第百七十四話目~カニしゃぶと年の瀬~
いよいよ年明けまであと数時間に迫った頃、ディシディアたちは食卓を囲んで年末の歌合戦を眺めていた。そこでは大勢の歌手たちが今年一世を風靡した歌を歌っている。
が、ディシディアたちにそれを聞く余裕はない。
なぜか? 決まっている。
「はい。ディシディアさん。カニ、剥き終わりましたよ」
「ん。ありがとう」
――そう。今日の夕食はかにしゃぶだからだ。
誰しもカニを食べる時は一心不乱になって言葉も発さないものである。事実、今日の食卓は非常に静かなものであり、ぐつぐつという鍋の煮立つ音とテレビから聞こえてくる流麗な歌声だけが今を支配していた。
「ふふ、空弁で食べたものとはまた違うがこれもいいね」
ディシディアはカニの身を自家製のポン酢につけて口に運ぶなり破顔した。ジューシーで濃厚なカニの身はスダチを入れたポン酢によってキリリと味を引き締められている。
食べている時に汁が溢れて指まで濡れるが、彼女は構わずに指ごとカニに食らいつく。
と、そこで横から良二が野菜を取り皿の中に移してきた。
「カニばかりだけじゃなくて野菜も食べないとダメですよ」
「むぅ……わかっているとも。ただ、このカニがあまりに美味くてね……」
それも無理はない、と良二も同意の頷きを促す。カニの誘惑に抗えるものなどそれこそカニアレルギーを持つ人くらいだろう。
プリッとしたカニの身は弾力にも富んでいて、噛むと口の中で旨みを弾けさせる。熱を加えられることによって旨みが倍増し、もはや依存的な美味さになっていた。
けれど、カニの出汁をたっぷりと吸った野菜たちだって食べるに値する品だ。ディシディアは白菜を食み、続けてご飯を喰らう。
良二は彼女がご飯を食べ始めたのを見て、自分の作業に移る。彼がやっているのはカニの身を剥く作業だ。
案外これは力がいる作業であり、非力なディシディアやお年を召した美紀ばあにとっては負担になるものだ。だから、彼がカニの身を一任されることになったのだが……華は良二の方に困り顔を向ける。
「ごめんね、リョージ君。食べたかやろ?」
「いいんですよ。みんなの美味しそうに食べる顔が見れるだけで大満足ですから」
それは彼の本心だ。美味しいものには人を笑顔にする力が宿っていると彼は信じている。
ふと隣に視線を映せば、ディシディアがカニの身をご飯の上に乗せているところだった。彼女はその上からさらにスダチをかけた後でご飯と一緒に掻きこみ、耳を激しく上下させる。その顔はこれ以上ないほど幸せそうだった。
その姿を見ているだけで良二の心には満足感が去来する。この感覚は彼女と共に過ごすようになってからたびたび覚えるものだ。
「ん? こっちをジロジロ見て、どうしたんだい?」
カニの身を咥えたままのディシディアが問いかけてきて、良二は慌てて視線をテレビへと移した。そこでは今年のドラマで一躍有名になった『愛ダンス』を踊っているアーティストの姿。
ドラマ自体を見たことはないものの、ディシディアがよく聞いているのは知っている。さりげなく横を見てみれば、彼女は指でリズムを取っていた。何とも微笑ましい光景である。
「それにしても、カニなんてまた豪勢ですね」
「貰い物やけどねぇ。遠くの親戚から送ってきたんよ」
美紀ばあがそう答えてくれる。島ならではのネットワークがあるのだろう。そのおこぼれに預かれたことを嬉しく思いつつも、どことなく申し訳なく感じてしまう良二だが、その心情を読み取ったかのように華が口を開いた。
「お返しに家も野菜を送ったけんね。持ちつ持たれつ。案外大事なことよね。子どもたちにも言いよるけど」
保育士らしい視点を持つ彼女の言葉にディシディアたちも深く頷く。
人は一人では生きていけないのだ。誰かの支えがあって初めて生きていくことができる。
だからこそ、されてばかりではダメなのだ。自分からも何かをすることが肝要なのである。
そのことを再認識しながら良二もようやく鍋を食べ始める。カニはもう残り少ししかないものの、実を言うと良二は畑で採れる新鮮な野菜たちの方に興味が移っていた。
気候がいいのか、はたまた世話の仕方がいいのかスーパーなどで売っているものとは一味も二味も違う。並大抵の苦労でなせる仕事ではないだろう。きっと美紀ばあがつきっきりで世話をしているからこそ醸せる旨みだ。
(いつか、こうやって野菜を育てるのもいいかもな……)
ついついそんなことを思ってしまう。脳裏に浮かぶのは以前ディシディアから言われた言葉だ。
この島ではないにしても、老後は静かな場所に移るのもいいかもしれないとこの野菜たちを食べると思ってしまう。
定年まで働いたら田舎に移って、彼女と二人で野菜などを育てつつのんびりと過ごして――平凡かと思われそうだが、それでも幸せそうな人生だ。想像するだけで胸が温かくなる。
が、意図せず麦わら帽子にモンペという農業スタイルのディシディアを想像してしまい、派手にむせてしまう。高貴さの象徴のようにすら思えるエルフと泥臭いモンペのギャップは相当に強烈だ。
