第百八十三話目~エビ天ソバと予期せぬ来客~
「うぅ……気持ち悪い」
「ほら、もう少しだから我慢しなさい。大丈夫だから」
飛行機を降りた後、良二はすっかりグロッキー状態だった。予想外に飛行機が揺れたせいで一睡もできなかったらしい。彼は疲労感を漂わせながら歩いているが、足取りはおぼつかない。まるで酒に酔っているかのようだ。
やがて改札に到着した頃になって、良二は自販機でお茶を購入。少し水分を含めばマシになるだろう。良二はこくこくと喉を鳴らしてお茶を煽り、口元を拭うとディシディアの方にペットボトルを寄越してくる。
「飲みますか?」
「ありがたくいただくよ」
ディシディアの小さな手が自分の手に重なる。その感覚にドキリとするも、当の彼女は満面の笑みを浮かべたままペットボトルを両手で持ってくぴくぴと飲んでいる。水分を十分補給した彼女はほぅっと息を吐き出し、キャップをキチンと締めた状態で彼に渡す。
「助かったよ。さて、もう行けるかい?」
「まぁ……はい」
曖昧な言葉と共に良二は頷き、改札へと足を向ける。多少はマシになったようで、ふらついてはいない。だが、何かあってはことだ。ディシディアは彼にぴったりと寄り添い、きゅっと手を握る。
良二も彼女の意図をなんとなく察したのだろう。にこやかに微笑み、手を握り返してくる。確かな温度と感触に表情を綻ばせながらディシディアは天井から吊り下げられている電子掲示板を注視する。
どうやら後数分ほどで到着するらしい。今の時刻は午後の六時。そろそろ帰らないと明日がキツそうだ。ただでさえ疲れているのだ。今日は早めに帰ってゆっくりと体を休めたいところである。
事実、ディシディアはもう眠そうだ。時折欠伸をしてはゴシゴシと目を擦っている。
彼女は自分が寝付けないのを見るや否や、無事に着陸するまで優しく手を握ってくれていたのだ。自分が情けなく思えるが、それよりも彼女が自分のためにそこまでしてくれたことが嬉しくてならない。
――と、そうこうしているとスピーカーから音声が流れてきた。どうやら電車がやってきたらしい。ディシディアはグッと背を伸ばす。良二もそれを受けて鞄を肩に担ぎ直したが――
「ゲッ……」
やがてやってきた電車を見て、良二はそんな声を漏らす。だが、それも無理はないだろう。
電車の中には人がすし詰めにされている。その様を見て、今度はディシディアがガクガクと震えだした。
だいぶ改善されたとは思うが、彼女は元来人混みが苦手だ。ただでさえ疲労がたまっている状態でこんな電車に乗るのは辛いだろう。
――が、彼女はキリリと眉を吊り上げたかと思うとえいっと電車に乗り込み、良二も贈れて続いた。それと同時、先に入っていた人たちからの圧力が二人を襲う。
「ディ、ディシディアさん……ッ!」
人ごみに呑まれかけていた彼女に手を伸ばし、グイッと引き寄せる。勢いよく手を引きすぎたのだろう。彼女は矢のように飛んできて、良二の胸にボスッと収まる
彼はくぐもった声を漏らしたものの、穏やかな笑みを彼女に向ける。
「おかえりなさい、ディシディアさん」
「ただいま、リョージ。ありがとう。助かったよ」
「手、繋いでいてくださいね。満員電車は危ないですから」
「うん。そうさせてもらうよ」
ディシディアは良二に体を預け、静かに息を吐く。飛行機内では頼りない様子だったが、やる時はやる男だとよく知っている。事実、彼のこういうところに助けられたことも少なくない。
(ふふ……たまには満員電車も悪くないな)
男の顔になっている彼を見上げながらそんなことを思う。ぎゅうぎゅうの満員電車だ。必然的に彼と密着する形になるが、当の彼は狼狽えるでもなく他の乗客から自分を庇ってくれている。
彼の逞しさを感じながらディシディアは目を閉じる。結局、人が減るまで二人はそのままだった。
――そして、それから小一時間後。ディシディアたちはようやく最寄り駅へとやってきていた。その頃には良二はすっかり疲弊しており、ぐったりとしていた。
「うぅ……疲れた」
「お疲れ様。ありがとね、リョージ」
「どういたしまして。怪我はないですか?」
「もちろんだ。君が守ってくれたからね。ふふ、やはり男の子だね。頼もしいよ」
「褒めても何も出ませんよ」
とは言いつつ、彼は照れながら頬を掻いている。電車に乗っている時は凛とした雰囲気を漂わせていたが、今はいつもの如くお人よしの顔に戻っていた。愛嬌のある顔と先ほどまでのキリッとした表情は実に大きなギャップを有している。
ディシディアは改札を潜ったところで、ちょいと人差し指を立てた。
「今日は外食で済ませないかい? 家に帰って料理を作るのは大変だろう?」
「賛成です。じゃあ、立ち食いソバでも食べていきますか」
「いいね。関東風の味が恋しくなっていたところさ」
「……ディシディアさん、異世界人ですよね?」
ツッコミは華麗にスルーされた。彼女はスキップまじりに近くの立ち食い蕎麦屋へと足を踏み入れ、良二もそれに続いた。
以前この店には訪れたことがある。あの時は開店早々で人でいっぱいだったが、今日はそうでもない。ただ、スカスカというわけでもなくぼちぼち繁盛しているようだ。
