第百七十九話目~島レシピとアジ茶漬け~
一月三日。ディシディアたちが朝起きて居間へと向かうと、そこにはぐったりとして地面に寝そべっている華の姿があった。彼女は顔をしかめながら頭を押さえている。
そんな彼女を見てディシディアたちは顔を見合わせる。脳裏に浮かぶのは昨日の夜見た華の姿だ。
話を聞いたところによると参拝に行った時に古馴染みと会ったらしく、夕方ごろに外出したのだが……ちょうど深夜を回るぐらいに『酔っぱらっているから連れ帰ってほしい』という電話がかかってきたのだ。
その時すでに美紀ばあは就寝していたため良二とディシディアで彼女を引き取るため車で向かったのだが、それはもうひどい有様だった。
近くの居酒屋で飲み会をしていたらしき彼女と友人たちのほとんどはグロッキー状態であり、店の人たちも困り果てている様子だった。特に華は相当飲んでいたらしく前後不覚になっており、まともに歩くこともできなかったほどである。
一応は彼女を介抱しつつ連れ帰ることができたのだが、この結果はある程度予想していたことである。ディシディアは彼女の方に歩み寄り、そっと顔を覗き込む。
「大丈夫……ではなさそうだね」
「うぅ……吐きそう。ぎもぢわるい……」
華は掠れた声を絞り出す。酒豪の彼女がこうなるほどだ。いったいどれだけ飲んだのか、まるで想像もつかない。
彼女の顔はもはや土気色で生気の欠片もない。二日酔いの症状のフルコースを受けているらしく、身動きすらできないようだ。
「水を飲んだ方がいいんじゃないかい?」
「うん……さっき飲んだ。とりあえず朝ごはん食べたらもっかい寝る……うぷっ」
相当大変なようだ。良二とディシディアはアイコンタクトを交わし、彼女の負担にならぬよう声を潜めて話す。
「そろそろ帰りの準備もしなくちゃですね」
「むぅ。そうか。出発は明後日だったかな?」
「はい。朝一の船なので、ある程度準備しておいた方がいいと思うんですけど」
「うん、そうだね。早めにやっておいて損はないだろう。今日は外出を控えようか。華もこんな状態だしね」
一応美紀ばあは残ってくれるのだろうが、人手が多いに越したことはないだろう。その結論に至った二人が頷くと同時、厨房から美紀ばあがやってくる。彼女が抱えるお盆には小さなお茶碗が乗っていた。
そこからは何とも言えないいい匂いが漂ってきている。空腹状態のディシディアたちは元より、グロッキーになっている華にも効果はてきめんだ。
彼女は非常にだるそうにしながらも身を起こし、食卓に着く。そんな彼女に厳しめの視線を向けながら、美紀ばあはお茶碗をテーブルに置いた。
「もう大人なんやし、分別を持たんとね。はい、お水も飲み」
「うぅ……ごめん、ばあちゃん」
華はぐったりとしながら水を煽り、眼前の茶碗を見やる。
それは――茶漬けだ。しかし、ただの茶漬けではない。
「上に乗っているのは……魚の切り身かな?」
ディシディアの言葉に美紀ばあが頷きつつ、解説を入れる。
「アジ茶漬け。アジばゴマ醤油につけた奴をご飯の上に乗せてお湯をかけるんよ。二人も食べる?」
「あぁ、頼むよ。ありがとう」
「よかよか。お湯が沸くまでちょいと待っといてね」
厨房に向かっていく彼女を見送った後で、ディシディアたちは華へと視線を移した。彼女はスプーンを使って茶漬けを食らっている。
二日酔いの彼女でも食べやすい味付けにしてあるのだろう。ものの数分で平らげた彼女はまたしても水を一気飲みし、ゆっくりと立ち上がる。
「……と、とと」
が、足元がおぼつかない。咄嗟に良二が立ち上がって体を支えたからよいものの、後数秒遅れていれば彼女はきっと地面に激突していただろう。
「おぉ、ありがとね……助かるよ」
「いいですよ。部屋まで運びましょうか?」
「ありがと……」
良二は彼女を脇から支えながら歩いていく。ディシディアも待っているのは嫌だったのか、後ろからちょこちょことついてきていた。
「も、もうすぐやけん、頑張って……」
「その言葉、丁重にお返ししますよ」
などと軽口を交わしている間に彼女の部屋の前に到着。ゆっくりと障子を開けると酒瓶やお菓子の袋が散らばった様相が露わになった。
「……この間大掃除をしたばかりじゃなかったかな?」
ディシディアの指摘ももっともだ。まだ三日程度しか経っていないのに、相当汚れている。部屋全体が酒臭く、これだけで酔ってしまいそうだ。
「うぅ……だって……」
「あまり飲みすぎないようにしてくださいよ? はい、ゆっくり休んでください」
良二はあらかじめ敷いてあった布団に彼女を寝かせてやり、間髪入れずディシディアが彼女に毛布をかける。華はほぅと息を吐いた後で二人に微笑を向けた。
「ありがと……気をつけるよ」
「お大事に。それじゃあ、お休み」
ディシディアはちょいと背伸びをして照明の紐を掴み、部屋の電気を消す。
と、数秒もせず華の寝息が聞こえてきた。驚くべき寝つきのよさに二人は驚愕しつつ居間へと戻る。
「華は寝たん?」
ちょうど美紀ばあも料理を持ってきたところだった。彼女は不安げにしながら語りかけてくる。厳しい態度を見せていたが、やはり孫は心配なのだろう。