げほごほ、と派手に咳き込む彼の背中をさするディシディア。良二は彼女に小さく頭を下げるものの、なぜむせたかは言わない。言えばきっと呆れるかからかわれるだろう。
そんな折、美紀ばあが時計を見て大きく欠伸をしたかと思うとゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、もう早いけど今日は寝るよ。もう年やけんね。あまり起きとるとつらかっちゃん」
「うん、おやすみ、ばあちゃん」
「おやすみ。また明日」
「お、おやすみなさい……がふっ」
三者三様に返事を返し、彼女を見送る。彼女の気配が奥の方に消えた後で華はディシディアの方へと視線を移した。
「ディシディアちゃんはどうする? 流石に年越しの瞬間までは起きてるの辛いやろ? もし眠くなったら寝てよかけんね? あ、リョージ君は晩酌付き合って」
「そ、それは確定なんですか……?」
華はけらけらと笑いながら肯定を示す。すでに彼女は焼酎のロックを数杯ほど飲んでおり、それなりにできあがっている。ほんのりと上気した顔を彼の方に寄せながら、華はニカッと歯を見せて笑った。
「もちもち。一人で晩酌するのはつらかけんね。リョージ君もイケる口やろ?」
「ま、まぁ、嗜む程度ですが……」
「なら、決まり。あ、ディシディアちゃんも起きれたら一緒に晩酌しよ? ジュースやけど」
隣で羨ましそうに唇を尖らせていたディシディアに見事なフォローを寄越す。ディシディアはそれで機嫌を取り戻したらしく、えっへんと胸を反らして告げた。
「あぁ、もちろんだ。思う存分付き合おう。こう見えて夜更かしは得意だからね」
「俺もいいですよ。お願いします」
「よし! んじゃ、早速飲んで飲んで!」
華はどたどたと冷蔵庫に駆け寄りそこから缶ビールと缶コーラを持ってきて二人に手渡し、席に腰掛けると自分のグラスを彼らの方に掲げ、
「乾杯!」
『乾杯』
カチン、と打ち合わせてグイッと煽る。良二たちもそれに負けずグイッと飲み物を煽った。
――そうして、それから数時間後。
「ほら、リョージ。起きなさい……もうすぐ年明けだよ」
「むぅ……もう飲めませんよぉ」
ディシディアはいかにもな台詞を吐く良二の肩を揺すっていた。彼はすっかり酔いつぶれてしまい、テーブルに顔をつけてぐうぐうと寝息を立てている。
彼自身はそれなりに酒に強い方なのだが、華は彼など足元にも及ばないほど酒に強く、かなりのハイペースで酒を煽っていた。それに付き合わされた良二が耐えられるはずもない。
一時間が経つ頃には顔を真っ赤にしており、それから一時間経ったらこのように寝てしまう始末だ。ディシディアはすっかり起きる気配のない彼を見た後で、床に寝そべって一升瓶を抱いている華を見て大きなため息をつく。
彼女も久しぶりの客人と話せるのが嬉しかったのか飲むのも喋るのも大忙しで、つい先ほどこうやって寝込んでしまった。一旦こたつを抜け出て顔を見てみれば、彼女は幸せそうに涎を垂らしながら一升瓶に頬ずりしていた。
「まったく……ほら、可愛い顔が台無しじゃないか」
ティッシュを数枚取り、涎を拭きとってやる。それが感覚として伝わったのか、彼女はむにゃむにゃと言いながらゴロンと寝返りを打った。もう完全に酔いつぶれている。この調子では起きることはないだろう。
「やれやれ……手間のかかる子どもたちだ」
嘆息しながらもどこか嬉しそうに、彼女は近くの衣装箪笥から数枚の毛布を持ってきて二人の体にかけてやる。その後で自分は席に腰掛け、良二が飲み残した缶ビールを手に取った。
ちょいと振ってみれば、確かな手応えが返ってくる。それなりに入っているのだろう。
ディシディアは彼の眼前にビールを持っていき、軽く振りながら妖艶な笑みを浮かべる。
「ほら、リョージ。起きなさい。飲んでしまうよ? 間接キスだよ? いいのかい?」
当然ながら、起きる気配はない。温くなった缶を顔に当てると顔をしかめて寝返りを打つ始末だ。ディシディアは小さく息を吐き、ビールを煽る。
すっかり炭酸も抜けきってしまい、正直言ってあまり美味くない。ただ、これは一人で飲んでいるという事実も大きいだろう。
誰かと飲み食いするだけでどんな安物でも美味しく感じるのと同じように、独りで何かを食べるとなるととても味気ないものに感じるのだ。
ディシディアは華が出してくれたアジの背骨せんべいを齧りながらテレビを見やる。すでにカウントダウンが始まっており、出演者たちが大きな声を上げている。
「……四……三……二……一……」
ゼロ、と言いかけたところでテレビから歓声が聞こえてくる。彼女はそれを肴にビールを煽り、すやすや眠る良二の髪を優しく撫でた。
「あけまして、おめでとう。今年もよろしくね、リョージ」
その時少しだけ彼の頭が縦に揺れたような気がしたが――たぶん気のせいだろう、と感じ、ディシディアは瞑目する。
去来する機体と興奮を噛み締めるようにしながら、彼女はまたしてもビールを煽った。