第百七十五話目~おせちと初日の出チャレンジと初イチャイチャ~
午前五時。まだ日も昇らない頃、ディシディアは朝食を取っていた。
「いただきます」
眼前に見えるのはずらりと並ぶおせち料理たち。ほとんどが初めて見るものばかりであり、彼女は悩ましげにしながらもとりあえず一通り取り皿に移す。
昨日のうちに準備してあったため、冷蔵庫から出すだけで住んでいる。彼女は麦茶を二人分のコップに注ぎ、一つを横で頭を押さえて呻いている良二に渡してやった。
「ほら、飲みなさい。少しはましになるだろう」
「うぅ……ありがとうございます」
どうやら二日酔いらしく、良二は頭を押さえて顔をしかめていた。ディシディアはピッと人差し指を立て、嗜めるような口調で続ける。
「お酒は自分のペースで飲むべきだよ。酒を飲んでも飲まれるな。常識だろう?」
「はい……反省してます」
普段の彼なら節度を持ってセーブしていただろうが、年末という雰囲気が羽目を外すきっかけになってしまったのかもしれない。結果的に二日酔いに苦しめられている彼を一瞥してから、彼女はまず数の子を口にする。
コリコリ、ポリポリとした食感と塩辛い味付けが特徴だ。普通の魚卵とはまた違った味わいを見せる数の子に彼女も関心を示したらしい。黄金色に輝くそれを天にかざしたかと思うと、まるでハムスターのようにもぐもぐと咀嚼し始めた。
少々味付けが濃い気もするが、おそらくこれは日本酒などと合わせるためにそういった味付けにしてあるのだろう。単品ではなく酒と合わせれば確かにいい肴になりそうだ。
「ところで、リョージ。今日は初日の出、とやらを見に行くのだろう?」
ディシディアの言葉に良二は深々と頷く。華から聞いたところに寄れば、初日の出が見られる絶好のスポットがあるらしいのだ。それを聞いて黙っているはずがない。
二人は早速計画を立てていたのだが……。
「そんな調子で運転ができるのかい? 無理そうならやめておこうか?」
見かねてか、ディシディアが不安げに呟くと良二はフルフルと首を振った。彼は顔をしかめながらも麦茶をがぶがぶと煽って、口の端からこぼれる水滴を服の袖で拭う。
「大丈夫ですよ。もうアルコールは抜けてますし。問題ないです」
「ならいいが……無理はしないでくれよ?」
「わかってますよ。じゃあ、俺も少し腹ごなししておきますかね」
彼も箸と取り皿を取り、ディシディアと同じく料理を取っていく。そんな中でも良二は説明を寄越した。
「おせち料理ってそれぞれ縁起を担いでるんですよ。数の子は子だくさん、田作りは五穀豊穣。で、黒豆は健康さ……だったと思います」
「君たち日本人は縁起を担ぐのが好きだね。まぁ、私も嫌いじゃないけどね」
などと愛嬌たっぷりに言い放ちながら早速田作りを口にする。かたくちいわしの素朴ながらも力強い味わいとゴマの香りがうまい具合に混じり合う。小さいがパンチの効いた味だ。思わずディシディアも頬を綻ばせる。
おせち料理自体が初めてのディシディアにとっては食べるもの全てが新鮮に思える。普段は中々食卓に並ばないような伊達巻や昆布巻き、はたまた紅白なますなど。見た目も華やかで味も十分。これ以上ないほど豪勢な朝食だ。
「ふふ、色々とつまめるのは楽しいな」
「でしょう? おせちはまだまだあるらしいですから、どんどん食べていいと思いますよ」
「望むところさ。しかし、本当に美味しいな……」
舌鼓を打ちながら素直に感心するディシディアを尻目に、良二は美紀ばあが眠る寝室と華の部屋を交互に見て首を捻った。
「やっぱり、二人とも起きてきませんね」
「美紀ばあはともかく、華はとにかく酒を飲んでいたからね。無理もないさ。むしろ、よく吐かなかったと褒めてあげたいくらいだよ」
