第百九十話目~味噌ラーメンとテスト終了~
始まってしまえばテスト期間というのは案外短いものである。とうとう最終日を迎えた今日、良二は晴れ晴れとした顔で玄関の敷居を潜った。それを迎えるディシディアの顔もまた晴れやかなもので、二人は互いに微笑みあう。
「おかえり、リョージ。どうだったかな?」
「バッチリです!」
グッとサムズアップをしてくる良二。だが、この結果は予想済みだった。
彼は元々真面目な性格だし、日ごろから勉学に励んでいた。ディシディアはたびたび彼がもらったプリントなどを見せてもらうことがあったのだが、返却された小テストもほとんど丸だらけだったのを覚えている。
玲子が言うには、ゼミでの態度も概ね同じ感じらしい。自分がそれをまだよく知らないことについては多少違和感があるにせよ、今はただ彼が安堵していることが愛おしい。
靴を脱いで家に上り込んだ彼に、後ろからギュッと抱きつく。と、彼は首だけを腰元にある彼女の方に向け、小首を傾げた。
「どうしたんです?」
「ん? いや、ご褒美さ。よく頑張ったね」
「ディシディアさんのおかげですよ。夜食作ってくれたりしたじゃないですか」
「何を言う。今回は君が頑張ったからだよ。自分の努力には胸を張りなさい」
年長者らしい態度を見せるディシディアに苦笑を寄越す。彼女は腰に手を当てていたかと思うと、思い出したように冷蔵庫の方へと向かった。
「ッと、まだお昼は食べていないだろう? 何か作ろうか?」
「いや、せっかくだし今日は外食しませんか? ほら、テスト期間中はほぼ缶詰でしたから」
それに異を唱える理由はない。ディシディアはすぐに頷き、居間へと向かう。タンスを開け、衣服を出す彼女を見て良二はわずかに頬を染めた。
「何なら、近くで見てもいいんだよ?」
「け、結構です」
相変わらず、からかわれるのは苦手だ。すでに二百歳近い彼女だが、外見は小学生女子そのもの。その着替えを見ているとなれば、犯罪臭は否めない。
ディシディアは背を背ける彼を見て口を尖らせながらも上着を脱ぎ捨てる。つつましい胸を包みこむ純白のブラが露わになった。それを見て、ディシディアは頬を綻ばせる。
アルテラにも下着の類はあったのだが、ここまで多岐にわたるものではなかった。小人族――あちらではリアと呼ばれている者たちの集落に行ったときに色々と調達したのだがどれもこれも質素で地味だったのは中々にショックだったものだ。
あの時はまだ彼女も若く、オシャレをしたい年頃だっただけに相当辛かった。仕方なくサラシなどを巻いていたことはあったのだが、色気の欠片もないことを友人から指摘された時は泣きそうになった。
しかし、こちらには色、形、どれをとっても可愛らしいものが揃っている。あの頃できなかったお洒落をしよう、とばかりに意気込む彼女は色々と買い揃えているのだ。
(というか、洗濯物を畳むときには見ているのだから、別段気にすることもないだろう)
ジト目を良二の背中に向ける。彼はブルリと身を震わせるも、こちらを見ることはしない。彼は変なところで律儀というか、頭が固いところがある。
(やれやれ、先が思いやられるな)
だぼだぼのパジャマを脱ぎ、今度はフリル付きのパンツが晒される。彼女は大きなため息をつきながら黒ストッキングを履き、続けてスカートを身に着ける。
そうして窓に映り込む自分の姿を見て、大きく頷いた。
白いセーターに青いスカートがよく似合っている。黒ストッキングに包まれた細い足は形がよく、そのラインを露わにしていた。
実を言うと、食べ物と同じくらい楽しんでいるのがお洒落なのだ。大賢者となってからは基本的に決まった服しか着れなかったし、誰かに見せる機会もなかった。という理由もあって、こちらの世界でコーデを楽しむのは彼女の日課となっている。
「よし、いいよ。リョージ。見てごらん?」
ふと彼が振り向いてきたのと同時、その場でクルリとターン。スカートの裾がひらりと翻る様はやはり優雅だ。彼女は一回転した後ピタリと止まり、恭しく礼をしてみせる。
「可愛いですよ、ディシディアさん」
彼の賛辞に頬が緩む。こうやって褒めてくれるから張り合いがあるのかもしれない。
彼女は続けて愛用のポシェットとがま口財布を手に取り、彼の方へと足を向けた。
「じゃあ、行こうか」
「はい。今日は……どんなものが食べたいですか?」
「君が食べたいものでいいよ」
