第百六十六話目~空弁と眠り姫
昼食を終えた二人は飛行機に乗り込んでいた。が、良二は例の如くガクガクと震えている。
彼は飛行機が大の苦手なのだ。まだ出発前だというのに怯えきっている。顔面蒼白で額には脂汗が浮かんでいるなど、なんとも真に迫っている。
「リョージ。大丈夫かい?」
ディシディアはなるべく優しく問いかけるが、良二は首を小さく振るだけだ。その目尻には涙が溜まっている。一応負担を軽くするべく通路側を譲ったのだが、それでもダメらしい。とことん飛行機が苦手なようだ。
「しょうがないね。ほら、これで大丈夫だろう?」
きゅ……っと優しく手を握る。普段は大きい手が今日ばかりは小さくて頼りなく思えた。ディシディアは彼を落ち着けるようにその手の甲にそっと指を這わせる。
「私がついているから、心配するな。ほら、深呼吸してごらん?」
たどたどしく、けれど次第に緩やかに深呼吸を繰り返す良二。少しずつだが呼吸も整ってきて、顔色もよくなってきた。これならばひとまずは安心だろう。
ディシディアは安堵の吐息を漏らすなり、良二の向こう――通路側を見やる。ちょうど客室乗務員たちが最後の確認をしているところだ。そろそろ出発が近いらしい。
「ふふ、早く機内食が食べたいね」
「……いや、国内線では機内食出ませんよ?」
「……え?」
ぽかん、時の抜けたような顔になってディシディアは首を傾げる。が、すぐに我に返り、ひらひらと手を振ってみせた。
「冗談だろう? 私をだまそうとしても……」
「冗談言える余裕ありませんよ、居れ」
確かにその通りだ。彼はもう虫の息で、気を失っていないのがもはや奇跡だと思えるほどだ。そんな状態で冗談が言えるとしたら、彼の評価を大幅に上書きする必要があるだろう。
ディシディアはしばし一人で頷いていたが、やがて事の重大さに気づきはじめたのか、ガタガタと震え始める。
――そう。彼女は昼食を抜いていたのだ。玲子と別れた余韻に浸りたかったという理由もあったが、何より機内食が出る前提で胃袋の調整を行っていたのだ。だから、空腹の状態でも我慢すればすぐに昼食にありつけると思っていたのだが……これは思わぬ誤算だったのだろう。
しかし、後悔してももう遅い。飛行機はゆるりとした挙動で動き出し、滑走路へと向かっていく。
ディシディアは慌ててシートベルトを締め、今にも失神してしまいそうな良二の手を握る。彼は目をギュッと瞑ってなるべく恐怖を減らそうとしていた。
そうこうしている間にも飛行機は徐々にスピードを上げていき、ある地点に達したところでゆっくりと浮きはじめた。それに伴って二人の体を浮遊感が襲う。内臓だけが浮かび上がって体が置き去りにされたような、そんな不快感に顔をしかめつつも窓の外を見て、ディシディアは感嘆のため息を漏らした。
眼下に広がるのは、一面の白い海。雲を突き抜けたところなのだろう。下から見ればどんよりとした鼠色の雲だったが、上から見ればこの上ないほど美しい白だ。
雲はどれもこれもわたあめのようにふわふわしていて、飛び乗ったらトランポリンのように跳ねるのではないかと思ってしまう。
自然と窓に手を張り付けていたディシディアは興奮気味に、良二の肩を叩く。
「ほら、リョージ。見てごらん。窓の外はとっても綺麗だよ」
「わかりました。わかりましたから手を離さないでください。ていうか、機体傾いてないですか? 墜落しませんよね? 大丈夫ですよね?」
超早口だ。よほど切羽詰っているらしく、窓の外を見る余裕は見当たらない。仕方がないので手を改めて握りつつ、ディシディアは大きなため息をついて頬杖をついた。
「それにしても、昼抜きは辛いな。福岡まで持つだろうか?」
「……やっぱり、買っておいて正解でしたね」
ポツリと呟きつつ、良二は足元のカバンを手繰り寄せ、その中からビニール袋を取り出してみせる。そこに入っていたのは――いわゆる空弁だ。
表面のパッケージにはデカデカと『石狩鮨弁当』と描かれている。蓋を開けてみれば、弁当箱は中心を仕切りで分けられており、左にはカニのほぐし身、右には酢でシメられた鮭が酢飯の上に乗せられている。
酢飯の仄かに甘酸っぱい匂いは空腹の胃を優しくくすぐる。
唖然とするディシディアに向かって、良二は息も絶え絶えに答えた。
「お昼抜いていたみたいなんで、おかしいなって思ったんです。念のため買っておいてよかったんですけど、勘が当たってよかったです」
「リョージ……あぁ、君は最高だ!」
勢い余ってハグだけじゃなく頬にキスも寄越す。この感動を伝えるにはそれくらいしなくては。
「さて、それでは早速いただきます」
