第百九十三話目~節分! 恵方巻きと豆まき!~
「ただいま帰りまし……た……」
ドサッと、良二の抱えていたビニール袋が地面に落ちた。彼はあんぐりと口を開けて、前方を見やっている。目をシパシパと何度も瞬かせ、現実を理解しようと必死に脳を働かせているようにも思えた。
「おや、リョージ。呆けて、どうしたんだい?」
視線の先にいる人物――ディシディアがそんなことを言ってくる。しかし、今日の彼女はいつもと様相が違った。いや、違い過ぎた。
彼女が身に纏っているのは虎柄のチューブトップと腰巻のみ。白い肌と黄色い生地の対比が美しい。綺麗な白髪の下からは小さな角が覗いている。もちろん本物ではなく、角付きのカチューシャを身につけているのだ。
今の彼女を一言で表現するなら――『鬼』。そう。節分の主役といっても過言ではない『あの』鬼だ。
しばしポージングを楽しんでいたディシディアだが、放心している良二を不審に思ったのかそちらに身を寄せていく。が、徐々にその顔には悪そうな笑みが浮かび始め、良二は思わず身構えた。
「ふっふっふ……さぁ、リョージ。節分というのは豆を投げるんだろう? 今の私は怖い鬼だ。ほら、投げないと襲われてしまうよ……?」
一歩、また一歩と着実に足を勧めてくるディシディアの目がマジなのを見て良二は袋の中から豆を取り出す。パックを開け、一握り。勢いよく手を引き抜いて彼女に向かって投げようとするも……。
「で、できま、せん……」
構えた瞬間、ディシディアがビクッと身を震わせてしまったのを見てしまったのが悪かった。その瞬間、罪悪感が津波のようになって押し寄せてくる。
今の彼女は非常に露出度が高い。軽く投げたとしても豆はそれなりの硬度を誇るものだ。彼女の白い肌に痛みと赤い跡を与えるのかと思うとどうしても投げることができなかった。
豆を握りこんだ手をゆっくりと下ろし、口を噤んで俯く。
それを見たディシディアは一瞬微笑ましそうに目を細めたものの、すぐに悪そうな顔をして彼に肉薄する。
「う……ッ!」
彼女の白く細い手が伸びてくる。のけ反ったのとほぼ同時に胸を押されたためか、簡単に尻餅をついてしまった。馬乗りにされる。妖艶な笑みを浮かべてくる彼女は自分の肩に手を回してきて、頭を引き寄せた。いつもは穏やかな光を讃えている瞳はやや虚ろだ。身を捻ろうとするも、馬乗りにされているので上手く動けない。
「ちょ、ディシディアさん!?」
「ふふ、ほぉら。豆を投げないから、襲われてしまったじゃないか。ダメな子だね」
ハムッ……と首筋を甘噛みされた。微かな痛みと甘い快楽が走り、良二はビクンッと体を震わせる。その反応が面白かったのか、ディシディアは舌をチロチロと動かして良二の首筋を舐めていく。
「ちょ、あ、ディシディアさん……!」
懇願するような声を出すと、彼女がスゥッと身を離してくれた。ようやく解放されたのかと思ったが、瞳に妖しげな色が宿っているのを見て良二はヒッと掠れた声を漏らす。
一方のディシディア――もとい鬼はニィッと口の端を吊り上げ、ずれかかっていたチューブトップをちょいと直した。かと思うと、本物の鬼以上の迫力を全身から滲ませながらぺろりと唇を舐めた。
「ふふふふふ。可愛いね。食べてしまいたい」
「え、あ、ちょ!? ああああああっ!?」
悲鳴を上げるのとほぼ同時、ディシディアが再びのしかかってきた。首元のみならず、耳、頬、胸元を甘噛みされる。それだけじゃなく、着ていたコートまで剥ぎ取られて全身をくすぐられた。
細い指でのくすぐりは拷問級の破壊力を持つ。狭い玄関では身動きすることすらできず、彼女の責めに屈することしかできない。
――十分後。玄関先にはぐったりとした良二と若干ツヤツヤになっているディシディアの姿があった。衣服の乱れを直す良二は涙目でディシディアを見やる。彼女は満足げな様子で良二が買ってきてくれた恵方巻きや豆などをちゃぶ台の上に出そうとしていた。
「お、鬼だ……」
「ふふふ、そう、今の私は鬼さ。それにしても、君は甘いね。本物の鬼なら今頃食べられているよ?」
「……だって、女の子に豆をぶつけるなんてできないじゃないですか」
