第百六十五話目~旅と別れとホルモン丼~
皆様、お久しぶりです。KMIFです。ようやっと実家から帰って来れました。
と言うわけで、今日から更新再開です。本年もうちの子たち共々、よろしくお願いします
「そうか。今日出発だったんだ」
羽田空港へと向かう電車なお中で良二がそんな言葉を漏らす。彼の右隣にはディシディア、左隣には玲子が腰かけている。
玲子は耳にかかる髪の毛を手で払いながらコクリと頷いた。
「は、はい。連絡が遅くなって、申し訳ありません……」
「仕方ないよ。俺、最近一乗寺さんと会えてなかったしさ」
ほんの少し前まで彼はインフルエンザで床に伏せていた。学校でしか接点のない二人だ。それも仕方ないことである。
幸運だったのはディシディアと玲子が友人であったことだ。ディシディアはあらかじめこの情報を入手しており、それならばと自分たちの出発日を彼女の出発日と合わせたのだ。
ディシディアは行き場のない足をぷらぷらとさせながらほぅっとため息をつき、窓の外に目をやった。
「それにしても、寂しくなるね。レーコと会えなくなるのは。たまには手紙を送ってくれよ?」
「えぇ、もちろんですよ。ディシディアちゃん。あ、そうそう。パン屋の店長さんが『またおいで』って言ってましたよ」
「むぅ……嬉しい限りだが、レーコがいないとね。パン屋に行く楽しみが減ってしまうよ」
その言葉に嘘はない。ディシディアは彼女と話せることをとても楽しみにしていた。
玲子本人は気づいていないかもしれないが、その丁寧な対応には好感が持てたし、彼女がオススメしてくれたパンはどれも美味しかった。それに雑談の中で楽しみを見つけていたのもまた事実。
彼女が辞めた後、個人的に行ってはみたものの、やはり少し物足りなく思えてしまったのだ。
玲子の方もディシディアが来るのを楽しみにしていた。最初は距離を感じていたものの次第に年の離れた友人、あるいは妹のようにも思えてきたほどだ。
それに自分の目のことを知ってもディシディアは変わらず接してくれた。それがどれだけ嬉しかったかは言葉にできない。
かつて身体的特徴を理由にからかわれていた身としてはカミングアウトするのは大変勇気がいる行為だ。脳内では最悪の予想ばかりが渦巻き、自然と動悸は激しくなる。
もちろん、ディシディアのことは信頼していた。けれど、だからと言ってそう割り切れるわけではない。かつて信頼していた友人に打ち明けたこともあったが、後に裏切られた時は足元が崩れ落ちていくような錯覚を覚えたほどだ。
だから、それでもディシディアが受け入れてくれた時には安堵と共に感謝の念を抱いた。そして、慈しみも。思えば、腹を割って話した時から距離が縮まっていったかもしれない。
玲子は思い出を想起するように目を瞑ったかと思うと細い息を吐いてふくよかな胸を撫で下ろした。
もう目的地は間近。自分は国際線。ディシディアたちは国内線。つまり、自分は先に降りて彼女たちと別れることになる。
――だから、今のうちに言っておかねばならない。ちゃんと帰ってこれる保証はないのだ。
玲子は数度深呼吸を繰り返し、二人へ視線を……。
「ところで、リョージ。今さらだが、忘れ物はないだろうね?」
向けたところ、ちょうどディシディアが良二に話題を振っているところだった。若干拍子抜けした様子で、玲子は苦笑する。
良二は一瞬だけ不安げな顔をしたものの、指を折り曲げる仕草をした後大きく頷いた。
「はい、大丈夫なはずですよ。ちゃんと確認しましたし」
「そうか。いや、旅に出るとどうしても不安になってね。最悪あちらで買えばいいとは思っているのだが……レーコはどうだい? 何か忘れ物はないかな?」
「え? あ、はい! だ、大丈夫……だと思います」
突如話題を振られ、慌てふためきながら自前のハンドバックの中を漁る。化粧道具も財布も学校に提出する書類もある。それにパスポートだって……。
「……あ、あれ? あれ? おかしいな、あれ……?」
全身から血の気が抜けていく感覚。ない。パスポートがないのだ。バッグの底にもない。書類を挟むクリアファイルの中にもない。キャリーバッグの中には入れていないはずだ。すぐに必要なものはここに詰めたはずなのに、ない。
(ど、どうして? 朝ちゃんと入れたはずなのに……)
