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第百八十五話目~ハーブティーと親子~

「……俺、親父と話してみます」


 それは翌朝のことだった。あまりに急だったのでディシディアは口からトーストをポロリと落としてしまうが、彼は構わずに続ける。


「あまり、長引かせたくないんです。だから、早めにけじめをつけた方がいいかと思って」


「……もう、大丈夫かい?」


「正直、自信はないです。でも、このままずるずる引きずるよりはいいかなって……」


「……わかった」


 彼の目は決意を宿していた。なら、いまさら自分が余計なことを言うのも無粋だろう。そう思った彼女はすぐにパソコンを起動させ、秀忠にメールを送る。

 ちょうど朝食を食べ終えたころになって返信がきた。どうやら、昼ごろにマスターの店に来るらしい。ディシディアはその旨を良二に告げると、優しく微笑んだ。


「よく勇気を出したね。偉いよ」


「……ありがとうございます」


「私も同伴するからね。無理はしないように」


 良二は小さく頷く。昨日からちょっぴり元気がない。泣きつかれたのだろう、とディシディアは予想をつけた。

 自分は彼を知ったつもりでいたが、まだまだだった。やはり彼も子どもだったのだ。

 ずっと親の影に怯えていて、けれどようやく一歩を踏み出せた。それがどれだけ素晴らしいことか、彼女はよく知っている。

 ズズッと温かいコーヒーを啜る。昨日の冷めたコーヒーの印象が強いせいか、インスタントのはずが妙に美味しく感じられた。


 そして、数時間後。ディシディアたちはマスターの店へと訪れていた。まだ秀忠の姿はない。良二は緊張に満ちた面持ちで、呼吸もやや早い。

 そんな彼の手を、隣に座るディシディアが優しく撫でる。


「大丈夫。深呼吸だ」


「……はい」


 息を吸う。吐く。たったこれだけの動作を何度か繰り返すだけで気持ちが落ち着いてきた。目の前もクリアーになってきて、店内に響き渡るジャズの音色も聞き取れる。もう、大丈夫だ。


「よろしければ、こちらをどうぞ」


 その時、マスターが紅茶を出してくれる。ハーブティーだ。


「リラックスするならこれが一番です」


「……ありがとうございます、マスター」


 オシャレなティーカップを手で持ち、口元まで持っていってスゥッと息を吸い込む。すると、ハーブの心地よい香りが鼻孔を通り抜けた。

 口に含めば、豊かな味わいが口の中いっぱいに広がる。こくこくと喉を鳴らして飲んでいると、だんだん気分が穏やかになってきた。

 上品な香りがささくれだった心を癒してくれるようである。マスターの気遣いがひしひしと感じられる逸品だ。

 ふと部屋の隅に視線をやると、マスターはパチリとウインクをしてきた。その愛嬌のある仕草に良二はぷっと吹き出してしまう。隣で優雅に紅茶を啜るディシディアはひとまずため息をついた。


(この調子なら、イケるかもしれないね)


 ただ、油断はできない。最悪の事態が起こった場合に備えて、自分はここにいるのだ。

 少なくとも、これから聞く内容は彼にとっていいものではないだろう。ひょっとしたらこの前みたく怒り狂ってしまうかもしれない。そうなった時は力づくでも彼を止めるのが自分の使命だ。

 と、ディシディアが決意を新たにしたのとほぼ同時、店の入り口にあるベルが小気味よい音を鳴らした。

 それを聞いた良二がキッと眉を吊り上げた時、秀忠がゆっくりと中に入ってきた。良二は彼を見て目を細めるが、その後ろにいた女性を見てすぐに目を丸くする。

 綺麗な女性だった。年のころは三十半ばだろう。彼女が抱く小さな生き物はすやすやと心地よさ気な寝息を立てながら毛布に包まれている。それを見て、良二の険しかった表情がやや和らいだ。