顔を真っ赤にして狼狽する良二をよそに割り箸を割り、付属のおしぼりで手を拭う。別添えの醤油もあるが、それはまだ使わない。まずは一口目でどのような味であるかを確認しておかねば。
「むぅ……悩みどころだな」
二つの鮨の内で彼女が最初に選んだものは鮭の方だ。しっとりとした鮭の身を箸で切り、酢飯と共に一口分を放り込んだ。
「うん、中々イケるね。美味しい」
流石に生のままだとすぐに身が傷んでしまうからだろう。酢でシメられているので十分下味がついており、サッパリ風味の酢飯とは対照的にキリッとした味わい。その上、刺身よりもずっと味が引き締まっていた。
それを嚥下したなら、次はカニだ。こちらも何もつけずにいただく。
「おぉ、こっちも美味だ。甲乙つけがたいな……」
カニの身はちっともパサついておらず、むしろジューシーだ。噛み締める度に旨みが滲み出てくる。
「ほら、リョージ。美味しいよ。君も一口どうだい?」
しかし彼は首を振る。食欲がないのも無理はない。むしろ吐かないだけマシだ。
ただ、彼とこの喜びを共有できないことが残念だったのだろう。ディシディアは少しだけ残念そうに唇を尖らせたかと思うと、脇に寄せていた別添えの醤油をおもむろにとり、封を破いて弁当にかける。
ぷぅん、と甘味のある匂いが立ち上り、また食欲が再燃する。溢れてきた唾液を嚥下し、ディシディアは先ほどとは逆でカニの方から口にする。
「――ッ!」
醤油をかけた途端、味わいが深くなった。酢飯の酸味と醤油の甘みがいい方向に作用している。カニとの組み合わせも絶妙だ。
もちろん、鮭も同様。そのままでも十分美味いと感じたが、醤油があると雰囲気がガラッと変わる。幾分まろやかになり、けれど奥深さが増した。
(空弁か……機内食もいいが、こちらも捨てがたいな)
食べながらそんなことを考えてしまい、我ながら苦笑する。空港のロビーでチラリと見たが、空弁と一口に言っても色々と種類があるようだ。
機内食には何が運ばれてくるかわからない楽しみがあるが、空弁は選ぶ楽しさがある。自分のお気に入りを持って、好きな場所に行く。これも旅の醍醐味だ、と彼女は思っている。
(帰りは飛行機に乗る前に色々と探してみようかな?)
数が多い、ということはそれだけ未知の食材に出会える機会も多くなるはずだ。それに、弁当は概してご当地の特色を活かしたものが多い。とすれば、福岡の空港にはまだ自分の知らないものが眠っているはずだ。
パクパクと食べ進めながらそんなことを思う。
弁当はそこまで量は多くないものの、小腹を塞ぐには十分だ。福岡に到着すればまたそこで美味しいものを食べるだろうし、ちょうどいい。
あっという間に空弁を平らげてしまった彼女は満足げに息を吐き、厳かに手を合わせる。
「ご馳走様でした……ふぅ。美味しかった」
唇の周りをぺろりと舐めてみれば、微かに酢の味がした。彼女は微笑を浮かべたまま、空になった弁当箱をビニール袋に詰める。それからキチンと袋を縛り、座席の網ポケットに投入。そこでようやく、彼女は横にいる良二に視線を向けた。
「大丈夫かい? 何か飲み物は?」
「いえ、いりません……とりあえずこのまま手を握っていてもらえませんか?」
「ふふふ、お安い御用さ。ほら、目を瞑ってごらん? そうすれば、もう何も怖いことはないから」
ここ最近わかってきたことだが、良二は不安になると甘えてくる癖がある。インフルエンザに罹った時もそうだった。
が、以前アメリカに行ったときはここまで甘えてくることもなかった。たぶんあれは、まだ彼も彼女と距離を感じていたのだろう。
しかし、濃密な時間は二人の間に会った溝をいともたやすく埋めてくれた。今ではお互い『素』の部分を見せあうことが多くなってきている。肩ひじを張らなくていい、というのはとても貴重なことだ。
クスッと笑いながら彼の手を握ったところで、ディシディアは自分の瞼が落ちてきていることに気づく。
何かを食べた後というのは無性に眠たくなるものだ。ましてや、飛行機の心地よい揺れに身を任せている時ならなおさらだ。
次第に睡魔が押し寄せてきて、ディシディアは大きな欠伸を漏らして座席に体を預けた。すると、数秒もしない内に彼女の口からは安らかな寝息が漏れ、その細い体からは力が抜ける。
その違和感に気づいたのはもちろん隣に座る良二だ。彼は恐る恐る目を開け、なるべく窓の外を見ないようにしながら横にいるディシディアに語りかける。
「あ、あれ? ディ、ディシディアさん? もしかして、寝てます?」
返事はない。代わりに可愛らしい吐息が耳朶をくすぐった。
その後、良二は一人揺れる飛行機の恐怖に耐えることになるのだが、ぐっすりと寝ているディシディアにそれを知る余地はない。
結局良二は一睡もできないまま、福岡の地へと降りたつことになった。