第百八十七話目~アップルパイは課題の後で~
「お、終わったぁああああ……」
良二はガッツポーズと共に後ろに倒れ込む。と、後頭部に柔らかな感覚。静かに目を開けてみれば、ディシディアの顔が見えた。つまり、自分は今膝枕をしてもらっているんだな、と妙に冷静な頭で考えるも特に狼狽えるでもなくその感覚を甘受する。
「ふふ、お疲れさま」
ひんやりとした手が目元に当てられる。これまでずっと紙と睨めっこしていて眼精疲労が起こっているのでとても心地よい。プニプニとした手の感覚はタオルとは比べ物にならないほど癒しを与えてくれる。
良二は一旦身を軽く起こし、卓袱台の上に積み上げられている課題の山を見つめる。
長かった。実に長かった。
寝る間も惜しみ、死に物狂いでやった。我ながらよくやったものだと思う。
だが、そのせいで貴重な休みを無駄にしてしまった。チラリと時計を見れば、今日は長期休暇最後の休みなのに、もう夜の十時を回っている。課題をやり始めてからというもの、どこにも外出できていないことに今さらながら後悔の念が沸いた。
が、まずは課題が終わったことへの喜びが押し寄せてくる。良二はグッと背伸びをして、再びディシディアの膝枕に頭を預けた。
自分と同じ石鹸を使っているはずなのに、まるで花のように甘い匂いが漂ってくる。さながらはた畑で寝ているような錯覚を覚えながら目を瞑っていると、ディシディアの澄んだ声が耳朶を打った。
「本当にお疲れ様。疲れただろう?」
「もう、すっごく疲れましたよ。今日はよく眠れそうです」
「明日からはもう学校だものね。確か、もうすぐ期末試験もあるのだろう? 頑張りなさい。君なら大丈夫さ」
期末試験――いま最も聞きたくない言葉を聞いてしまい良二は呻くが、その様を見て自分を見下ろす彼女は微笑を讃えた。
「まぁ、今はゆっくりと休みなさい。もうしばらくこうしていようか?」
「すいません、お願いします」
「いいとも。甘えたがりの君も大好きだからね」
そっとおでこを撫でられる。懐かしい感覚だ。昔、母親も膝枕をすると必ずおでこを撫でてくれたものだ。
自分が身を預けている膝枕はあの時のものよりも小さくて少々頼りないように思えるも、言いようのない安心感の様なものがある。おそらく、これが商品化されたならば世界は熱狂するだろう。そう思ってしまうほどの快適さだ。
これまでの疲れがじんわりと融解されていく。良二は薄目を開け、彼女のおさげの先を指で弄った。
(本当、綺麗な髪だな……)
今、彼女はいつもの通りショートボブに戻している。もみあげのところから垂れるおさげの先には民族風の綺麗なリボンがアクセントとして巻かれていた。
絹糸のような白髪は滑らかで、すべすべしている。こうやって髪を弄るのは考えてみれば初めてだな、と良二はどこか他人事のように考えていた。
猫のように毛先にじゃれつく良二にディシディアは何も言わない。彼が甘えてくれるのを嬉しく思っているのだろう。
父親の一件を経てから彼は自分にもっと素を曝け出してくれるようになったと思う。きっと、母親がいた時はそこまで甘えられなかったのだろう。聞けば、ほとんど仕事に出ていて家に帰ってくるのはとても遅かったという。なら、これも当然か、とディシディアは内心呟いた。
そして同時に、自分も素を曝け出せるようになっていることに気づく。最初は居候として節度ある態度を心掛けていたが、今は家族という認識の方が強いので遠慮をしなくなった。
子どものように笑ったり、泣いたり、怒ったり……本当に、変わりつつあると彼女自身思う。
彼ならば、きっと自分の全てを受け入れてくれると確信している。もちろん不安がないと言えば嘘になるが、それでも彼の人柄はこの半年を通じて理解してきたつもりだ。
優しく、お人よしで、苦手な物を前にすると途端に臆病になったりするのに、いざという時には普段の愛嬌のある顔からは想像もできないほど凛とした表情を見せてくれる。こうやって甘えることもあるけれど、時には自分を律してくれる。