 彼も理解したのだろう。自分の父親が新たな人生を歩んでいることを。そして、彼が死ねば悲しむ人が確かにいることを。

 秀忠は近くまで来るなり、深々と頭を下げる。隣にいる女性もそれに合わせた。


「はじめまして、良二さん。中野静香なかのしずかと申します。この子はナツ。私と、秀忠さんの子どもです」


「……どうも」


 彼にしてはぶっきらぼうな返事だった。静香も事情はわかっているのだろう。ゆっくりと頷き、胸に抱くナツをあやしながら席に腰掛ける。秀忠もそれに続き、良二に向きなおった。


「その、リョージ。昨日は話せなかったが、いいだろうか?」


「……」


 無言のまま、静かに頷く。ディシディアは彼の震える拳にそっと自分の手を重ね、穏やかな笑みを向ける。良二は思い出したように深呼吸をし、秀忠の言葉に耳を傾けた。


 ――時間にすれば一時間にも満たなかったかもしれない。だが、とてつもない緊張感だったために数時間以上にも感じられた。秀忠は全ての罪を告解し、涙を流しながら項垂れる。

 一方の良二は……皮肉げな笑みを顔に貼りつけ、肩を竦めた。


「……まぁ、事情はわかったよ。親父が俺を売ったのも、この人たちのためだったんだな?」


「はい、そうです……ですから、秀忠さんを許してあげてください。彼は、ずっと自分の罪に苦しんでいたんです」


「……自業自得ですよ。こいつ……いや、親父はそれだけのことをしたんですから」


「いくら謝っても許されないと思っている。だが、一生をかけて償うつもりだ……すまなかった、リョージ。この通りだ」


 秀忠はおもむろに立ち上がったかと思うと、良二に対して土下座をしてみせる。これには部屋の隅から様子を伺っていたマスターも驚いたようで、目を見開いていた。もちろん、良二たちも驚きを隠せない。

 が、良二はふいっと彼から視線を逸らした。


「……顔上げろよ」


 秀忠は顔を上げない。頑なな態度を取って頭を下げている。良二がもう一度彼に視線を落とした時、そこには静香の姿もあった。


「良二さん。私からもお願いします。許せ、とは言いません。お父さんに、秀忠さんに、もう一度チャンスをくれませんか? この通りです」


 静香も深々と頭を下げる。二人揃って土下座を見せられた良二は顔をしかめ、けれど吐き捨てるように言った。


「……なぁ、親父。どんな気分だよ。奥さんに土下座までさせて……みっともない」


「……わかってる」


「……その優しさをさ、あの時の俺たちに少しでも分けられなかったのかよ」


「……すまない」


 良二はふぅ……と長い息を吐き、ガシガシと髪を掻き毟った。


「言っておくが、俺は一生親父にされたことを忘れない。ずっと恨むさ……けど、静香さんたちは別だ。二人は何も悪くない……だから、もし、二人を泣かせるようなことがあったら俺は絶対に親父を許さない。いいな?」


「……あぁ、わかっている。本当に、すまない」


 良二は長い息を吐き、テーブルの上にあるハーブティーを啜った。気持ちが落ち着くようにとマスターが出してくれたものだが、冷めきっていてあまり美味しくない。それは横にいるディシディアも同様だったようで、難しい表情をしていた。

 本来なら心地よいハーブの香りも今はただ心をざわつかせるだけだ。良二は一息にハーブティーを飲み干し、顔を上げた秀忠と静香を睨む。二人はビクッと体を震わせるが、良二はそれ以上何も言わず立ち上がった。


