第百七十一話目~イタリア風トマト鍋と年上三人~
真っ赤な夕焼けは水平線に沈みつつあり、車内を赤く照らす。ゆらゆらと蠢く水面に反射する様はとても幻想的だ。ディシディアたちは浜辺近くの道をドライブしながら、その様を横目で見やる。
トラブルはあったが、昼飯を取った後は比較的何事もなく順調にいっていた。とりあえず今日は感覚を掴むため、島を一周ぐるりとドライブした形になる。本来なら大橋を渡って別の島にも行ってみようかと思ったのだが、今日は安全策を取ったのである。
島を巡っていて思ったのが港付近はどこも発展している、ということだ。特にフェリーが着くターミナル近くは小規模ながらスーパーやカラオケなどもあった。完全な田舎と思っていたが、それは少し間違いだったらしい。
娯楽施設もあるようだし、そこまで退屈はしないだろう。いや、車で行けない細い道などを歩いて探索することなどを考えてみれば、飽きることはないように思えた。
「さて、そろそろ帰ろうか」
「そうですね。華さんたちを待たせても悪いですし」
手慣れた動きでハンドルを操る良二。もうそこに戸惑いや怯えはない。半日近く車を運転していたのだ。感覚は十分に戻っている。他に車がいないということも余計なストレスを省く要因になったかもしれない。
家に着くまでの間、ディシディアは静かに目を伏せた。耳を澄ませてみれば、さわさわという木々のさざめきが聞こえてくる。もう離れてしまったが、波打ち際を走っている時にはウミネコたちの鳴き声も聞こえた。
この島には大体一週間程度滞在する予定である。それまでに色々な思い出を作ることができるだろうと、ディシディアは確信していた。
「明日はどうします?」
「そうだね。今日は行けなかったけど、明日は大橋を渡ってみないかい? それと、観光スポットも見に行きたいものだ」
「ですね。もうだいぶ運転には慣れましたし、お望みならどこへでも連れていきますよ」
「ふふ、頼もしいことだ」
本人は自覚がないだろうが、良二は相当要領がいい。教われば大抵のことはできるし、ブランクがあっても時間をかければすぐに勘を取り戻せる。
(彼がいなければ、こうやって車に乗ることもできなかっただろうな)
良二は時々自分を過小評価することがあるが、それは間違いだ。確かにディシディアのように経験豊富なわけでも便利な魔法が使えるわけでもない。ましてや、ほとんどのことができると言ってもそれはプロのレベルには届かないものだ。
けれど『できる』のと『できない』のでは意味が違う。プロレベルではないかもしれないが『できる』だけで選択肢が広がっていくのだ。そういう意味では数多くのスキルを有する彼もある意味超人である。
「ッと、そろそろ着きますよ」
声をかけられ、ハッとする。ディシディアはゆっくりと顔を上げ、前方に見える日本建築を視界に納めた。車はそのまま緩やかに進んでいき、木造の納屋に入る。そこでエンジンを切り、良二とディシディアは車外に飛び出た。
「ふぅ……疲れました」
「運転お疲れ様。後で肩を揉んであげようか?」
「じゃあ、お願いします。本当に肩が凝りましたよ」
トントン、と肩を叩く良二を見てディシディアはぷっと吹き出す。最初はガチガチで体中に力が入っていたから無理はないだろう。良二は少しだけ不服そうだったが、それでも中に入り、
「ただいま帰りました~」
「ただいま。今帰ったよ」
大きく声を上げた。ディシディアもそれに続いた辺りで、美紀ばあが自室からひょこっと顔を出してきてくしゃっと顔を歪める。
「おかえり。お風呂わいとるけん、入りなさいな」
「ありがとうございます。ディシディアさんから先にいいですよ」
「あぁ。しかし……一緒に入れないのは残念だね」
この家の風呂は狭い。浴槽はとても小さくて良二は体育座りをしなくてはならないほどだ。ディシディアにとってはちょうどいいサイズであるものの、成人男性である彼にとっては多少窮屈なのは否めない。