「ハハハ……」
乾いた笑いしか出てこない。自分は昨日途中で気を失ってしまったが、あれから彼女は一体どれだけの量を飲んだのだろうか? 見た目に違わずかなりの酒豪である。
良二は戦慄しながら、手近にあった黒豆を口に放る。皮は張りがあって、けれど中はねっとりと蕩けるように甘い。艶やかな黒豆はさながら黒瑪瑙のような輝きを有している。つい視線が釘付けになってしまうのを自覚しながら良二は数粒を口に入れて嚥下し、今度は伊達巻を齧る。
その瞬間「お」と声を漏らしてしまう。伊達巻はしっとりとしていて優しい甘さをしている。これが二日酔いの体にはちょうどいいのだろう。驚くほど簡単に喉を下っていく。
口当たりも抜群で、噛み切るのにもほぼ力はいらない。彼は残りを口にいれようとして――隣にいるディシディアが物欲しげな目をしているのが目に入った。
彼女はごくりと喉を鳴らし、彼が持つ伊達巻を指さす。
「それは、そんなに美味しいのかい?」
何となく、いつも良二が言っていることがわかった気がした。今の彼は非常に幸せそうな顔で伊達巻を食べていたのだ。それを見ているだけでこちらも食欲が湧いてきてしまう。
良二は微かに頷き、
「よかったら、食べます?」
と、食べさしの伊達巻を差し出してきた。なので、彼の気が変わらないうちにディシディアははぷっと食らいつく。そうして数度咀嚼するころには彼女も先ほどの良二と同じように目尻をだらんと下げて恍惚の笑みを浮かべていた。
良二はそれが嬉しかったのかまた伊達巻を取ろうとして、何かを思い出したようにハッと顔を上げて姿勢を整える。そうしてディシディアの方に向きなおり、地面に手をついて深々と頭を下げた。
「あ、そうだ。ディシディアさん。言うの忘れてましたけど、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「あぁ、こちらこそよろしく頼む」
(まぁ、私は昨日言ったんだけどね)
しかしその時良二はぐっすりだった。気づかなくても仕方ないだろう。
どうせならあの時もっと色々なことを言っておけばよかった、と今さらながらに後悔するディシディアだったが、すぐに気を取り直して時計を見やる。すでに時刻は六時間近。彼女は近くのメモを見て、パンッと手を打ちあわせた。
「よし、もうすぐ日の出だ。出発しよう。行けるかい?」
「もちろん。どこまでもお供しますよ。貴女が望むなら」
「それは楽しみだ。なら、今年もたっぷり付き合ってもらうよ」
彼女はクスクスと笑いながら裏口の方に向かっていく。一方の良二はそんな彼女の後姿を見送りながらもう一個だけ伊達巻を口に放り込み、もごもごと口を動かしながらその後を追った。
朝の島は非常に静かなものである。人の声も、牛やウミネコの声すらも聞こえない。
聞こえてくるのはさざ波の音と風の音だけだ。それらは心地よく響き渡り、開け放たれた車の窓からすり抜けていく。
窓の桟に肩肘をついて窓の外を見やっているディシディアは遠くに見える山をジィッと見つめる。おそらくその向こうに太陽が隠れているのだろうが――あいにく、今日は厚い雲が空を覆っている。正直なところ、見れるかどうかは微妙なところだ。
「まぁ、気楽にいきましょうよ。完全に上るころには雲がなくなってるかもしれませんし」
隣でハンドルを操る良二がそんなことを言ってくれる。彼なりにフォローを入れてくれたのかもしれない。ディシディアは「そうだね」とだけ呟いてから窓の外に視線を戻した。
正直なところ、初日の出は見れなくてもいい。ただこうして二人でいるだけでなぜだか幸せなのだ。今年の始まりも彼と一緒にいられたことに喜びを感じている。
(さて、今年はどんなことがあるだろうか?)