「あ、あの!」


 その時、静香が声を張り上げる。彼女は自らが抱えていたナツを良二の方に差し出していた。


「よかったら、抱いてくれませんか? あなたのお父さんの子です」


「……はい」


 良二はおそるおそるナツを抱き寄せる。そして、グッと唇を噛み締めた。

 温かい――確かな重さがあって、鼓動があって、生きているのがわかる。

 きっと、この子にとっては秀忠と静香が全てだ。かつての自分がそうだったように。


「あぅ~。あー」


 ナツはきゃっきゃっとはしゃぎながら良二に向かって手を振る。すると、先ほどまでしかめっ面だった彼の顔が綻んだ。が、すぐに引き締まり、彼はナツを静香に返す。


「……ありがとうございます。よければ、またこの子を抱っこしてあげてくれませんか?」


「……別に、いいですよ。あなたとその子は全くの無実ですから……」


 良二は静かにぺこりと頭を下げる。すると、今度秀忠が口を開いた。


「なぁ、リョージ。俺は、今度こそこの二人を幸せにしてみせる。お前もだ。だから……」


 彼はまだ何かを言おうとしたが、そこで良二が背を向けたまま言葉を発する。


「もういい。俺のことはもう、いいんだ。けど、その子……ナツちゃんの人生はこれからなんだ。だから、その子に尽くせ。後悔があるなら、その子で償え。俺はもういいから」


「……ああ! 約束する!」


「……そうかよ。じゃあな、クソ親父」


 それだけ言って、彼は足早に店を出てしまった。ディシディアはぺこりと頭を下げ、


「では、私もお暇させてもらうよ。またね」


「……ありがとう。ディシディアちゃん。君のおかげで、息子ともう一回話すことができた」


「別に大したことはしていないさ。まあ、こっちのことは心配しないでくれ。私と彼は案外上手くいっているからさ」


「しかし、君は一体……?」


「私は……そうだね」


 何かを思いついたようにディシディアの口の端がニィッとつり上がった。かと思うと、彼女は不敵な笑みと共に告げる。


「彼の『家族』とでも言っておくさ」


 それだけ言って、彼女もすぐに良二の後を追った。彼は前方をゆっくり歩いており、その後ろ姿はやはり元気がない。色々思うことがあったのだろう。彼は隣に並んだディシディアを見るなり、大きなため息とともにその場にへたり込んだ。

 どうにも緊張の糸が解れてしまったらしい。彼は天を仰ぎながら髪を掻き毟る。


「あぁ……本当、調子狂いますよね。子ども連れてくるとか、卑怯ですよ」


「でも、君は偉かったよ。父上の話を最後までちゃんと聞いていたじゃないか。よく堪えたね」


「……正直、すっっっっごく疲れました」


「だろう。さぁ、今日はゆっくり休もう。一日のんびり寝ていようか?」


「……貴女と一緒なら、何でもいいですよ」


 良二は静かに言って、ディシディアの体をスゥッと抱き寄せた。それがあまりにも自然な動作だったため、彼女の脳は思考を停止させてしまう。

 けれど、そんな彼女にも構わず、良二は柔らかな声音で告げた。


「……ありがとうございます。ディシディアさん……世界一、愛してます」


 頬に触れる柔らかくて湿った何か。ディシディアはパチクリと目を瞬かせていたが、すぐにその正体に気づいたのだろう。


「ば、馬鹿者! こんな往来で、何をする!」


「すいません。でも、ほっぺただからいいですよね?」


「そういう問題では……えぇい! 君は最近調子に乗りすぎだ!」


 じたばたと暴れるが、彼の力は思ったよりも近くて抜け出すことができない。

 こうなったらいっそ魔法で――と思った時になって、ふと頬を温かい何かが伝った。

 見るまでもない。良二の口からは嗚咽が漏れている。彼はディシディアに頬ずりをするように頭を動かし、


「……ありがとうございます。貴女がいてくれてよかった。でなければ、俺はきっと……ここにいなかったから」


「……やっぱり、君はズルいよ。この天然たらしめ」


 はぁっとわざとらしくため息をつき、ムギュッと抱きしめてやる。

 少々ムードが足りなかったが、許してやろう。

 彼は今日、最大限の勇気を振り絞ったのだから。


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