だが、泊めてもらっている身だ。文句を言うわけにもいかない。ディシディアは手早く着替えをもって洗面所の元へ行き、分厚い仕切りを閉めた。脱衣所がないので少々違和感があるが、だんだん慣れつつある。
ディシディアは寒さをこらえながら服を脱ぎ捨てて生まれたままの姿になり、前方にある洗面所を一瞥した後で左側に備えられている浴室へと足を踏み入れた。
一方、良二はというと――上着をハンガーにかけてから厨房へと向かった。そこでは華がリズミカルに包丁を操っている。
「華さん。お手伝いしましょうか?」
「おぉ、リョージ君。ありがとう。それより、ドライブは楽しかった?」
「えぇ、とても。いい島ですね、ここは」
「お世辞でも嬉しかね。そう言ってもらえると島人冥利に尽きるよ。あ、野菜切ってもらえる?」
「もちろん。任せてください」
良二は軽口を交わしながら、野菜たちを切っていく。どれもこれも新鮮だ。瑞々しくて張りがあって、ずっしりと重くて身が詰まっている。
虫食いなどは多いが、これは無農薬である証拠だ。それがただ同然で食べられるのは役得としか言いようがないだろう。
「ところで、リョージ君はさ、まだ大学生?」
「はい。今大学三年です」
「いいな~わかいな~! ウチなんかもう社会人よ!」
華はけらけらと笑ってみせる。そこで良二はややためらいがちに口を開いた。
「あの、華さんはどんなお仕事をなさってるんですか?」
「ん? 保育士さん。島にある保育所で働いとるんよ」
「保育士さんだったんですか!」
確かにディシディアに対する対応などを見ていても子供好きなのだろうとは思っていたが、まさかそれを生業にしているとは想像しなかった。てっきり、若い者たちの例に漏れず島を出ていると思ったものだが。
良二の真意にそれとなく気づいたのだろう。華は鍋に野菜をぶち込みながら、口を開いた。
「ウチね、この島好きなんよ。なんもなかし、退屈で狭い島やけど、それでも故郷やけん。龍兄ちゃんは『広い世界を見るんだ!』って飛び出したけどね」
愛嬌のある顔で言ってみせる華だが、そこには微かな悲哀が満ちている。
実際、彼女の同年代は二十人ほどいたのだが、現在この島に残っているのはわずかに五名。他は別の地方に散ってしまった。たまに帰ってくることはあっても、数日もすればこの島を出ていってしまう。
最後にクラスの全員と会ったのは同窓会が最後だ。それ以降、全員が揃った時などありはしない。
「って、ごめんね! ちょっとしんみりしちゃった!」
華は照れ隠しと言わんばかりに猛烈な勢いで肉をぶつ切りにしていく。良二は彼女に対して小さく首を振り、
「全然。気にすることはありませんよ。華さんがこの島が好きだって気持ちがちゃんと伝わってきましたから」
しっかりと彼女の目を見て告げた――が、なぜだろう。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開くと、すぐに潤んだ瞳でこちらを見つめ返してきた。気のせいか、頬も上気しているような気がする。
「……いい子やね、リョージ君は。よかったら、この島に婿入りせん?」
「え!?」
「冗談よ。リョージ君はモテるやろうね。羨ましい、羨ましい」
陽気に笑う彼女を見て良二は首を捻るが、そこでディシディアがひょっこりと顔を覗かせる。ちょうど風呂から上がったところなのだろう。髪はしっとりとしていて、肩に貼りついている。
「華。何か手伝うことは?」
「おぉ、働き者やね。じゃあ、お箸とか取り皿ば並べて」
「わかった。それと、リョージ。お風呂空いたよ。入ってきなさい。上がったらマッサージしてあげるから」
「は、はい」