ブスッとあからさまに不機嫌な様子で頬を膨らませる良二。ディシディアはそんな彼の方にパチリと可愛らしいウインクを寄越し、続けて今しがた枡に入れたばかりの豆を差し出してきた。
「相変わらず紳士だね。さぁ、いよいよ豆まき開始だ。一緒にやろう」
今の彼女はにこやかに笑っていて、険は見当たらない。黙って頷き、枡を受け取る。中には豆が山ほど入っていた。
当のディシディアは豆を握り込み、
「こうするのだろう? おには~そと!」
存外、しっかりとしたフォームで豆を投げた。パラパラパラ、という異音が室内に木霊する。良二も彼女に倣って投げ、しばしそれを繰り返す。
「……ていうか、そろそろコスプレやめてもいいんじゃないですか? 鬼が豆投げて大丈夫なんですかね……?」
「いいじゃないか。可愛いんだし」
ディシディアは自分の体を見下ろし、えっへんと胸を張ってみせた。確かに非常に愛らしい衣装だが、彼女の魅力と相まってその破壊力は殺人的なものにまで高まっている。
なだらかな膨らみをチューブトップが優しく包み込んでいる。腰巻は非常に短く、少し動けばその下が見えてしまいそうだ。
(たぶん、下着は身につけてる……よな?)
一瞬、不安がよぎる。彼女はたまにとんだ勘違いをしてしまう時があるのだ。腰巻の下に何も付けていない、としたら完全にヤバい。この状況を誰かに見られるとさらにヤバい。自然と冷や汗が背筋を伝った。
が、そうこうしている間にも豆まきは終わった。一応、食べる分は別に確保してある。一通り豆をまき終わったディシディアは腰に手を当ててフンッと鼻を鳴らし、ピコピコと耳を上下させながら冷蔵庫に歩み寄った。
「さて、次は恵方巻きだね。ほら、君のだ」
「あ、ありがとうございます」
差し出された恵方巻きを受け取る。今回はちょっと奮発してお寿司屋さんで売っている海鮮恵方巻きを買ってきた。長さもそれなりであり、十センチはゆうに超える。
「えと……北北西は……こっちですね」
スマホのコンパス機能を使った良二は部屋の隅を指さす。その隣に並んだディシディアは恵方巻きを構え、チラと彼の顔を見上げた。
「恵方巻き、というのは喋ったらダメなのだよね?」
「そうですね。ちゃんと頭の中で自分のお願いを思い浮かべて食べるんです」
「なるほどね。わかった。それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
良二は大口を開けて、恵方巻きにかぶりつく。思わず、声が漏れそうになった。
恵方巻きはいつも自作で手軽に作っていたのだが、やはり寿司屋のものは違う。芳しい酢飯と風味豊かな海苔の下からは多くの具材たちが顔を覗かせた。
定番の卵焼きはふんわりとしていて甘く、マグロはしっかりとした肉感を保持しながらも生臭さは欠片もない。醤油をつけなくても食べられるのは十分に下味がついているからだ。
(美味しいな……奮発した甲斐があったかも)
千円近くしたが、その価値はあると素直に思う。やはり餅は餅屋、鮨は鮨屋といったところか。
ねっとりと濃厚なまぐろのたたきや脂の乗ったサーモン。食感が特徴的ないくらととびこ。キュウリや大葉、ガリは口の中をサッパリとさせてくれる。
食べるごとに新しい品が出てきて、ある種宝探しのような面白さもある。
実にすばらしい完成度だが、いつまでも浸っているわけにもいかない。良二はすぐにハッとして、眉根を寄せた。
(願い事、か……)
ふと思いついたのは、隣にいるディシディアの顔だった。彼女が笑ってくれていること――よく考えても、それが一番の願いだと思う。
彼女の笑顔を見ていると、自分も楽しくなるのだ。だから、笑っていてほしい。あの素敵な笑顔に、自分は救われたのだから。
どことなくセンチな気分になっていた良二は何気なく隣にいるディシディアを見て、
「……!」
わずかに息を呑んだ。ディシディアは小さな口を目いっぱいに開けて恵方巻きにかぶりついているものの、明らかにサイズが合っていない。
「ん……ふぅ……」
口からは苦しげな呻きが漏れている。目尻には涙が浮かび、息苦しさに悶えている様だった。この分では味わうことなどできてはいないだろう。ただ、作法に従って食べているだけだ。