そして何より、自分を年上として敬いつつも、対等の立場で物を話してくれる。それが何よりも愛おしい。
――彼女もまた、触れ合いに飢えている者だ。百年以上軟禁されていたのだ。その孤独は計り知れない。だから、少々恥ずかしく思えたりはするものの、こうやって素直に好意をぶつけてくれるのは何よりも嬉しいものだ。だから、自分もお返しとばかりに好意をぶつける。
「なぁ、リョージ」
「? どうしたんですか?」
「君に会えてよかった。心底そう思うよ」
「どうしたんですか、急に。そんなこといつも言っているじゃないですか」
「まぁね。そういう気分だっただけさ……さて、そろそろ足が痺れてきた。ちょっとだけ起きてもらっていいかな?」
彼はよっこらせ、と身を起こして部屋の壁に身を預ける。目の下には隈ができていて頬はゲッソリとこけている。そんな彼を一瞥するなり、ディシディアはパチンッと手を打ち合わせた。
「さて、課題が終わったささやかなお祝いだ。いいものを買ってきたから、一緒に食べよう。机の上のものを片付けてくれ」
「はい……わかりました」
良二は盛大な欠伸をしながら散らばっているレポートや参考書を部屋の隅に寄せる。その後でこちらに歩み寄って来ようとしたが、ディシディアは手で制した。
「休んでいていいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
良二は彼女の目を見て頷き、リモコンを取ってテレビをつける。今日は面白そうなドラマをやっているようで、テレビの向こうでは女優と男優が熱演していた。
ディシディアはテレビから流れてくる音を聞きながら冷蔵庫に寄り、そこから紙箱を手に取る。それはディシディアの手よりも二回りほど大きい。
彼女は満足げに頷くなり紙箱を持ったまま居間へ行き、それをちゃぶ台の上に置く。良二の視線が向けられるのを感じながら箱を開くとそこから現れたのはアップルパイだった。
サイズは箱よりほんの一回りほど小さいが、それでも二人で食べるならば十分だ。ホール型のアップルパイからはリンゴの甘酸っぱさと生地の香ばしさがない交ぜになった香りが漂ってきている。
「今日は紅茶を持ってこよう。まぁ、安物だがね」
彼女は一旦厨房に戻り、やかんを火にかけティーカップとティーバッグをそれぞれ二つ分出した。そうして、次は包丁を手に居間へと戻る。
「魔法を使って切った方が早いんじゃないですか?」
「それだと情緒がないだろう? ふふ、それにしても魔法か。久しく使っていないような気がするよ」
彼女はクスクスと楽しげに笑いながら包丁を華麗に操ってアップルパイを均等に六等分する。断面は美しく、アップルパイは潰れていない。見事な腕前に、良二は思わず賛辞と拍手を送った。
「さてさて、次は取り皿とフォークかな。お砂糖はいるかな? 紅茶用に」
「いや、大丈夫です。たぶん、アップルパイが甘いと思うので」
「同感だ」
彼女は食器棚から先ほど述べたものを取り出しつつ短く答えた。それらを運び終えるころにはやかんのお湯も沸いており、パタパタと厨房に戻る。
ティーバッグにお湯を注げばいい香りが漂ってきた。既製品であるとはいえ、それでも粗雑なものは混じっていない。心地よくなるような爽やかさだ。
配膳を終え、席に腰掛ける。そうして、良二と視線を絡めた。
「さて、それでは頂こうか」
「はい。いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、まずはアップルパイを取り皿に移す。ついでなので良二のものも移してやった。彼は「ありがとうございます」とだけ言ってフォークを手に取ってアップルパイの欠片を口に運ぶ。
瞬間綻んだ彼の顔を見て、ディシディアは目尻を下げた。
これだけ喜んでもらえるなら商店街にまで足を運んで買ってきた甲斐があったというものだ。人気の品のため競争率は高かったが、その苦労も報われたというものである。