そう。入れた『はず』なのだ。最後の確認を怠ってしまった後悔よりも先に、恐ろしさがやってくる。
慌てて腕時計を見る。出発まであと一時間。家まで戻るのに一時間。どれだけ急いだとしても、間に合うわけがない。
口内がカラカラに渇く。なのに、背中にはじっとりと嫌な汗が浮かんでくる。胃がむかむかとしてきて、先ほどまで心地よかった電車の揺れが不快に思えてくる。一瞬でも気を抜けば、胃の中のものをぶちまけてしまいそうだ。
「あれ? おかしい……た、確かに入れたのに……」
「れ、レーコ! 落ち着け! 大丈夫だから!」
隣からディシディアの大きな声が聞こえてきてハッとする。彼女の大きなエメラルドグリーンの瞳にはボロボロと涙を流す自分の姿が映り込んでいた。
――情けない。泣いて取り乱してしまうなんて。
玲子は頬をひきつらせながら、無理矢理笑みを取り繕う。が、それは見ていて痛々しいだけだ。ディシディアたちはますます不安げに彼女を見つめる。
『次は、国際線ターミナル。国際線ターミナルです……』
無情にもそんなアナウンスが響く。もう駄目だ。せっかく掴んだ留学のチャンスを自ら不意にしてしまった。それも、単なる不注意で。
どうしようもなく悔しくてぎゅぅ……と唇を噛み締めると、なんとか堪えていたはずの涙がこぼれた。必死に押しとどめようとしても、次から次に溢れてきてキリがない。
「……レーコ」
その時だ。優しい声がかけられると同時、自分の頬に細い指が触れたのは。俯いていた顔を上げれば、そこにはディシディアの姿。彼女は決意を込めた瞳でこちらを見つめている。
「泣くな。私が何とかする」
「ど、どうやって、ですか? もう家に戻ることなんて……」
「リョージ。構わないだろう?」
「えぇ、やっちゃってください」
二人は言葉少なに語り合う。傍観者である玲子には何が何だかわからない。が、彼の同意を得たディシディアはキッと眉を吊り上げ、電車のドアが開かれるなり玲子の手を取って外へと駆けだしていく。その後ろから良二が三人分のキャリーケースを持ってオウも、やはり動きは遅くグイグイ離されてしまう。
一方、玲子は放心状態のままディシディアに連れられて女子トイレの一室に押しこめられた。ディシディアは唖然とする彼女の手を握り、力強い言葉を紡ぐ。
「レーコ。目を閉じてくれ。そして、そのパスポートがどのようなものだったのかを思い出すんだ」
「で、でも……」
「いいから。信じてくれ」
グッと言葉に詰まる。ディシディアの目は真剣そのものだった。
どうせこうしていても家までは戻れないのだ。なら、彼女に言われるまま脳内でパスポートの姿形を思い浮かべる。
黒くて、薄い手帳のような形をしていて、表には綺麗な文字が描かれていて……。
おぼろげだが、だいぶ形が定まってきた。それを見計らったかのようにディシディアが口を開く。
「《さぁ、おいでませ。汝を求める童が元へ。物は主人なくして生きてはいられない……》」
彼女が言霊を発した直後、手の甲に焼けるような熱さを覚えて玲子は目を開けた。そこで目に映ったのは緋色の魔方陣のようなものが浮かび上がった自分の手の甲と、その上にぷかぷかと浮かんでいるパスポートの姿。
あまりに現実離れした光景に声を発することもできない。しかしディシディアは素早くパスポートを掠め取り、玲子の手にそっと握らせる。
「ほら、これだろう? もう忘れてはダメだよ」
「ディ、ディシディアちゃん? 今のは……何?」
むぅ、と口を尖らせるディシディア。一瞬マズイことを聞いてしまったかと思ったが、数拍置いて彼女は口を開く。
「信じてもらえないかもしれないが、今のは魔法だ。別に、騙すつもりはなかったんだ。時期が来たら話す予定だったが……私は人ではない。別の世界から来た存在だ」
いつもなら子どもの言うこと、と笑って流せただろう。だが、見てしまった。魔法が存在するところを。
玲子はしばし瞑目し、小さく首肯する。
「……信じますよ。だって、こんなことができるとしたら、魔法だけですから」
「ありがとう。できれば、このことは公言しないでもらいたいのだが……」
「わかってますよ。だって、私を信頼していたからこうやって見せてくれたんですよね? なら、私もその信頼にちゃんと応えます。それに……ディシディアちゃんは私の恩人ですから」
