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第百八十四話目~ブレンドコーヒーと回顧録~

 三人はただただ静かにその場に立ち尽くしていた。街灯と月明かりだけが辺りを照らす。すでに夜ということもあり、他に人はいない。

 だからだろう。良二は普段絶対に見せないような怒りの表情を浮かべ、目の前の男を睨みつける。彼はビクッと体を震わせたが、すぐに笑みを張り付けて良二の後ろに隠れているディシディアを指さした。


「リョージ。そこの子は……」


「アンタには関係ない。ディシディアさん。気をつけてください。こいつは女子供であっても殴るようなクズですから」


 彼女を庇うように前に出る良二。だが、その後ろからディシディアは男の様子を伺っていた。彼は終始辛そうな顔をしている。良二の言葉に反論することすらせず、ただただ己の無力さを噛み締めるように俯いている。

 男はやがて小さくため息をついた後で、静かに告げた。


「……気が済むまで殴ってくれてもいい。だから、話を聞いてくれ」


「ふざけるな……俺は絶対に殴らない。アンタが俺たちを殴ったとしても、俺だけは絶対にしない。同類になりたくないからな」


「少しでいいんだ。話を……」


「今さら何を話すってんだよ!」


 空気を震わせるような怒声を腹の底から出し、良二はギロリと父親を睨みつける。その目には明らかな敵意が宿っていた。その迫力たるや、ディシディアですら怯んでしまうほどだ。

 ディシディアも彼の家庭の事情については知っている。だが、父親については知らなかった。良二は話そうとすらしなかったのだ。

 それだけ嫌なことだったのだろうと思っていたが、ここまでとは予想もしなかった。温厚なはずの彼は恨みがましい目で男を睨み、その横顔たるや別人のようだった。

 彼は全身を怒りで震わせながら呟く。


「今さらなんだってんだよ……アンタが俺たちに! 母さんに何をしたのか忘れたわけじゃないだろうが! 俺たちの人生をめちゃくちゃにしておいて、よく顔を出せたな!」


「……すまないと、思っている」


「何だよそれ! アンタのせいで母さんは死んだんだ! 葬式にも来ないで……アンタにとって俺たちは何だったんだよ! ストレス発散の道具か!? 俺は忘れないぞ。酒に酔ったアンタに殴られた記憶を! 俺を庇おうとして殴られた母さんの姿を! 家の金まで酒とギャンブルに使いやがって……ッ!」


 良二は泣いているのか怒っているのかわからない顔で吠え続ける。鬱積した気持ちを吐露するように、荒々しく。これまでの恨みつらみをぶつけるように、容赦なく。

 しかし、父親は何も言わない。ただ無言で頷いているだけだ。その姿にディシディアは何かしらの事情があることを察するが、頭に血の昇った良二は止まらない。崩壊したダムのように、怨嗟の言葉が漏れだす。


「アンタと離婚した後、母さんがどれだけの苦労をしたと思ってる! 一日中働きに出てボロボロになって! 最後には過労が原因で死んだんだ! ふざけんなよ! どうして母さんが死ななきゃいけなかったんだ! あんなに優しかった母さんが……どうして!」


「……リョージ。辛かったな」


「同情なんてされたくもない! 母さんは最後までアンタを信じてたんだぞ? それを裏切ったんだ! 恥を知れ!」


 良二は今にも泣きだしそうだった。彼自身、発する言葉の刃で傷つけられているような気がする。その横顔は見ているだけで辛くなるほどだ。ディシディアは彼から視線をわずかに逸らす。


「しかもアンタ、俺に借金を押し付けたよな? わかるか? 突然借金取りがやってきた時の気持ちが。それからずっと怯えつづけた気持ちが。学校でも、バイト先でも、家の中でも……ずっとずっと! 気が休まる時なんてなかったんだよ! ……どうしてだよ。もう離婚したんだからいいだろ? 放っておいてくれよ! アンタの顔なんて見たくなかった! 関わりたくもなかった! 二度と会いたくなかった!」