良二はそっと彼女の背を擦った。苦しかったらやめてもいい。そういったニュアンスが伝わるような視線も寄越す。が、彼女は目尻から涙をこぼしつつ首を振った。
(……ダメだな)
スッと恵方巻きから口を離し、ごくりと嚥下する。そうして口の中が空っぽになった頃を見計らって、良二はゆっくりと口を開いた。
「無理しないでください。絶対に作法に従わなくちゃいけないわけじゃないんですから」
諭すような口調を心掛けると、彼女の眉が少しだけ下がった。すかさず、追撃する。
「美味しいものはちゃんと味わわないと損ですよ。ね?」
「……ぷぁ」
半分ほどまで齧っていた恵方巻きから口を離し、ハムスターのようになっている頬をもごもごと動かして口の中のものを飲み下す。
「……ぇほっ! けほっ!」
「大丈夫ですか? 無理するから……」
苦しげに餌付く彼女の背中を撫でる。涙に潤んだ瞳がこちらを見据えた。ドキリとする間もなく、彼女の口が動く。
「……ありがとう。助かるよ」
「どういたしまして。それにしても、どうしてあんな無茶をしたんですか? そんなにお願いを叶えたかったんですか?」
「……まぁ、ね」
ディシディアは口を尖らせていたが、やがてポツリと呟く。
「……君の言う通りだね。無理はすべきではない。美味しくいただくのが食材たちへの礼儀だ」
そういった彼女は口を開け、チビチビと恵方巻きを食べていく。もう喋ってしまったのだが、一応恵方を向いたまま食べていく。その顔には先ほどまでのような悲壮感はなく、ニコニコとした笑みが浮かんでいた。
願掛けは大事だ。が、結局は心の持ちようだ、と良二は考える。
自分がどう動くかで未来は変わるのだ。待っているだけでは何もならない。それは十分理解しているつもりだ。
今回、願掛けは失敗した。が、だからこそ奮起する。彼女に笑っていてもらうため、尽力することを誓う。
「……ふぅ。ご馳走様。こんなに美味しいなら、最初から味わっておけばよかった」
いつの間にか食べ終えていたらしきディシディアは唇を尖らせていた。良二もすぐに恵方巻きを食べ終え、食べるように取っておいた豆を指さす。
「じゃあ、最後に豆を年の数だけ食べましょう。それで今日はおしまいです」
「あぁ! ……って、年の数? ということは……百九十粒も食べなくてはいけないのかい?」
「……まぁ、そうなりますね」
ディシディアの顔が驚愕に彩られる。豆は軽い後味なので、食べること自体はそう苦ではないだろう。問題は、数を数えることだ。
良二は現在二十一歳。二十一を数えるだけでもそれなりに大変だというのに、その十倍近くを数えなければいけない。それがどれくらいの苦労かは想像に難くないだろう。
「……数えるの、手伝いましょうか?」
「すまない。頼む」
それから良二は十ずつ豆を分けていき、それをディシディアが次から次へと口へと放り込んでくる。こうしているとますます餌付けをしているような気がして、少しばかり背筋が痒くなった。が、
(……ま、幸せそうだからいいかな?)
ディシディアは満面の笑みを浮かべてポリポリと豆を齧っている。耳が上下しているところからも喜んでいるのは伺えた。今の彼女は相当露出度が高い衣装をしているのであまり見ていると自然と顔が熱くなってしまう。
(それにしても、ディシディアさんはどんなお願いをしていたんだろう?)
ふと思いついた疑念に首を傾げる。あれほど一生懸命食べていたほどだ。相当大事な願いに違いない。
――だが、それが何であれ、自分にできることなら何でもしてやろう、という心づもりだ。良二は口の端を歪め、最後の豆を仕分ける。
そうして、あらかじめ自分の分の豆を入れていた枡を手に取り、ディシディアと視線を絡ませた。彼女の手にも同様の枡が握られている。
二人はコツン、とそれを打ち合わせ一気に頬張った。互いに幸せそうな表情をして、見つめあっている。
だが、この時まだ彼らは気づいていなかった。
豆まきで一番大変なのは後片付けだ、ということに。
この数十分後。二人は調子に乗ってまきすぎた豆を涙目で回収する羽目になるのだった。