか。ていうか、食事を摂らないのが一番ダメなんですよ。リバウンドしやすいですし」
「リバウンド?」
「また太るってことですよ……いただきます」
補足を入れつつ、良二は一足先に手を合わせ朝食にありつく。遅れて、ディシディアも箸を手に取った。
「いただきます」
今日の朝食は白米とわかめと豆腐の味噌汁、鮭の塩焼き。そして納豆だ。デザートにはバナナをカットしたものが添えられていた。
量もそれなりであり、栄養バランスもちゃんと考えられている。が、
「念のため言っておきますけど、おかわりは禁止ですよ?」
「わ、わかっている。そう怖い目をするな……」
不満げに唇を尖らせるディシディアだったが、味噌汁を啜って笑みをこぼした。
煮干しの出汁がキチンと取られているあたりは流石だ。雑味やエグ味はちっともないし、豊かな風味だけが伝わってくる。
「今日は木綿なのか。これもいいね」
「そっちの方がよく噛みやすいでしょう?」
絹ごしよりも木綿豆腐の方が噛みごたえもあるし、味も力強い。わかめもシャキシャキしていて必然的によく噛んで満腹中枢を刺激することになる。ダイエットをしている彼女を案じてくれているだろう。細かい配慮が光る一品だ。
続いて鮭の身をほぐして食べる。甘塩タイプなので、あまりしょっぱくない。けれど疲れた身体に鮭の塩気がじんわりと染みこんでいくような感じだ。焼き加減もちょうどよく、箸を入れるとほろりとほぐれる。
「あ、皮食べられますか? ダメなら残していいですよ」
良二から声がかけられるが、彼女はフルフルと首を振って否定した。
皮はパリッと焼かれていて香ばしく、よくあるぐんにゃりとした嫌な食感ではない。ディシディアは皮を使って身を包みこんだものを口に放り込み、よく噛み締めた。
かつて、とある歌人も「鮭は皮こそが醍醐味」と言ったものだ。キチンとしてやれば、これ以上ないほど上手くなる。旨みがギュッと凝縮された皮は身と合わさることでその破壊力を数倍以上にも高めていた。
「心配はいらなかったですね……てか、骨ごと魚食べてましたよね、昔……」
目を細めながらそんなことを言う良二。彼女が焼き魚を文字通り骨一つ残さず平らげたのは今でもよく覚えている。そんな彼女に皮が食べられるか、など無粋にもほどがある質問だった、と今更ながらに反省する。
一方の彼女は不思議そうに納豆を見つめている。微かに漂う臭気にわずかに目を細めるも、パックを手に取って良二の方に突き出した。
「なぁ、リョージ。これはどうやって食べるのだろうか?」
「あぁ、これはこうするんですよ」
言いつつ、良二は自分の納豆をかき混ぜてみせる。
「俺のやり方は最初に百回何も入れず混ぜて、次に醤油を入れてからまた百回混ぜるんです。その時、空気と混ぜるようにかき混ぜるのがポイントですよ。ほら」
グイッと箸を持ち上げると、納豆が糸を引きながら伸びあがった。その工程をしばし繰り返した後でまたかき混ぜ、空気を含ませていく。
しばらくすると、納豆の粒はほとんど消え去り、ほとんどが糸状になっていた。彼はそれをご飯の上に乗せ、パクパクと頬張る。
「……で、では私もやってみるとするか」
興味をそそられたディシディアも見様見真似でやっていく。最初はちょっと匂いが強い食べ物だと思っていたが、慣れるとそうでもない。
元々、彼女は癖が強い食べ物でも平気で食べられる方だ。納豆ごとき、余裕だろう。
「おぉ……これは、とてもよく伸びるな」
箸を下から上に動かすだけで納豆が糸を引いて伸びあがる。良二のものには及ばないが、ほとんどが糸状になっているそれを慎重な手つきでご飯の上に乗せた。
「ッ!?」
刹那、炊き立てのご飯の芳醇さと納豆の奥深さが融合する。食欲を引き出す香りの前で抗うことなどできない。ゆっくりとお茶碗を持ち上げ、ガツガツと口に入れていく。
(……美味いな。なぜ、今までこれを食べなかったのだろう?)
納豆は非常に粘ついて口の周りなどが汚れてしまうが、実に味わい深い。
熟成された旨み、とでも言うのだろうか?
ご飯の友としては最上クラス。単体で食べても十二分に美味い。
「本当は色々入れると美味しいんですけどね。キムチとか、ネギとかからしとか生卵も入れますよ」
「へぇ。面白いな。アレンジが効くから楽しめそうだ」
「納豆は健康にもいいですからね。今日は低カロリー高たんぱくになるようしましたよ」
なるほど、とディシディアは頷く。
昨日の今日決めたので十分とは言い難いが、それでもほぼ完璧だ。即興にしてはよく揃えた方である。
意識的によく噛み、最後にはバナナを口に入れる。素朴な甘さがシメにはピッタリだ。先ほどまで冷やされていた、というのも関係しているのだろう。いい舌触りだ。
「うん、ごちそう様。結構お腹いっぱいになってしまったな」
「これからはよく噛むようにしましょうね? たぶんそれだけで食べる量が減るはずですよ」
「わかってるよ……いやぁ、それにしても久々に走ったら気持ちよかった。空腹は最高のスパイス、ともいうがたまには走るのもいいね」
満足げに頷いていた彼女は大きく欠伸をしてゴロン、とその場に仰向けになって寝転ぶ。が、ふと部屋の照明が遮られたことに気づいて目を開けると良二が立っているのが見えた。
「すぐ寝たら太りますよ。ほら、起きてください」
「むぅ……いいじゃないか。疲れているんだから……」
「ダメですよ。ほら、しゃんとしてください」
「うぅ……リョージ……いつもの優しい君に戻ってくれ……」
潤んだ瞳を向けられて少々罪悪感が芽生えたが、これも全て彼女のため。心を鬼にしてグッと耐える。
ディシディアはすがる子犬のごとき視線を送っていたが、やがてわき腹を抱えられてその場に座らされる。少々不満げにしていたが、目の前にある食器群を見て盛大なため息をつく。
「……まぁ、しばらくの辛抱だ。痩せるまで我慢しよう」
「頑張ってください。ダイエットが終わったら何か食べに行きましょうね」
今はそれだけでも嬉しい。ディシディアは「ありがとう」と言って良二の手をキュッと握ってから自分たちの食器を台所へと持っていった。