「ち、違うんだ。借金したのは理由が……」


「どうせギャンブルか何かだろ? そういう奴だろ、アンタは。なぁ、頼むからさ……もう来ないでくれ。俺たちの日常を壊すな。頼むから。頼むから!」


 良二はガックリとうなだれ、髪を掻き毟る。


「あぁ、クソ。忘れたかったのに。どうして今さら来るんだよ。大体、どうして母さんが死ななくちゃいけなかったんだ……いっそ、お前が死ねばよかったんだよ!」


「リョージ!」


 大気を震わせるような怒声。それを上げたのは目の前の父親ではない。


「ディ、ディシディア、さん?」


 自分の隣にいる少女はこちらを射殺さんばかりに睨みつけていた。今まで見たことがないほど怒っている。それに怯みそうになるが、良二も負けじと睨み返す。

 ディシディアはゆっくりと人差し指を父親の方に向けた。そうして、怒りで肩を震わせながらも穏やかな声音で告げる。


「リョージ。謝りなさい」


「は、はぁ!?」


「君に事情があるのは知っている。だがね。『死ねばよかった』なんて軽々しく使うものじゃないよ」


 良二の顔がくしゃりと歪む。飼い犬に手を噛まれた時の子どものような、大好きな先生が自分を庇ってくれなかった時の生徒のような、友人だと思っていた人がいつの間にか自分の陰口を言っていると知った時のような、そんな顔だ。

 彼女だけは、自分の味方だと思っていた。だからこそ、この反応に腹が立つ。悲しさよりも怒りが込み上げてくる。


「どうして……どうしてこんな奴の味方をするんです! こいつがどんなことをしたのか知らないからそんなことが言えるんですよ!」


「あぁ、そうだ。私は知らない。だが、実の父親に『死んでしまえ』などと言ってはダメだ。君は『死』というものの重さをよく知っているだろう?」


「知ってるから嫌なんですよ! あんなに優しかった母さんが死んで、どうしてこんなクズみたいな奴が生きてるんですか! こんな奴、死んで悲しむ奴なんて誰もいない!」


「――ッ! 馬鹿者! 死んでいい人間なんているものか! 君の命も、彼の命も同じだ! 死んだら二度と帰ってこない! それに、彼は君の父親じゃないか! 思い出してみなさい。嫌な記憶ばかりか? 違うだろう!」