良二はその言葉に頷きを返した後外に歩み出て、ディシディアも出てきたのを確認してからドアを閉める。ガチャリ、という硬質な音が聞こえ、ドアノブを捻ると固い手ごたえが返ってきた。
二人はアイコンタクトを交わし、アパートの階段を下りていく。ディシディアの履くブーツがカンカンカン、と音を鳴らした。
良二は彼女を先導するように歩いていく。彼が向かうのは駅とは真逆の方向だ。初めて辿るルートに、ディシディアの期待も自然と高まる。
周りの様子を伺っていると、季節の移ろいも感じられた。もう冬も終わりかけているのだろう。木々には活気が戻り、気温も温かくなってきている。彼女がやってきたのは夏だったため、春を経験したことはない。芽生えの季節、ということだけを知ってはいるがどのようなものかは理解できていないのだ。
「あ、そうだ。ディシディアさん。明日からは俺も学校が休みになるんで、色々遊びませんか?」
「いいね。映画を見たり、どこかに買い物に行ったり……」
「美味しいものを食べたり?」
見透かしたような彼の言葉にわずかながら頬を染めてしまう。彼とはもう長い付き合いだ。一緒に生活をしてきて彼の考えることも徐々にわかってきている。いつもは自分がやっていることをやられるとちょっぴり気恥しいものだ。
「っと、見えてきましたよ」
彼が指差す先には日本建築風の店があった。そこには数名の男性たちが並んでいたが、店内から顔を覗かせた女性に促され中に入っていく。店先に置かれている看板を見て、ディシディアはポンと手を打ち合わせた。
「なるほど。ラーメンか。寒い日にはうってつけだ」
「先輩が教えてくれたお店なんですよ。とっても美味しいって」
ほぅ、と頷く。確かに、ここまで漂ってくる香りは濃厚でうっとりとしてしまうものだ。が、初めて嗅ぐ匂いだ。豚骨とも違う。醤油とも、塩とも違う。もっと濃厚で、けれどまろやかなものだ。
首を傾げながらも店内に足を踏み入れると、たくさんの男性たちが一心不乱にラーメンを啜っているのが見えた。店内には湯気とラーメンの香りが充満している。空腹の二人にとってはそれだけで効果抜群だ。
「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」
女性に促され、二人はカウンター席に腰掛けた。厨房では何人もの男性スタッフが忙しそうに駆け回っている。湯きりの音が耳朶を打ち、何かを焼いているような香ばしい香りも漂ってきた。
「お冷をどうぞ。ご注文が決まり次第お呼びください」
「どうも」
良二は彼女に頷き返し、ひょいっとメニューを取った。それを開き『おすすめ!』と描かれているものを指さす。
「このお店は『味噌ラーメン』が有名らしいです。これでいいですか?」
「あぁ。しかし、味噌ラーメンか……食べたことがないからわからないな。ふふ、面白いね。また未知の味に出会えるとは」
クスクスと笑う彼女を尻目に良二は女性へ注文を言い渡し、ディシディアの元に視線を落とす。彼女はにこやかに告げた。
「ラーメン、とひとくくりにしても色々あるのだね。面白いことだ」
「そうですよね。ラーメンは他の麺類に比べても種類が多い気がします」
「本当に楽しみだ。麺類は好きだよ。食べやすいし……まぁ、音を立てて啜るのには驚いたがね」
ひょいっと肩を竦めてみせるディシディア。その様を見て、良二はキラリと目を輝かせた。
「じゃあ、今度美味しい麺料理を教えますよ。明日からは暇になりますしね」
「おぉ! 期待しているよ。君が勧めてくれるのはほとんどハズレなしだからね」
脳裏をよぎるのは以前食べたサルミアッキだ。あれはひどかった。彼が勧めてくれるものだから、と食べたのが間違いだったと今更ながら思う。まぁ、数口食べれば舌が慣れて――もとい壊れて食べられるようになっていたのだから。
非難がましい視線に気づいたのか、良二は視線を逸らしていた。口笛を吹こうとしているが、ふゅーふゅーと奇妙な音だけが漏れている。ディシディアは嘆息し、お冷を煽り再び店内を見渡した。
男性率が比較的高めだが、女性の姿も見える。おそらく、大学生だろう。年若い女の子たちがきゃあきゃあと楽しげに談笑しているのを見て目尻を下げた。
「いいな……若いというのは」
思ったことが口に出てしまっていて、彼女はハッと口元に手を当てる。が、幸いにも良二は聞いていないようだった。今のを聞いたら、彼はきっと歯の浮くようなセリフを述べてみせるだろう。そんなことを思っていると、やがて女性スタッフがやってきた。