「ディシディアさんは席を取っていてください。俺は食券を渡してきますから」
「わかった。任せてくれ」
ディシディアはちょこちょこと店内を動き回り、窓際の席に陣取る。以前は身長が足りずに爪先立ちで食べていたが、今日は椅子がある場所だ。これなら存分にソバを味わうことができる。
彼女は鼻歌を歌いながらスゥッと息を吸い込んだ。店内はソバの匂いで満ちている。出発前に立ち寄ったラーメン屋とはまた違うがいい雰囲気だ。ソバを啜る音が耳に心地いい。
「ディシディアさん。お待たせしました」
「おぉ、待ちかねたよ。もう腹ペコだ」
彼女は自分のお腹を撫でて子犬のように切ない瞳を向けてくる。良二は一瞬グッと息を飲み、しかしすぐに抱えていたトレイを彼女の前にサーブする。
「おぉ、美味そうだね」
彼女が頼んだのはエビ天ソバだ。大きめのエビ天がどっかりと乗っており、ネギやわかめなども添えられている。息を吸い込めば豊かな出汁の香りが鼻孔をくすぐった。
「では、いただきます」
麺が伸びてはたまらない。すぐさま割り箸を手に、勢いよく麺を啜る。
粗挽きのソバは豊かな風味だ。関西風とは違うが、負けないくらい芳醇だ。
久々の味に歓喜しているのか、ディシディアは身を震わせている。
「ああ……この味だ。関西風もいいが、関東風の方が馴染みがあって好きだな」
「俺は関西風の方があっさりしていて好きですね。まぁ、好みの違いだと思うんですけど」
「だな。しかし、関西風もレシピは聞いているからね。いつでも作れるだろう?」
「もちろん。ご所望なら、いつでも作りますよ」
「ふふふ、ありがとう。楽しみにしているよ」
良二たちはあらかじめ華たちから色々とレシピを聞きかじっていたのだ。ディシディアは満足げに息を吐き、今度は大ぶりのエビ天に齧りついた。
「ッ!」
てっきり衣で大きく見せているだけかと思ったが、そうではない。中までぎっしりと身が詰まっており、チープさの欠片もない。衣はさっくりとしているが、つゆに浸せば食感がガラリと変わる。
浸した瞬間にじゅわっと脂が広がり、コクがグンッと深まる。脂っこいというわけではなく、箸休めのわかめとネギを口に入れればちょうどいい具合に調和された。
身の詰まったエビもぷりぷりしていて、噛むたびに旨みを炸裂させる。以前食べたコロッケソバも中々だったが、これも相当だ。
「美味しいですか?」
「あぁ。君も食べるかい?」
良二はこれまたベーシックなかけそばだ。なのでちょっとしたアクセントがいるのではないかと思ったが、彼は差し出された天ぷらを手で遮る。
「いや、ちょっと油ものは……」
「むぅ……そうか。まぁ、次の機会にね」
乗り物を乗り継いだことで相当ストレスと疲労がたまっていたのだろう。良二は天ぷらを見ただけでも顔を歪めてしまう。相当だ。
ディシディアはピョンッと椅子から飛び降りるなり、良二が飲み干したばかりのグラスを手に取って水を入れてきてくれる。彼は甲斐甲斐しくグラスを渡してくれる彼女に小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。先ほどのお返しさ」
「? お返し?」
キョトン、と首を傾げている。とぼけているのかと思ったが、本当に自覚がないらしい。
言ってもいいが、それだとなんだか恩を押し付けるようになってしまう気がして、ディシディアは口をつぐんだ。そうして、追及される前にソバを啜りだす。
天ぷらソバは時間が経過するごとに味が変化していくのが特徴だ。脂が染みだし、つゆがまろやかになっていく。最初に食べたよりも濃厚になったつゆを一気飲みした彼女は息継ぎするように「ぷはっ」と息を吐き、口元をティッシュで拭う。
「うん、美味しかった。ご馳走さま」
「ご馳走様。じゃあ、そろそろ行きましょうか」
良二は二人分のトレイを持っていってくれる。ディシディアは彼が帰ってくるなり椅子から飛び降りてキャリーケースを手に取った。そうして、空に輝く月すら霞む眩い笑みを浮かべてくれる。
「では、出発だ。今日はゆっくり休もうじゃないか」
「はい。帰りましょう」
二人はすぐさま外に出る――と、ぴゅうっと冷たい夜風が二人の間を突き抜けた。その感覚にディシディアは身を縮めながらも先へと歩いていく。が、彼女はすぐに笑みを取り戻して変わらない街並みを見やる。
「一週間ほどの旅だったが、長く感じたね。もっといたように思えるよ」
「それだけ濃厚な旅だったってことですよね。俺も楽しかったです」
「私もさ。できることなら、また君とドライブしたいな……車を買ってあげようか?」
「買っても置く場所がないですよ。ウチのアパート狭いですから」
「それもそうか。なら、君が大学を卒業するころにでも買ってあげようか」
「嬉しいんですけど……俺、ヒモになりそうで怖いなぁ……」
良二はたびたびヒモになることを恐れている。ディシディアとしては完全な好意であるのだが、彼はどうも考えすぎてしまう性質らしい。
まぁ、これにももう慣れたものだ。彼女は悩ましげな良二を一瞥し、今度は空に浮かぶ月を眺めた。
(この月を、華たちも眺めているのだろうか……?)