 あぁ、そうだ。覚えている。

 一緒にキャッチボールをしたことも。

 休日にはドライブに連れていってもらったことも。

 母さんには内緒だぞ、と言って当時好きだった戦隊モノのおもちゃを買ってもらったことも。

 全部全部覚えている――が、嫌な記憶の方が力を持つのは世の理だ。

 灰皿を投げつけられて額から血を流したこと。

 自分の貯金箱がいつの間にか壊されていて、金が全部抜き取られていたこと。

 学校から帰ってきたら母親が泣いていて、その背中を父親が踏みつけていたこと。

 全部、全部覚えている。

 全身の血が沸き立つような感覚を覚えながら、良二はシャツの胸元を握りしめる。


「そいつが父親だって言うのも嫌だ! 俺の体にこんな奴の血が半分でも流れていると思うと吐き気がする!」


「いやかもしれない。だが、それが事実だ! 君は紛れもなく彼の子どもで、彼は君の父親だ! 離縁しようとも、それだけは変わらないんだよ! いい加減にしたまえ!」


「うるさい! だいたい、親に捨てられたディシディアさんに偉そうなこと言われたくないですよ! 説教なんてうんざりだ!」


 ――一瞬だけ、世界が止まる。けれどディシディアだけは誰よりも先に動き出し、グッと唇を噛み締めて俯いた。


「……あ」


 遅れて、良二も動き出す。口に手を抑えてももう遅い。

 言葉の刃は放たれた。そしてそれは間違いなく、彼女の心を抉り、傷つけた。

 けれど、それでもディシディアは笑みを取り繕う。だが、それは偽りだ。

 口の端はフルフルと震えていて、頬はひきつっている。目にはうっすらと涙が溜まっていて、放たれる言葉は掠れていた。


「……そう、だね。私には親がいない。出過ぎた真似だった、かな。ごめん」


「……クソッ!」


 行き場のない怒りをぶつけるように良二は自分の膝を殴りつけ、大股でアパートへと帰っていく。すれ違いざま父親は良二の肩を掴もうとしたが、一睨みで黙らされてしまった。

 彼がアパートの階段を昇っていったとほぼ同時、良二の父親はディシディアの方にやってきた。彼はおどおどとした様子でディシディアの顔を覗き込んでくる。

 彼女は小さく首を振り、指先で目尻を拭ってから彼に話しかけた。


「……はじめまして、かな。私はディシディア・トスカ。縁あって彼と共に暮らしている」


「私は……中野秀忠なかのひでただと言います。飯塚は伽耶かやの……リョージの母の名字です」


「そうか。早速だが、いくつか聞きたいことがある。少し、お時間いただけるかな?」


 良二の父親――秀忠はコクリと頷く。それを受け、ディシディアはある場所へと足を向けた。


 二人がやってきたのはマスターの喫茶店だった。マスターはディシディアが連れてきた男性に穏やかな笑みを向けるも、彼が良二の父親だと知った瞬間顔が険しくなった。

 彼も良二の家庭環境については知っている。もし、今が営業時間外であったならば一言くらい言ってやれたかもしれない。

 だが、今は客とマスターの関係だ。彼は恭しく礼をしながら二人を窓際の席に誘導する。ディシディアはマスターに頭を下げ、次にメニュー表を手に取った。


「何か頼むかい?」


「なら……ブレンドコーヒーを」


「私も同じものを頼むよ」


「……かしこまりました」


 マスターはそれだけ言って奥の方へと消えていく。その後で、ディシディアは目の前の男性へと視線を動かした。


「では、聞かせてもらおうかな? 君たちの話を」


「……どこまで知っている?」


「君たちの家族が離散したところまでだ。リョージは君の話をあまりしないのでね。離婚した後も、それから前もどういう人物だったのかも全く知らない」


「……なら、昔話からしましょう。私は、その……かつてはアルコール依存症でした。ギャンブルにもハマっていて、負ける度に家族に辛く当たっていたんです」


 彼はぽつぽつと過去を話し始める。


「わかってはいたんです。あのままではいけないって。でも、どうしてもやめられなかった……やめようとするとまたストレスが溜まって、あの子を殴ったこともあった。恨まれても仕方ありません」


「依存症とはそういうものさ。いや、遮ってすまない。続けてくれ」


「えぇ。離婚したのはずいぶんと前です。私としても、あのままだと家族たちを殺してしまいそうだと心のどこかで思っていた。だから、私から妻に話したんです。彼女もすぐに私と離婚する決意を固めてくれました……けれど、リョージは知らないかもしれませんが、交流はあったんです。もちろん、会ってはいません。手紙のやり取りだけです」


 彼は懐かしむように目を細めながら続ける。


「『良二がいい点を取った』だとか『体育祭で活躍した』とか……他愛のないものばかりです。ですが、それでもよかった。依存症と戦っていた私からすれば息子の奮闘ぶりを聞くことで勇気をもらえていたんですから……ですが、ある日のことです。妻の死を知ったのは」


 彼の目からは涙が溢れていた。ボロボロと、テーブルの上に落ちていく。


「もちろん、私は行こうとしました。ですが、彼女の父親に拒否された。当然だと思います……ですが、最後に一目くらい、妻に会いたかった。面と向かって謝罪が言いたかった……リョージにとっても同じです。私のせいで、あの子たちを随分と苦しめた。その償いがしたかった」


 その時、マスターがコーヒーをコトリとテーブルの上に置いた。けれど、飲む気には慣れない。ディシディアは一息つき、今度はジロリと彼を睨みつける。


「なるほど。それはわかった。だが、リョージに借金を押し付けたのはなぜだい? 彼がどれだけ苦労していたかは、私もよく知っているよ」


「……」


 秀忠は無言のまま、胸元からスマホを取り出す。その待ち受けには若い女性と彼が映っていた。女性は小さな赤子を抱いて微笑んでいる。それを見て、ディシディアの目が驚愕に見開かれた。