ディシディアもフォークを器用に操ってアップルパイを一口サイズにカットし、口に入れる。間髪入れず、加熱されたリンゴの濃厚さがやってきた。
だが、重苦しいものではなく、甘酸っぱくて涼やかな後味だ。それが生地のサクサクと相まって実にいい。
ひょっとしたら、レモン果汁をアクセントとして加えているのかもしれない。キリッとした風味が全体の味をグンッと高めている。本当に隠し味程度なので合っているか自信はないが、それでもディシディアは感嘆した。
ちょっとした驚きも料理の醍醐味である。ディシディアは嚥下するなり、紅茶を啜った。
温かな紅茶はゆっくりと体に染みわたっていくようだ。こくこくと喉を鳴らして飲んでいるうちに、ポカポカと体が温まってきた。
「はぁ……染みわたりますね」
「ふふ、年寄りみたいだよ、リョージ」
「ディシディアさんに言われたくないですよ」
ぷいっとそっぽを向く彼に、ディシディアはわずかに頬を膨らませる。けれど、すぐに愛嬌のある笑みを向けてこられると何が言いたかったのか忘れてしまった。
(全く、リョージはズルいな……)
俗にいう天然、だと思う。天然の女ったらしだ。しかもたぶん、年上限定の。
なんというか、母性本能を妙にくすぐられるのである。たまに見せてくる弱気な顔の破壊力もすごいが、普段も相当だ。
ディシディアは半眼で良二の顔を見る。ニコニコと本当に幸せそうにパイを頬張っていた。解放感からだろう。普段よりも勢いがあって、ガツガツと貪っていた。
かつての自分を見ているようで、ディシディアは苦笑する。
今さらだが、彼女は大賢者である。だが、大賢者といってもただ祠にいてのんびりしているのが仕事ではない。
不可解な現象が起これば顧問役として召喚されるし、彼女には大勢の弟子たちがいて、中には賢者として名声を得ようとするため論文を発表するものもいたのだが、その添削を行うのは他でもない彼女であった。
書くのも大変だろうが、見るのも大変だ。何せ、弟子の今後を決めるかもしれないのだ。手抜きはできないし、油断もできない。一時は百に近い論文を提出され、ほぼ寝る間もなかったのを思い出す。
それが終わった後は労いとしてご馳走が用意されたものだ。まぁ、エルフの里で出されるご馳走とこの世界のものと比べてしまえば数段劣ってしまうのは事実だが。
その時、ポロッとアップルパイの欠片が口の端から落ちてしまう。膝の上でバウンドし、卓袱台の下に転がっていった。
このまま放置していればあの黒くて可愛い同居人たちの格好の餌になってしまう。そう思い、ディシディアは卓袱台の下に手を伸ばして――
「ん?」
不思議そうに首を傾げた。
返ってきたのはカサッという音とザラザラした質感。とりあえず放置しておくわけにもいかないので引きずり出し、その正体を確認してから良二に手渡す。
「ほら、リョージ。プリントが落ちていたよ」
「あ、どう……も」
受け取った瞬間、彼の笑顔が凍った。それを見て、ディシディアは瞬時に状況を察する。
「……もしかして、やり残しがあったのかな?」
返ってくるのは静かな首肯。彼は眼球を痙攣させ、笑っているのか泣いているのかわからない表情をしていた。
「……しょうがない。アップルパイはお預けだな」
「そ、そんな!? せめて全部食べてから……」
「ダメだ。お腹がいっぱいになると寝てしまうだろう? そうなったら課題ができないじゃないか。食べたいなら、頑張って終わらせなさい」
「そ、そんな殺生な……」
潤んだ瞳を向けてくる良二。ズキリと良心が痛むが、これも彼のためだ。
ディシディアは大股で冷蔵庫まで歩いていき、アップルパイを中に叩きこむ。そうして腕組みをして、良二に向きなおった。
「さぁ、リョージ。やりなさい。安心したまえ。私も起きていてあげるから」
「うぅ……くそぉおおおおっ!」
良二はガチ泣きしていた。終わったと思わせてからの伏兵。それも仕方ないだろう。
その時の泣き顔がちょっと可愛い、と思ったのはディシディアだけの秘密だ。