胸の奥から興奮が湧き上がってくる。去年は初体験の連続だった。その中で多くのことを学んだし、彼と共に絆を深めてきた。
そして今年も、去年以上に素晴らしい思い出が作れることを確信している。なぜなら、もう自分は独りではないのだから。愛する彼がいてくれるのだから。退屈することなど、万に一つもありはしない。
ふと隣に視線をやると、良二はまだ眠そうに欠伸をしていたが、目的地が近づいてきたことがわかるとキリリと眉を吊り上げてみせる。
彼につられて前方を見れば、そこには寂れた空港があった。この空港の周りには細い道があり、そこからならば初日の出が一番綺麗に見えるという。島の者たちでもあまり知らない華のオススメスポットらしいのだ。
借り物の車なので傷つけるわけにはいかない。うっそうと茂る草やぴょんと飛び出ている枝などで車体を傷つけないようにそろそろと緩慢な動きで進んでいき、やがて道が少し広くなった辺りで停車する。そうして、二人はほぼ同時に外へ躍り出た。
「むぅ。少々肌寒いな」
ディシディアがおのれの肩を抱くようにして震える。海風は心地よいものの、まだ完全に日の光が昇っていない段階なので、肌寒く思えてしまった。
ぷしゅんっと可愛らしいくしゃみをしたところで、肩に何かがかけられる感覚。ふと見れば、自分の後ろにいる良二が着ていたコートを自分にかけてくれたところだった。
「あまり女性は体を冷やすといけないらしいので、どうぞ」
「ありがとう。しかし、君は寒くないかい?」
「全然! これっぽっちも寒くないですよ!」
嘘だ、とディシディアは思う。鼻の頭は真っ赤だし、体も軽く震えている。やせ我慢をしているのは見るに明らかだ。
「はぁ……君はもっと自分を大事にしなさい。ほら」
と言いつつ、彼に体を預ける。ディシディアは目を閉じながら、どこか自慢げに鼻を鳴らして指を振るう。
「二人で寄り添っていれば寒くないだろう? ほら、もっとくっつきなさい」
「ハハ……ありがとうございます。それにしても、ディシディアさんの身体って温かいですね」
元々彼女はそれなりに体温が高い方であり、抱きしめると天然の湯たんぽのように思えてしまう。良二は後ろから彼女の体を抱きつつ、はるかかなた、海の向こうに見える島に目をやった。
そこにそびえる大きな山の影に太陽は隠れている――が、雲が厚すぎて見えそうにない。
残念ながら、今日は初日の出を見ることができないらしい。良二はわずかに肩を落とすも、すぐに何かに思い至り、ハッと顔を上げた。
そうして、勢いに任せて胸中を口にする。
「ディシディアさん。今日は初日の出見れませんでしたけど……来年、見ませんか? 別にここじゃなくてもいいんです。ただ、その……むにゅ」
唇に人差し指を当てられ、変な声が漏れてしまう。良二は戸惑いながら自分の方に悪戯っぽい笑みを向けているディシディアに視線をぶつけた。
当の彼女は花の咲くような笑みをもって、
「皆まで言うな。わかっているとも、君の心は。私も同じ気持ちだからね」
「本当ですか?」
「あぁ。嘘はつかないよ。また次の機会を楽しみにしていよう。それと……もう少し、このままでいないかい? 君の温もりを感じていたいんだ」
「……俺もですよ」
「? 何か言ったかい?」
「いいえ、何でもないです!」
照れ隠しに思い切り抱きしめる。ディシディアは一瞬驚きと困惑の入り混じった表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべて彼の顎に頭を擦りつける。
(……嗚呼、こんな姿は誰にも見せられないな)
ここには自分と彼しかいない。そして何より、彼女が『本当の自分』を晒せるのもほかならぬ良二だけだ。
自分と彼はよく似ている。互いに孤独を知り、絶望を味わい、けれどその中で光を見つけた。
きっと、転移の術によって彼の部屋に飛んだのは偶然ではないはずだ。
自分と彼は出会うべくして出会った。互いに惹かれあい、愛し合っている。
ディシディアは彼の温もりを感じながらそっと目を閉じる。
この出会いを忘れることは絶対にないだろう。数十年経っても、数百年経っても、それ以上の時が流れても――彼との思い出は風化することなく自分の中に生き続ける。
不思議な感情が体を包んでいく。それは不快なものではなく、とても心地よいものだ。ずっと浸っていたくなるほど甘美で、何よりも尊いもの。
かつて感じた覚えのあるそれを胸に抱くディシディアは、非常に晴れ晴れとした表情で澄み渡る青い海を見据えた。
一言メモ:ようやく作中では年を越しました。大変遅くなりましたが、今年もうちの子たちをどうぞよろしくお願いいたします