「……彼女とは闘病中に出会ったんです。こんな私を支えてくれて……そして、ちょうど一年ほど前新たな命が宿った。しかし、彼女は……重い病に罹っていて、治療に大金が必要だったんです。私にはそれを払いきるだけの稼ぎはありませんでした……その時、悪魔が私に囁いたんです」


 とうとう、彼は顔を両手で覆って泣きじゃくる。頭を振り、過去の自分を責めるように言の葉を吐き捨てる。


「間違っているとは思っていました。ですが、それしか考えつかなかった! 彼女と娘を救うにはそれしかなかった! 今思えば、どうかしていたと思います。ですが、ですがそれでも私は新たな家族たちを救いたかった!」


「……それで、リョージを犠牲にしたのかい?」


「……弁解はしません。罪は償うつもりです。あの子が望むならどんなことでもします。死ねというなら死んでみせましょう」


「……君たちは親子そろって大馬鹿だね。だが、理由がわかってホッとした。少なくとも、自分のために彼を犠牲にしたわけじゃないんだね?」


「はい……実の息子に、私はなんということを……」


「悔やんでも仕方ないだろう。問題は、これからどうするかだ。死ぬのは簡単だ。だが、死んで済むのかと言われれば違うと私は言おう。君のしたことは到底許されることではない。だから、もう一度彼と話すべきだ。何度拒絶されても、罵倒されても……その程度の覚悟はあるだろう?」


 秀忠は無言で頷く。ブンブンと大きく首を振って。

 ディシディアは満足げに微笑み、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを啜る。

 苦味と酸味が抑えられているのを考えると、マスターが自分用に配合してくれたのだろう。せっかくの気遣いだが、冷めてしまっては台無しだ。正直言って、かなりマズイ。

 ミルクと砂糖をたっぷりと入れると多少マシになった。だが、ごまかしているだけだ。

 油断するとすぐさま奥の方から渋みがやってくる。


(やれやれ……私としたことが、失策だったな)


 マスターの出してくれる料理はどれも一級品だ。それを無下にしてしまったことに後悔の念が沸く。

 彼女は眉を顰めながらグイッとコーヒーを煽り、べぇっと舌を突き出した後で席を立つ。それから未だ泣き止まぬ秀忠を見つめ、


「ひとまず、私は帰らせてもらうよ。いつでもいい。気持ちの整理ができたら連絡をくれ」


 彼女は胸元からメールアドレスの書かれたメモを渡す。秀忠はそれを受け取り、うんうんと頷く。涙はとどまることがなく、コーヒーに落ちては波紋を作っていた。

 それを一瞥してドアに向かおうとすると、マスターがやってきた。彼はにこやかに微笑みながら、ドアの方を指さす。


「念のため、タクシーを呼んでおきました。よければお使いください」


「いいのかい? ありがとう」


「領収書は出してもらう予定なのでお金の心配はいりません。すっかり暗くなっておりますから、どうぞお気をつけて」


「助かるよ。それと、今日はコーヒーをダメにしてしまってすまない。もしよければ、今度また飲ませてくれないかな?」


「もちろんです。またお越しくださいませ」


 恭しく礼をしてくる彼に手を振って、ディシディアは表に待ってくれていたタクシーに乗り込み、家へと向かっていった。


 ――それから十分後。ディシディアは家へと到着していた。タクシーは彼女を降ろすなりそそくさと走り去ってしまう。夜の風を感じながらディシディアはアパートの階段を昇り、自宅の前で制止。

 すぅっと息を吸う。吐く。呼吸が整ってきた辺りでドアノブを回すと、開いた。

 良二にしては考えられないことだ。それほど冷静さを欠いていたということだろう。

 ゆっくりとドアを開くと、荒れ果てた部屋が目に入った。怒りのままに暴れたのだろう。ゴミは散乱し、部屋は散らかっている。だが、それを責めることはできない。彼の気持ちは推して図るべきだ。