ディシディアは彼女を安心させるかのように優しく笑いかける。
「あぁ、大丈夫。ぐっすり寝ているよ」
「ふぅ……ありがとね。お客さんたちにこんなことしてもらって悪かよ」
「いいんだよ。気にしないでくれ。持ちつ持たれつ、という奴だ」
ディシディアはひらひらと手を振ってそう答えるなり食卓に着く。美紀ばあは「ありがとう」とだけ言って持ってきていたお茶碗を置いた。
改めて中を見て、ディシディアはゴクリと喉を鳴らした。
アジの切り身が大量に乗せられ、そこにお湯がかけられているだけだ。お茶漬けの素を使っていない茶漬けを初めて見るディシディアは目をキラキラさせる。
「はよ食べんとご飯がふやふやになるけんね。はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
箸を受け取ってから手を合わせ、茶碗をゆっくりと持ち上げる。彼女はそのままご飯を掻きこみ、満足げに鼻を鳴らした。
アジの出汁がよく効いていて、そこに甘じょっぱい醤油の風味がプラスされている。ゴマの香りもいいアクセントだ。
刺身を湯に浸すと味が濃くなり、けれど撹拌すればちょうどよくなる。
醤油漬けにしてあったせいかアジ自体の旨みもギュッと濃縮されており、噛むだけでとてつもない多幸感が押し寄せてきた。
「美味しいですね、これ」
「島の漁師飯よ。簡単にできるけんオススメやね」
確かにそうだ、とディシディアは頷く。
用意するのは白米とアジの醤油漬け。それからお湯だけだ。所要時間も数分程度とお手軽料理としては相当優秀である。
もちろん、味の方も合格点を軽く超えている。簡素だが、それでも美味い。
美味いものとは別にごてごてと手を加えたものばかりではない。むしろ、こういったシンプルなものほど余分なものが排されている印象を受ける。
「そうだ。美紀ばあ。よければ、この島の料理のことを教えてくれないかい? レシピなどがあればよいのだが……」
「レシピならあるけど、そげん大したものじゃなかよ? よかと?」
「もちろんだ! 案外、私はこの島の料理が気に入っているんだ。ぜひ教えてほしい」
自分の故郷のことを褒められて喜ばない者はいない。特に生まれてからずっとこちらにいるほど愛郷心のある彼女ならなおさらだ。
美紀ばあは心底嬉しそうにしながら、何度も頷く。
「そう言ってもらえると本当に嬉しかよ。若い子たちにはあまりこういうもんはウケんと思ったっちゃけどね。よかった、よかった」
彼女はのそのそと立ち上がり、居間の方へと向かっていく。
一方で、良二はディシディアに対しサムズアップを送っていた。
「やりましたね、ディシディアさん。帰ったらまた色々作ってあげますよ」
「ふふ、楽しみだね。君が作る料理はどれもこれも美味しいから期待しているよ」
「さ、さりげなくハードルあげてません?」
戸惑う良二をよそに彼女は茶漬けを食らっていく。時間が経てば経つほど味わい深くなる不思議な品だ。
刺身から旨みが溢れ、同時に醤油づけにされているために味も染みわたっていく。ご飯がふやけてしまうのが難点だが、それはカバーできるものだ。
刺身もお湯を浴びて『湯引き』のような状態になっているものやレアになっているものなど差異があってこれまた面白い。食感などもそれぞれ違っていて、食べていて飽きない品だ。
「お待ちどう。レシピ、持ってきたよ」
その言葉を受けてドアの方を見やれば、そこにはボロボロの本を持った美紀ばあの姿。どうやら、手に持っているのがレシピ帳らしい。実に年季を感じさせるものだ。
美紀ばあは腰かけるなり、パラパラと本のページをめくる。そこには色々なレシピが書いてある。それを見る度に彼女は懐かしげに目を細めた。
「島の郷土料理が書いとる本よ。後でコピーするけど、今読みたかったらどうぞ」
「かたじけない。助かるよ」
「いや、それはこっちのセリフよ」
美紀ばあは笑いながら続ける。
「この島も過疎化の波がきとってね。もう、若い衆がほとんどおらんとよ。たぶん、もう少しすればこの島も他の島みたいに無人島になると思う」
「そんな……」
良二は何かを続けようとしたが、それをディシディアが遮った。美紀ばあはそれを見て小さく息を吐き、二の句を告げる。
「悲しかけど、この島がまた栄えることは……ありえんと思う。これからどんどん人が減っていって、年寄りばかりになって、最後は誰もおらんくなる。でもね、それでよかとも思っとるとよ。わたしらが生きてきた事実は変わらんっちゃけん……ただ、そんな中でこの島に興味を持ってくれたんが嬉しかとよ」
美紀ばあの目には涙が溜まっていた。彼女はしわくちゃの顔を歪め、二人に対して深々と頭を下げる。
「この島に来てくれてありがとう。よかったら、忘れんでくれると嬉しいな」
「忘れるものか。生きている限り覚えているとも」
「俺もです! 絶対に忘れません!」
「……二人とも優しかね。ありがとう。たまにでよかけん、このレシピを見た時でもよかけん、小値賀のことば思い出してくれんね」
ディシディアたちは無言で首肯する。
その瞳が確かな覚悟の光を帯びているのを察した美紀ばあは溢れる涙を服の袖で拭い、満面の笑みを二人へと向けるのだった。