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第百八十九話目~酉年パンとスライスバゲット~

「ふむ……やはりここも変わらないな」


 久しぶりに商店街を歩くディシディアはそんな声を漏らした。左手には先ほど買ったばかりの食材が入っているマイバッグを掲げ、右手にはメモを持っている。

 家を長く留守にしていたので食材もそこまでいいものが揃っておらず、良二が学校に行っている間に買い物にやってきたのだ。野菜やお肉など、必要な食材はすべて買った。それと、なくなりかけていた調味料などもちゃんと買っている。

 彼女はバツ印がつけられているメモを見て、満足げに頷いた。

「よし、こんな所かな。後は帰るだけか」

 そこで、彼女はきょろきょろと辺りを見渡す。この商店街は食べ物の宝庫だ。

 買い食いするならばたい焼きやたこ焼きなどを売っている店があるし、ちょっと休憩が取りたいならスウィーツが自慢のカフェや学生向けの食事を安く提供してくれる食堂もある。より取り見取り、右から左へと視線を移動させては首を捻る。悩みどころだ。


「むぅ……難しいな」


 自分のお腹にそっと手を当てる。ぐるるるる……と獰猛に唸る腹の虫は相変わらずだ。ため息をつくと白い息が出た。まだまだ冬の寒さは残っていて、風が吹く度に耳を縮めてしまう。


(うぅ……寒いな。今日は家でのんびりするか……)


 なら、テイクアウトにしよう、とまずは一つ目のハードルをクリア。次はどんな品を頼むかだ。テイクアウトはほとんどの店でやっているものの、当然ながら品は違う。

 そんな中でディシディアが決めたのは――以前、玲子が勤めていたパン屋だった。

 店を見ると、かつて玲子がいた時の記憶が呼び起された。ディシディアはその感覚を懐かしみながら、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。


「いらっしゃいませ」


 迎えてくれたのは二十代半ばの女性だった。彼女はにこやかな笑みを浮かべてくれるも、ディシディアはぎこちない笑みしか返せない。

 一瞬だけ、まだそこには玲子がいて自分に笑いかけてくれてくれるかもしれない、という馬鹿げた妄想が頭をよぎったのだ。恥ずかしがりながら教えてくれるオススメを買って、彼女が精算を行っている間に談笑する。

 過去の思い出を想起しながらトレイとトングを取った。そうして、店内へと視線を巡らせる。相変わらず充実したラインナップで、店内は香ばしさや甘さのある香りで埋め尽くされていた。


「さてさて、どれにしたものか」


 無意識のうちにトングをカチカチ言わせながら品を見やる。いくつか新商品もあるようだ。その中でも特に目を引くのは――


「これ、は……なんと可愛らしいのだ……ッ!」


 今年の干支である酉――もといヒヨコをモチーフにしているパンだった。おそらく孵化したばかりを表現しているのだろう。頭には殻の帽子を被り、おしりには殻のパンツをはいているような姿をしている。

 目と足はチョコレートソースで形作られている。嘴は――ナッツ類だろうか。

 しかし、それは紛れもなくパンである。自然と、ディシディアの喉がゴクリと鳴った。

 彼女は慎重な手つきでヒヨコをトレイに乗せる。実際、すぐに潰れてしまいそうな柔らかさだった。彼女はなんとかヒヨコを迎え入れた後で、次はバスケットに入れられているバゲットを見た。