「ただいま」


 答えはない。良二は窓際に座り込んでいた。体育座りで、ずっと下を向いている。

 そっと靴を脱ぎ、中に上り込む。キャリーケースを適当に放り、良二の隣に寄り添う。


「隣、いいかな?」


「……」


 返事はないが、頭が縦に揺れた。なので、肯定と受け取っておく。

 彼の傍に寄り、空に浮かぶ月を眺める。いつもよりも優しく自分たちを照らしてくれているようだ。


「今、君の父上と話してきたよ。ずっと、君に謝りたいと言っていた。彼にも事情があったらしいんだ……君と同じようにね」


「……さい」


 ビクッとディシディアの体が震える。良二が拒絶の言葉を漏らしたのかと思ったが……違う。


「ごめんな……さい」


 彼は……泣いていた。肩を震わせて、幼子のようにすすり泣いている。


「ごめんなさい……ディシディアさんは何も悪くないのに、あんなひどいこと言って、ごめんなさい……」


「いいんだよ、リョージ。感情に任せてしまうのは誰にでもあることだ。私は気にしていないから。ね?」


「違うんです……俺が悪いんです……本当に、最低ですよね……」


「最低なものか。ほら、君はこうやって私のために涙を流してくれている。それに、君が父上に怒鳴り散らしたのも母上のためだろう? いいかい、リョージ。誰かのために涙を流したり怒ったりできるのはとても素晴らしいことだ。君は優しい子だよ」


 良二の頭を胸に抱く。が、良二はハッとして彼女を離そうと手に力を込めた。


「ダメ、です。服が、汚れますよ……」


「構うものか。いいから、泣きなさい。辛かっただろう。頑張ったね。ずっと、ずっと一人で抱え込んでいたんだね……君は強い子だ」


「ディシディアさん……ごめんなさい……俺は……俺は……う、あ、ぁああああ……」


 良二はディシディアにすがりながら泣く。赤子のように、わんわんと声を上げて泣く。喉をひきつらせて掠れた声を漏らしながら、悲しみにもがくようにディシディアの体を抱きしめながら、彼は大粒の涙をこぼす。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ひどいことして、ごめんなさい……」


「大丈夫。大丈夫だから。ね? 私はここにいるから。どこにも行かないよ。君を置いていったりするものか」


 それを証明するかのようにギュッと強く抱きしめる。良二もお返しに抱きしめてきた。少々痛いが、知ったことか。彼が自分を求めているなら、こちらも求めるだけだ。

 次第に感覚が曖昧になってきて、彼と自分が一体になっているような錯覚を覚えた。

 愛する彼の。

 愛する彼女の。

 鼓動と呼吸と体温がいつもより鮮明に感じられる。それが何とも心地よい。

 ディシディアが慈母のような眼差しを彼に向けると、良二はそれに気づいたかのように顔を上げた。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。彼は声を震わせながら、声を絞り出す。


「大好きなあなたまで傷つけた……俺は、自分が許せない」


「なら、私が許そう。だから、自分を責めるな」


「でも、でも……ッ!」


 何かを言おうとしていた良二を強引に抱き寄せてその背を優しく撫でる。と、またしても彼の口から嗚咽が漏れた。


「もう、いいんだよ。これからは私がいる。君の傍には私がいる。だから、無理をしなくていいんだ。君が抱えている悲しみの全てを理解することはできない。けど、それに寄り添うことはできる。辛いことや嫌なことがあったら話してくれ」


「……どうして、そこまでしてくれるんです?」


「決まっているさ。だって、私たちは『家族』だろう? 支え合うのが家族じゃないか」


 そう告げると、良二はグッと顔をしかめてくぐもった声とともに涙を流した。ディシディアは彼が落ち着くまでその背中を擦る。

 そんな二人を空に高く上った月が穏やかに照らしていた。


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