良二は彼女を待たせてはならない、と言わんばかりに小走りで客間へと向かって着替えをもって浴室へと足を向ける。ディシディアは彼が上がるまでの間、箸を並べるなどの雑用をキチンとこなしていた。
――それから数十分後。ディシディアはうつ伏せになった良二の背に跨ってグイグイと肩の辺りを指で押していた。
「あたたたた……ちょ、ちょっと強くないですか?」
「凝っているんだろう。我慢しなさい。すぐに気持ちよくなるから」
直後、指がグイッと肩に食い込む。良二は声にならない悲鳴を上げて寝返りを打とうとするも、ディシディアが跨っているためそれもできない。足をバタバタとさせて悶絶する良二を見てまた嗜虐心を煽られたのか、ディシディアはわずかに手を加速させた。
ディシディアの細い指はいい具合にツボに入るのだが、いかんせんとても痛い。最初にしてもらった腰などはだいぶ楽になりつつあるのだが、これも最初やってもらった時は思わず大きな悲鳴を上げて華たちを驚かせてしまったものだ。
「あら、マッサージしてもらっとるの? よかね」
今しがた居間に入ってきた美紀ばあが二人を見てそんな感想を漏らす。ディシディアは彼女に対してニッコリと微笑み、
「よかったら、後でやろうか? こう見えて、マッサージは得意中の得意なんだ」
「……だったら、もう少し優しくしてくれませんか?」
涙声の良二の懇願はスルー。最後にポンッと肩を叩いた後で、ディシディアは良二の体から降りてこたつに潜り込んだ。
「ふぅ……痛かった」
良二はぐるぐると肩を回しながら立ち上がる。その時に違和感がなくなっていることを改めて実感したが、やはりあの痛みは許容しがたい。目尻に浮かぶ涙の粒を指で払ってから彼もこたつに入りこんだ。
「ドライブは楽しかったね?」
「あぁ、とても楽しかった。まぁ、降りて観光することはできなかったがね」
「よかよか。まだまだ時間はあるっちゃけん。のんびりいけばよかさ」
美紀ばあはそんなことを言い、出されていた麦茶を煽る。それとほぼ同時、厨房から華が大鍋をもってやってきた。すでにテーブルに置かれていたガスコンロの上にそれを置き、火にかける。
その中を見て、ディシディアはキョトンと首を捻った。
「これは……何鍋だい?」
「イタリア風トマト鍋! こないだ友達がイタリア土産のパスタを送ってくれたけん、それを使おうと思ってね」
聞き慣れぬ言葉に驚きつつ、ディシディアは鍋の中を凝視する。ゴロゴロとした長ネギやウインナー、キャベツやら薄切りの豚肉、はたまたペンネ状のパスタや牡蠣なども中に入っていた。
昨日の料理に負けず劣らず、今日も豪勢な食事だ。待っている間にもグラタンやらボロネーゼやらが運ばれてくる。
島、という環境からか出てくるのは和食ばかりだという先入観を持っていたのだが、それは見事に裏切られた。しかしそれもいい意味でだ。良二とディシディアは同時に顔を見合わせ、はにかんでみせる。
『いただきます』
ディシディアはすぐに鍋の中身を取り皿に移す。下に行けばいくほどたくさんの具材が溢れてきた。にんにくの薄切りなども入っており、香りづけとして絶妙な役割を担っている。
「それでは、さっそく……」
まず口に入れたのはキャベツだ。ここの野菜は折り紙つき。どんな調理法をしても美味いに決まっている。じっくりと煮込まれたキャベツはしんなりとしていつつも適度な硬さを持っており、やはり甘味がある。
オリーブオイルが入れてあると思わしき鍋は風味も豊かで、入っている牡蠣や豚肉の出汁もよく出ていた。トッピングとして出されているチーズをかければ洋風度が増す。
「お、これは面白い食感だね」
ディシディアが持ちあげてみせるのは華が友人にもらったというペンネ状のパスタだ。日本で売られているものよりも大きく、幅も広い。食感としてはモチモチしていて、非常に弾力に富んでいる。
それにスープをよく吸っていて、旨みがギュッと濃縮されているような感じがした。
「牡蠣とかもこの島で採れるんですか?」
「いや、これはもらいもんよ。息子たちからのね」
美紀ばあが嬉しそうに答えてみせる。龍や華のことを考えれば、娘や孫がそれなりにいるのだろう。彼女は心なしか誇らしげに胸を張っていた。
ディシディアは美紀ばあに微笑みかけてから、また鍋をつつく。
牡蠣は小ぶりながらもクリーミーで、スープにもよく合っている。魚介類を煮た時に出る雑味などは感じられない。流石は島出身というべきか。魚介類の扱いはお手の物のようだ。
「ディシディアさん。こっちのグラタンも美味しいですよ」
「おぉ、ありがとう。じゃあ、頂くよ」
良二が取ってくれた皿を受け取り、ペンネをソースとよく絡めてから口に運ぶ。鍋にいれた時とはまた違った味わいだ。
表面をこんがりと焼かれたチーズはとろりとしていて、当然ながらグラタンの軸をなしている。細切りにされた玉ねぎもシャキシャキとしていて食感もよく、中に入っている鶏肉もジューシー。
相当の満足感を誇る品だ。自然と笑みがこぼれる中、ディシディアは取り分けたボロネーゼを口に入れた。
流石にペンネばかりを食べていれば飽きると思っていたのだが、そんなことはこれっぽっちもない。
鍋、グラタン、ボロネーゼ。三種の味付けがなされたペンネは味はもちろん微妙に食感も違ってきている。ローテーションを変えればまた新鮮な気持ちで臨むことができた。
「それにしても、本当に美味しい野菜ですね」
良二の言葉を聞いた美紀ばあがニコリと破顔した。
「ありがとぉ。まだまだあるけん、たっぷり食べり」
その時、彼女の笑顔を見て――良二の顔が一瞬陰った。
かと思うと、彼はコトリと箸をおき、彼女の方に向きなおる。
「あの……美紀ばあさん。俺、あなたに謝らなくちゃいけないことがあるんです」
「なんね?」
「その……実は俺、美紀ばあさんが俺たちを歓迎していないんじゃないかって思っていたんです。今日、初めて一緒にご飯を食べたくらいですし、あまり顔を合わせることもなかったですから……でも、全部俺の想い違いだったんです。本当に、ごめんなさい」
ゆっくりと、深々と頭を下げる。それからしばしの静寂が辺りを支配し、ぐつぐつと鍋が煮立つ音だけが居間に響いた。
「……別に、気にせんでよかよ」
そんな優しい声が聞こえてきて、良二はハッと顔を上げた。その先にいる美紀ばあは穏やかな顔をしながら、ひらひらと手を振る。そこに敵意や悪意はこれっぽっちも見えない。それを受け、良二は肩の力をスッと抜いた。
「わたしの方こそ、ごめんねぇ。そんなに思わせとったなんて」
「そ、そんな! 全部俺の勘違いですから!」
「そうかしこまらんでよかよ。島におる間は何でも頼ってよかけんね」
美紀ばあは飄々とした調子を崩さない。どことなく浮世離れをした感じだ。彼女は麦茶でのどを潤してから、二の句を告げる。
「それに、礼を言いたいんはこっちよ。もう、息子や娘たちは中々帰ってこんでね。この広か家は華と二人で暮らすには狭かっちゃん。やけん、久しぶりに孫たちが帰ってきたみたいで嬉しかとよ。特に、でぃしでぃあちゃんね」
昔の人らしく、カタカナは苦手らしい。美紀ばあはたどたどしく言った後で、ディシディアの頭にポンと手を置いて優しく撫でた。
「少しの間やけど、ゆっくりしていき。わたしは二人を歓迎するけん……ね?」
「……ありがとう、ございます」
深々と頭を下げる良二――だが、その時彼の声が震えていることに気がついたのだろう。ディシディアは嘆息し、彼の背をトントンと優しく叩く。
「ほら、もう泣くな。この感激屋め」
良二は頭も上げず、答えもしない。ただただ嗚咽を押し殺すだけだ。そんな彼をディシディアを含める三人は微笑ましげに眺めている。
実質一番年下は彼なのだ。その若々しさを羨ましく思いながら、美紀ばあはほぅっと息を吐いた。