ディシディアはわずかに驚いたように目を見開き、しかし次の瞬間には安堵の表情を浮かべて「ありがとう」と小声で呟く。
「さて、リョージを待たせては悪い。早く出よう」
「そ、そうですね。行きましょう」
「その前に、レーコは目を洗いなさい。旅立ちの日に涙は似合わないよ」
前々から妙に大人びている、とは思っていたがさっきの魔法を見て少し腑に落ちた。きっと彼女は自分よりもずっと年上なのだろう。
玲子は先ほど貰ったばかりのパスポートをギュッと握りしめ、今度はちゃんとバッグに入れる。そうして言われるまま目を洗い、充血が引いた辺りで女子トイレを後にした。
「大丈夫でしたか、二人とも」
「あぁ、バッチリだ」
トイレ付近で待ってくれていた良二がホッと胸を撫で下ろす。玲子は彼にも一礼し、その傍にあるキャリーケースを受け取った。
後は出発するだけ。改札を潜れば、彼女たちとはしばらく会えなくなってしまう。
だから、言わなければ。さっきは言えなかったから、今度はちゃんと言おう。
玲子はごくりと喉を鳴らし、二人に向きなおって頭を下げる。
「い、飯塚先輩。それと、ディシディアちゃん。本当にありがとうございました!」
普段は絶対に聞くことができない彼女の大声にディシディアたちは目を瞬かせる。
けれど、玲子は構わずに続けた。
「私、お二人に出会えて本当によかったです。その……口下手なので、なんていえばいいのかわからないんですけど……私はお二人のことが大好きです!」
胸につかえていた何かがスゥッと溶けていく。目の前がクリアーになって、世界が一瞬止まる。
眼前の良二たちは彼女の言葉を聞き、嬉しそうに破顔した。それを見た玲子も自然と笑う。
「レーコ。私もだよ。君のことが大好きだ。だから、ちゃんと帰っておいで。その時はまた飽きるほどお話をしよう。もっともっと君のことを知りたいし、私のことも知ってもらいたいから」
「そうだよ、一乗寺さん。正直、俺たちってあまり話す機会なかったけどさ。だから、帰ってきてからいっぱい話そうよ。それまで離せなかった分が埋められるように……ね?」
返されたのは温かい言葉だ。彼女たちも自分と同じ思いを抱いてくれていた。これだけで自分は生きていける。
玲子は嬉しさを噛み締めるように両手を組み合わせる。意図せず胸の内から熱いものがこみ上げてきて目頭が熱くなるが、そこでディシディアが自分の手をギュッと握ってきた。
「ほら、泣くな。可愛い顔が台無しじゃないか」
「あり、がとう、ございます……」
言葉は途切れてしまった。が、彼女は目元をゴシゴシと手で拭って、唇を三日月形に歪める
そして、目元までかかっている前髪を手で払い、太陽すら霞んで見えるほど眩しい笑顔を浮かべ、
「二人とも……お元気で。行ってきます」
大きく一礼して去っていく。その後ろ姿はかつての猫背気味で自信なさ気な少女のものではない。
ひとつ成長し、前へと進んでいくものの姿だ。彼女が改札を潜り、その姿が見えなくなった辺りで、良二はディシディアへと視線を移す。
「きっとまた会えますよ。一乗寺さんなら向こうでもちゃんとやれますから」
「あぁ、そうだな」
目尻に浮かぶ光の粒を拭い、ディシディアたちはまた電車に飛び乗る。向かうは次の駅――国内線ターミナルだ。
走行距離はそこまででもない。あっという間に到着した二人は改札を抜け、乗り場へと向かう。
その途中でいくつかの食べ物屋を目にした良二はそれらを指さしながら問いかける。
「何か食べますか? お腹空いたでしょう?」
「……いや、いい。大丈夫だ」
今は余韻に浸りたいのだろう。なら、無理強いすることはない。良二は頷き、手荷物預かり所へと直行。やはり人は多くその場はごった返していたが回転率自体はそう悪くない。
前の人が捌けるとすぐに前に出て専用の機会にキャリーケースを入れる。一度に二つはできないので、彼女の分と自分ので二分割だ。
手間も時間もそこまでかからず、数分ほどで作業は終了。チラリと時計を見れば、もう午後の一時だ。出発は賛辞なのでまだ時間はある。なら、昼食を取っておいた方がいい。
「ディシディアさん。俺は飯に行きますけど、どうします?」