何となく、そんなロマンチックなことを思ってしまう。旅の後はいつもこうなってしまいがちだ。感傷に浸りつつあるのを自覚するディシディアは特にそれを否定する素振りも見せず、ただ静かに思いを馳せる。
今回の旅でも多くのつながりができた。それはきっと生涯切れないものだ。回りまわっていつか自分たちに返ってくるかもしれない。そう思うと胸がドキドキした。
おそらく、自分はまだまだこの世界で多くのつながりを得ることになるだろう。仮に相手が死んでも、自分が覚えている限りそのつながりは消えない。今回はそれを強く実感した旅だった。
(きっとあの島は……私よりも早く死ぬことになるだろうな)
それがいつかはわからない。数十年後か、はたまた数百年後か。だが、いずれにせよ人はどんどん外に出ていき、やがては廃れていく。そうして残るのは野生動物たちの楽園だ。
学校も、寺も、何もかもが木々に覆われて鳥たちの住みかとなるだろう。終わりとは同時に始まりでもあるのだ。昔は納得できず、これに苦悩もしたが今ならすんなりと受け入れられる。
(やれやれ、私も年を取った、ということか……)
かつての自分も多くの若人と同じく根拠のない自信にあふれていた。少々危うさがあったことも今なら自覚できる。
ついつい懐古の思いに駆られクスリと笑いを漏らす。それから前方を見ると、いつの間にか自宅が目に入っていた。彼女はそれを見るなり足を速めようとする――が、
「リョージ?」
隣にいるはずの彼は、自分よりも後方で立ちすくんでいた。その視線の先は自分のはるか後ろに向いている。何事かと思ってそちらに視線をやれば、アパートの階段付近に独りの男性が立っているのが目に入った。
スーツを身に纏った男性だ。年のころは四十代半ばだろう。彼はオールバックの髪を撫でつけていたかと思うと、こちらに気づくなり穏やかな笑みと共に歩み寄ってくる。
「なぁ、リョージ。彼は君の知り合い……ッ!?」
何気なく問おうと後ろを見て、ディシディアはビクッと体を震わせた。
初めてだった。初めて見る表情だった。
良二は全身から怒りを露わにして、目の前の男を睨みつけている。普段の温厚さは欠片も残っていない。鬼気迫る形相の彼は怯えるディシディアの前に歩み出し、目の前の男から庇うように立ちはだかる。
それを受け、男はわずかにショックを受けたように顔を歪ませた。だが、すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「おい、リョージ。その子は……」
「気安く呼ぶなっ!」
男だけでなく、ディシディアまでも飛び上がる。彼はドスの利いた声を腹から絞り出し、今にも殴りかからんばかりの勢いで男を睨む。呼吸は荒く、冷静さを欠いているのが伝わってきたがどうすることもできない。
目の前の男は悲しげに目を伏せ、
「……やはり、許してくれないのか」
「当然だろうが! アンタが俺に! 俺たちに何をしたと思ってるんだよ!」
「……リョ、リョージ」
クイクイッと袖を引かれて、良二はようやくハッと我に返る。彼は縮こまるディシディアを見て悔しげに顔を歪めた後で、唾棄する如く言い捨てた。
「……俺の、父親ですよ。恥ずかしいことですがね」
三人の間を静寂が流れる。街灯に照らされた良二の横顔は先ほどとは打って変わって怒りよりも、悲しさと虚しさに満ちていた。