 その後で、店内にいる女性に声をかける。


「すまない。このバゲットを一つもらえないだろうか?」


「はい。おひとつでよろしいですか? 薄くスライスすることも可能ですけど、いかがいたします?」


 女性は実に手慣れた様子だった。内心驚きつつディシディアが頷くと手にビニール手袋を装着してバゲットを一つ取り、専用のスライサーの元に持っていってカットする。

 数センチ間隔で切っていくにつれて、バゲットはみるみる間に小さくなっていく。ディシディアは初めて見る機会に興味津々のようで、目をキラキラと輝かせていた。


「ふふ、珍しいですか?」


「あ、すまない。いや、初めて見るものだったので、つい」


「謝らなくていいですよ。もっと見てくださいな」


 と、彼女が微笑んだのとほぼ同時、店の厨房から男性店長がやってくる。彼はディシディアの姿を見るなり、目をキラッと輝かせた。


「おぉ! 君は一乗寺さんの知り合いの子じゃないか! いやぁ、よく来てくれたね!」


「あぁ。久しぶりにこの店の味が恋しくなってね。相変わらずで何よりだ」


 玲子がいなくなってから何となくこの店に足を運ぶ機会がなくなっていたのだが、店長はちゃんと彼女のことを覚えていてくれたらしい。

 それが嬉しくてつい頬を緩ませていると、バゲットをビニール袋に入れている女性が首を傾げてきた。


「兄さん、知り合いなの?」


「あぁ、ウチの常連さんだよ」


「む? お二人は兄妹なのかな?」


 ディシディアはその場にいる二人を交互に見やる。確かにどことなく面影があるし、目が似ている。妹の方はやんわりと微笑み、小さく頷いた。


「はい。兄さんのお仕事が大変だって聞いたので、急いで飛んできたんです」


「こいつ、今は劇団に所属しているんですよ。まぁ、それだけじゃ厳しいからこうやってバイト代わりをしてもらってるんですけどね」


 なるほど、とディシディアは頷いた。確かに端正な顔立ちをしているし、メイクの技術も上手いように思えた。

 感心する彼女をよそに女性は手早く会計を済ませ、スマイルを向ける。


「四百二十五円です」


「む、待ってくれ。はい、頼む」


 がま口からお金を出し、代わりに大きめのビニール袋をもらう。案外、軽い。スライスされたバゲットは相当な量はあるが、そこまで重くなかった。


「じゃあ、また来るよ。ありがとう」


『毎度ありがとうございました』


 兄妹の声を聴きながら店を後にし、まずはバゲットをちょいと袋から出して摘まむ。


「……いただきます」


 そっと手を合わせてから一切れ放り込む。と、もっちりとした歯ごたえがやってきた。

 バゲット自体にも軽く味がついている。塩が効いたバゲットは食べやすく、あっという間に口の中から消えてしまった。


「案外、何も付けなくても美味しいのだな」


 小腹塞ぎのために摘まんだだけなのに、予想外の味わいだった。豊かな小麦とバターの風味が口の中を駆け抜け、モチモチとした食感が美味さに拍車をかける。

 しかも、あっさりとしているからスイスイ食べられてしまう。一つ、また一つとビニール袋の中から消えていき、気づけばあと数切れ程度になっていた。


「……しまったな。まさか、こうなってしまうとは」


 バゲットがこんなに美味しいものだとは思わなかった。まるでポップコーンのように軽やかな後味で、やめられない、止まらない。

 こうなってしまったことを責められる者は誰もいないだろう。ディシディアは額に手を当てて困惑していたが、もうこの際だ、と割り切ったらしく残りのバゲットも全部口に入れる。

 それらを嚥下するなり、満足げに息を吐いた。


「ふぅ……次はちょっと手を加えても面白いかもしれないね」


 バゲット自体に癖がないので、案外どんなものにも対応できるかもしれない。

 ガーリックトースト風にしてもいいし、ピザ風だってきっと合うだろう。いや、いっそのことデザートとしてホイップクリームやジャムをトッピングするのもありだ。このバゲットには無数の可能性が詰まっている。

 ――が、まずはこの残ったヒヨコ型のパン――店では酉年パンとこしょうされていたものを食べる方が先だ。手に持つとほんのりと温かく、まるで生きているように感じられた。

 正直言って、食べるのが可哀想だ。一瞬目が合ってしまうと「助けて」と言われているような錯覚すら覚えてしまう。

 けれど、ディシディアは首を振り、大口を開けてかぶりつく。

 直後、噛んだ瞬間に溢れてきたのは甘いクリームだ。ベースはクリームパンで、卵のからはメロンパンの生地を使っているらしい。カリカリ、サクサクとしていて食感にアクセントを加えてくれる。目の部分に用いられているチョコレートのビターさもいい。クリームパンはやや甘すぎるのがたまにキズだが、いい具合にバランスが取れている。

 嘴はクルミだ。仄かな苦味と素朴な甘さが全体的に甘いパンの中で映える。カリッとした食感は快感だ。口の中をクルミが持つ独特の風味が貫いていき、しかし次の瞬間には見事なまでにクリームの甘さと混じり合う。


「~~~~~~っ!」


 ディシディアはニコニコと笑顔を振りまいていた。可愛さだけではなく、味も一級品だ。久しぶりに食べるからだろうか? 以前も美味しく感じられる。


(……まぁ、また訪れるのもいいかもしれないな)


 確かに玲子はいない。けれど、彼女がいないからと言ってパン屋に行かなくなるのはどうかと薄々気づいてはいたのだ。

 そこにこのパンがやってきて、背中を押してくれた。そこでようやく自覚する。

 自分は玲子と話すのも楽しみにしていたが、それと同じくらいこの店のパンも楽しみにしていたのだ、と。

 そうとわかれば後は早い。ディシディアは新たな思いを胸に、家路を急ぐのだった。


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