「同行するよ。独りでは心細いしね」
玲子と別れてからどうも調子がおかしい。ひょっとしたら彼女なりに思うところがあったのかもしれないが、その横顔からは何も読み取れない。
しかしこうしている間にも時間は過ぎていくので、結局良二たちは三階にある料理屋へと向かった。
そこは他の店よりも比較的すいているものの、料理自体はかなり美味そうだった。けれど、ディシディアはそれらに何の反応も示さない。
良二はしばらくメニュー表とにらめっこをした後で近くにいた店員を呼びとめた。
「すいません。ホルモン丼一つ。ディシディアさんはどうします?」
「いや、私はいい。だが、温かいお茶をもらえるかな?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員が去っていった後で、良二は心配そうにディシディアに問いかける。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、すまないね。いや、いつになっても見送る立場には慣れないものだ」
彼女は照れ臭そうに言った。旅好きの彼女のことだ。自分はいつも見送られる立場なので、こういう時はどうすればいいのかわからないのだろう。
見送る側、と言うのは案外酷なものである。不安に苛まれ、喪失感にも襲われてしまう。その辛さは良二もよく知っているが、彼はコップをクイッと傾けて水を煽り、おどけたように肩をすくめた。
「心配いりませんよ。一乗寺さんはしっかりしていますし、聞けば他にもたくさん留学生がいるそうじゃないですか」
「それはそうだが……」
「何より、一乗寺さんは俺の後輩で、ディシディアさんの友人ですよ? 不安要素なんかありませんって」
――友人。その言葉を聞いて、ディシディアの表情がわずかに軟化した。
「そう、だね。彼女は私を信じてくれた。なら、私も彼女を信じよう」
「えぇ、それが一番です。きっと一乗寺さんもそう思ってますよ」
彼の気遣いがありがたい。やはり彼は自分によって必要不可欠な存在だ。
顔の火照りを押さえるべくお冷を飲んだところで、先ほどの店員が大きめのトレイを持ってやってきた。
「お待たせしました。ホルモン丼です」
差し出されたのは味噌だれで炒められたホルモンがどっさりとご飯の上に乗っている丼だった。かなりボリューミーで香りもいい。
ディシディアの方にも温かいお茶が寄越されたところで、良二は手を合わせる。
「じゃあ、お先に頂きます」
空腹時にはスープを飲むのが昔からの習慣だ。陶器製のお椀を持ち、ゆっくりと傾ける。
全体的にあっさりしているが出汁がよく効いていて胃袋にガツンと響いてくる。中に入っている具材は――牛タンだろうか?
じっくりと煮込まれてトロッとしており、口に入れるとほろりと溶ける。上に乗っている白髪ネギも食感、後味共に文句なしだ。
次に箸をつけたのはもちろんメインであるホルモン丼。ホルモンは臭みがある部位でもあるが、味噌だれによって力強い味わいへと変化している。
ご飯との相性は言うまでもない。部位によって歯ごたえの違うモツはご飯にとって最良のパートナーだ。
良二は口の中のものを嚥下したのち、ディシディアの方へとスープを差し出す。
「とりあえず、何か口にしておいた方がいいですよ。ほら、美味しいですから、どうぞ」
邪気のない笑みで言われては断れない。ディシディアはスープの器を持ち上げ、ゆっくりと煽る。
――何ともホッとする味だ。大きなため息をついたディシディアはふと天井を見上げ、
「……うん。私もクヨクヨしていてはダメだね。君の言う通り、彼女なら大丈夫だ」
「えぇ、そうですよ」
「まぁ『君の後輩』という点が心配だけどね」
「それ、ひどくないですか?」
とは言うものの、ショックを受けているようには思えない。ディシディアはわざとらしく首を傾げ、イタズラっぽい笑みを浮かべてからもう一度スープを煽った。
今日は帰省中に溜まっていたものを片付けなければいけないので厳しいかもですが、明日以降は溜めていたプロットを書きおこして一日に何話か投稿しようと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします