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第百七十七話目~シビの刺身と晴れ着美人~

 元旦が開けた翌日。良二は布団の中でゆっくりと目を開けた。

 移りこんでくるのは見知らぬ天井。すうっと息を吸い込めば畳と線香の懐かしい香りが漂ってくる。肌に感じる空気はやや寒いが、布団から出るのを拒むほどではない。


「ふぅ……んぅ」


 ぐ~っと背筋を伸ばす。すると、ゴキゴキという快音が背中から響いた。どうやら寝すぎたのだろう。体がすっかり凝り固まってしまっている。

 思えば、昨日からずっとこうやって寝ていたものだ。二日酔いの疲れもあったし、これまでの旅で疲労も溜まっていた。華たちが出ていった後ディシディアと共に床に就いたのだが、結局夕飯に呼ばれるまで熟睡していたのは記憶に新しい。


(あ、そうだ……ディシディアさん)


 ふと横を見ると、そこには誰もいない。もしやと思って部屋の隅を見てみると畳まれた布団が置いてあった。どうやら自分よりも先に起きているらしい。耳を澄ませてみれば確かに居間の方からテレビと誰かの笑い声が聞こえてきた。

 気怠いものの、ディシディアはとうに起きているのだ。このまま寝ているわけにもいくまい。良二はゆっくりと立ち上がり、大きく欠伸をしながら布団を畳んでいく。

 眠気は強いようだが、テキパキとした動作でかたづける辺りは流石だ。彼はディシディアの布団の隣に自分の布団を移動させた後で居間へと足を向ける。その途中にある板張りの床は畳などとは比べ物にならないほどひんやりとしており、自然と足が早まった。


「おはようございます」


「あぁ、おはよう。ぐっすりお休みだったね」


 障子を開けるとそこにはもう三人が揃って食卓を囲んでいた。ディシディアの言葉を受けて苦笑しながら中に入り、彼女の隣に腰掛ける。

 と、彼女がこちらの方へわずかに身を寄せてきた。小悪魔的な笑みを向けられたので、おそらくは確信犯だろうと思いながらも悪い気はしない。なので、自分の方からもちょっとだけ彼女にすり寄った。


「リョージ君は二日酔い大丈夫? ウチはもう平気やけど」


 酒豪は回復も早いらしい。華はすっかりケロッとしておせちをガツガツと食べ進めていた。その隣にいる美紀ばあは孫を嗜めるようにジト目を向けてから雑煮を啜る。


「まぁ、俺もだいぶよくなりましたよ。昨日はゆっくり寝ましたから」


「だろうね。まぁ、私が言えた立場ではないけれど」


 自嘲気味に言い放つディシディア。彼女も朝からすさまじい食欲だ。丼サイズの雑煮にはモチが山ほど入っている。よほど気に入ったらしい。彼女は嬉々としてモチを食んでいた。


「リョージ君もお雑煮食べる?」


「お願いします。あ、おもちは二個で」


「了解。焼くまで時間かかるから、それまでこれでもつまんでてよ」


 去り際に彼女が差し出してきたのは――何かの刺身だった。あまり魚に詳しくない良二にはそれが赤身の魚だということくらいしかわからない。

 脂の乗りなどから考えるとブリかと思ったが違う。かと言って、マグロの赤身のように完全な赤というわけでもない。鮮やかなピンク色だ。


「あの、美紀ばあさん。これ、何て言うお魚なんですか?」


「それはね『シビ』っていうお魚よ。マグロの稚魚やね」


「マグロ!?」


 ギョッと目を剥き、眼前の刺身を改めて見つめた。マグロの稚魚をそう呼ぶなど知りもしなかったし、こうやって実物を見ることなんて初めてだ。

 驚く良二をよそに、美紀ばあは続ける。


「シビは美味しかよ。マグロよりも食べやすかしね。はい、お醤油」


「あ、どうも」


 受け取った刺身醤油を取り皿に注ぎ、厚めに切られている刺身を一枚取ってちょっとだけ醤油につける。と、つけた部分を中心に脂が波紋状に広がった。

 よほど脂が乗っていなければこうはならない。自然と喉が鳴り、口腔内に唾が溜まる。


「じゃあ……いただきます」


 ゆっくりと口に入れ、噛み締める。

 まず感じたのは身の甘さだ。脂が乗っているからだろう。仄かに甘く、舌触りはとろりとしていて口の中で蕩けるよう。

 まだ稚魚だからか、身は驚くほどに柔らかい。なのに、確固とした『芯』があって、マグロらしい力強さを兼ね備えている。

 同じく脂が乗っているトロとはまた別のベクトルだ。こちらはあちらよりも若干あっさりしているが、食べやすいという利点がある。朝から食べても違和感がないほどだ。

 そこに長崎特有の濃い甘さを持つ刺身醤油が加われば脂の乗りがいっそう強調される。

 初めて食べる品に舌鼓を打つ良二の横で、ディシディアも同じく幸せそうに頬を緩ませていた。

 昨日、だいぶ食べてしまったからだろう。今日は色々と新作が並んでいる。

 小鉢に入れられた塩うにやいくらの醤油漬けや煮物など。どれもこれも美味い。

 特に煮物はがめ煮と呼ばれているものだ。本来は福岡でメジャーな郷土料理だが、この島にもその製法は伝来していたらしい。

 オリジナルよりもやや甘じょっぱい味付けだが、悪くない。野菜は相変わらずどれもこれも新鮮だ。癖もなく食べやすい代物だ。


「ほい、おまたせ~」


 いつしか調理を終えたらしき華が返ってくる。彼女は雑煮を良二に渡すなり、意味深な笑みを持ってディシディアに語りかけた。


「ねぇねぇ、ディシディアちゃん。そろそろお着替えしてもいいんじゃない?」


「む。そうだね。彼も起きたことだし」


 そんな会話を繰り広げる二人を交互に見て、良二は首を捻った。

 確かに今、ディシディアは寝間着を着ているがそれをわざわざもったいぶって言うような必要性があるのだろうか?

 二人には何かしらの真意があるのだろう。事実、彼女たちはアイコンタクトを交わし、時計を見てから美紀ばあの方へ同時に向きなおった。


「ばあちゃん。ちょいと席外すけどよか?」


「着付け、手伝わんでよかかな?」


「よかよか。ウチらだけでできるよ。危なくなったら呼ぶけん。んじゃ、ディシディアちゃん。おいで。お着替えしよ」


「あぁ。リョージ。覗いてはダメだよ?」


「覗きませんよ!」


 自分は何だと思われているのか。良二は声を荒げて否定するも、ディシディアは懐疑的な視線を崩さない。隣にいる華もそれに便乗してくるのでたまらない。良二は項垂れ、頭を抱えた。

 そうしている間にも彼女たちは客間の方へと消えていったらしい。障子の閉まる音と、しばらくして何かの話し声が聞こえてくる。


「ところで、リョージ君は今大学生やろ? 学校はどがん感じね」


 ふと、美紀ばあが話しかけてくる。良二は咄嗟に姿勢を正そうとしたが、彼女は小さく首を振って彼を制する。


「そうかしこまらんでよかよ。話したがりの年寄りに付き合ってくれるだけで嬉しかけん」


「……はい。そうですね。楽しいですよ。色んなことを教えてもらってますし」


「今、三年生?」


「はい。もうすぐ四年生です」


「なら、すぐに就職活動が始まるんやね」


 就職活動――その言葉を聞いた瞬間、良二の顔がサァッと青ざめた。

 すっかりそのことを失念していたのだ。いや、それだけではない。考えてみれば、レポート作成に必須であるノートパソコンや課題として出されているプリントも家に置いたままだった。


(し、しまった……一乗寺さんの二の舞じゃないか……)


 頬がひくひくと動いているのが自分でもよくわかる。胃の中がぐるぐると蠢いているような錯覚すら感じた。気を抜けば卒倒してしまいそうだ。

 大学の冬休みは意外にも短い。帰ったらすぐに休みが明け、そして地獄とも思えるレポートと定期試験がやってくるのだ。

 なのに、自分は何もしていない。途端、良二は目の前が真っ白になるような錯覚を得た。

 が、


「そう気張らんでもよかと思うよ」


 美紀ばあの言葉がかかり、良二はハッと我に返る。彼女はにこやかに微笑みながら、遠い目をして呟いた。


「確かに大変やろうけどね、人生は長いっちゃけん。一回失敗したくらいで終わらんよ。気楽にやればよかとよ。わたしなんかは大学も出とらんけど、孫や息子たちもおる幸せな生活ができとるしね」


「……本当にそう思いますか?」


「もちろんよ。伊達に年は重ねとらんけんね。色んな人は見てきたつもりよ。焦らんで、の~んびりやりゃよかっさ。大丈夫。そう気負わんでも人生は案外どうにかなるもんやけん」


 ――一瞬だけ、ディシディアの顔が脳裏をよぎる。

 そうだ。確か彼女も似たようなことを言っていた。

 これが年を重ねた故に至れる境地だろう。良二は内心ディシディアにも感謝しながら、


「ありがとうとございます……少しだけ気が楽になりました」


 彼女に礼を言って瞑目する。

 ディシディアの魔法を使えばパソコンや勉強道具を取りに帰ることはできるだろう。が、せっかくの旅行だ。これを息抜きにして、帰ってから死ぬ気でやればいい。

 おそらくはとてつもなく大変なことになって苦しむことになるだろうが、それでも構わない。せっかくの旅行なのだ。勉強道具を忘れたことはむしろ幸運と思うようにしよう。ディシディアと時間を共有できる機会を得られたのだから。


「あ~もしもし? リョージ君。いいかな?」


 噂をすれば何とやら。障子の向こうからそんな声が聞こえてきて、良二はハッと顔を上げた。

 どうやら障子の向こうにいるのは華らしい。障子に映るシルエットからそれを察することができた。

 彼女はわざとらしく咳払いをしてから、人差し指を立てるジェスチャーをしてみせる。


「ふふ、サプライズがあるけん、楽しみにしとき。ほら、ディシディアちゃん」


「あ、あぁ……しかし、歩きにくいな、この衣装は……」


 華の声の後で聞こえてきたのはディシディアの声だ。障子の向こうにいるのでよくわからないが、どうも困惑しているらしい。やがて彼女らしきシルエットが障子の向こうに見えたかと思うとゆっくりと障子が開かれ――その奥にいたディシディアの姿が露わになる。


「……え?」


 と同時、良二は間の抜けた声を漏らしてしまう。が、それも無理はないことだろう。

 障子の向こうにいるディシディアが着ていたのは鮮やかな桃色の晴れ着だったのだ。細部には花弁を模した意匠が施され、それは彼女が持つ妖艶な雰囲気と相まって得も言われぬほどの魅力を醸し出す。

 以前、彼女は縁日で着物を着たことがあったが、その時とはまるで違う。

 今の彼女を一言で表すならば――『艶やか』という言葉に尽きるだろう。

 ここに芸能事務所のスカウトマンがいれば即彼女をスカウトしたかもしれない。ほんのわずかな恥じらいの混じった笑みを浮かべる彼女はとてつもなく美しく、そして可愛らしく思えた。


「……綺麗だ」


 意図せず、そんな言葉が漏れる。見惚れる、というのはこういうことを言うのだろう。

 世界が止まっているように思えて、辺りの音が何も聞こえなくなって、ディシディアしか見えなくなる。自分の心臓がまるで別の生き物のように動き回り、体も思うように動かせない。完全に見とれていた。


「そ、そうジロジロ見るな……何か、変だっただろうか?」


「へ、変じゃないです! その……とても、可愛いですよ」


 最初は部屋全体を震わすほど大きな声だったのに、最後の方は蚊の鳴くような声だった。

 ディシディアは顔を真っ赤にして俯く彼を見てほっと胸を撫で下ろす。どうやら外した、というわけではなかったらしい。むしろ好意的に捉えてくれたようだ。

 彼女は慣れぬ晴れ着に戸惑っているのかおぼつかない足取りで進んでいき、良二の前にちょこんと腰かける。

 そこでようやく、良二は彼女がうっすらと化粧を施していることに気がついた。きっと華がやってくれたのだろう。いつもの彼女も魅力的だが、今日は化粧が施されているせいで大人らしい雰囲気が割り増しとなっている。

 その雰囲気と矮躯のアンバランスさは完全なる黄金比。これ以上直視しては自分が自分でなくなってしまいそうな気がして、良二は咄嗟に顔を背けた。

 そんな様子を見た華は額を押さえてやれやれ、と言わんばかりに首を振り、美紀ばあは懐かしそうに目を細めながら茶を啜る。

 そんな中でディシディアは――これ以上ないほど満足げな笑みを浮かべていた。


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