「お待たせしました。味噌ラーメン二つです」
「おぉ!?」
トレイに載っているラーメンを見て、ディシディアの目が輝いた。
茶色をした濃厚系のスープの下には太めの麺が沈んでいる。大きめの器の半分を占めるほど巨大なチャーシューが印象的だった。トッピングとしては青ネギともやし。色合い的にもいい役割を果たしてくれていた。
が、じっと見ていてはせっかくの麺が伸びてしまう。箸を取り、静かに手を合わせる。
『いただきます』
二人は同時に呟き、麺を啜る。すると、ディシディアの耳がピョンッと跳ねあがった。
豚骨ラーメンよりももっと濃厚で、クリーミーな味わいが口いっぱいに広がった。野菜系の出汁が取られているのだろう。深みがあって、微かな甘みも感じられる。
しかし、ベースとなっている味噌がやや辛めなため、たまにピリッとした刺激が舌を貫いた。それすらアクセントとなっているのだから心地よい。
「これは、確かにいい味だな」
「ですね。先輩にはお礼を言っておきますよ」
顔も知らない良二の先輩に心の中で礼を言いつつ、今度はチャーシューにかぶりつく。
厚さはそうでもないが、器の半分を埋め尽くさんばかりの大きさだ。一口ごとの満足感は尋常ではなく、スープと絡んだ際には極上の味わいへと変化した。
軽くあぶっているところもポイントだ。味噌ラーメンに入れるなら、このチャーシューこそが適任だろうと思わざるを得ない。甘い脂身はピリ辛のスープに絶妙にマッチしていた。
(ラーメンは奥深いな……まだまだあると思うと面白い)
みそ、しょうゆ、塩、豚骨。さらにこれらを組み合わせたものまで存在する。おまけに、店ごとにわずかながら味が違うのだ。
出汁の取り方、麺の種類、使う素材によっても味が変化する。当然のようだが、ディシディアにとっては興味をそそるものである。
(いつか色々なラーメンを食べてみたいものだ)
麺をすすりながらそんなことを思う。太麺はモチモチしていて、喉越しも素晴らしい。このスープとの相性は言わずもがな。よく考えられている、と思ってしまった。
もやしやネギも口直しとして重要な意義を持っている。食感もよく、食べていて飽きることがない。
気づけば、残るはスープだけとなっていた。もちろんレンゲは備えられているが、ディシディアは小さな両手で大きな器をがっしりと掴み、口元まで持っていく。
「ん……ふぅ」
口をつけ、ごくごくと飲み下す。ラーメンのスープは体に悪い、という人もいるがそんな考えはすでに家へと置いてきた。余計な考えは食事には不要なのである。
今はただ、目の前にある美味しいものを貪るだけ。あっという間に器を空にしたディシディアはコトン、と器を置き静かに手を合わせる。
「ご馳走様……うん、美味しかった」
ペロ、と口回りをピンク色の舌で舐めとる。余韻に浸りながらお冷を煽り、ポッコリと膨れたお腹を撫で下ろした。
久々の外食は大満足で終わった。後は、明日からの冬休みをどう過ごすかである。
遅れてスープを飲み干した良二は彼女の方に視線を移し、ニコリと笑む。
「もうちょっとゆっくりしていきません? ちょっとお腹が苦しくて……」
「ふふ、いいよ。帰りにビデオ屋に寄らないかい? 映画を借りていこう」
「賛成です……って、ディシディアさん。どうして笑っているんですか?」
「ふふ。だって、リョージ。君、鼻水出ているよ?」
「えっ!?」
慌ててティッシュを取ろうとする良二よりも先に、ディシディアがハンカチを取り出して鼻を拭ってやる。その甲斐甲斐しい手つきについ目がとろんとなった。
「ラーメンを食べるとこうなるから仕方ないさ。ほら、動くな。ちゃんとこっちを向きなさい」
そう言われても、二人の距離はとても近いのだ。少し動けば互いの額がぶつかってしまいそうである。ディシディアの綺麗なエメラルドグリーンの瞳は蠱惑的で、じっと見ていると吸い込まれそうだった。
ただ、それよりも良二にとっては周りからの視線が痛い。端から見ればしっかりした妹に世話をされている情けない兄、という感じだろう。正直言って、恥ずかしすぎる。
「も、もういいですから」
ぷいっと顔を背ける。耳まで真っ赤になっていた。
「よし、もう大丈夫だね。さて、そろそろ出ようか」
ピョンッと椅子から飛び降りる彼女の後を追う。その後ろ姿がとても可愛らしかったので、家でやられたお返しに抱きつこうかと思ったが――普通に通報されそうだったのでやめた。