第百六十四話目~出発の朝と闖入者~
目覚めると、台所に立つディシディアの姿が映った。その横顔はとても優しげで、昨日の夜見せた妖しげな笑みは浮かんでいない。一瞬だけ身震いしてから、良二はのそのそと布団から抜け出て彼女の元へと歩み寄った。
「おはようございます、ディシディアさん」
「やぁ、おはよう。昨日はよく眠れたかい?」
彼女はもう昨日のことはすっかり割り切っているらしい。流石は大人だ。いつまでも過去のことを引きずるほど狭量ではないのだ。
良二は自分の体を抱くようにしながら、苦笑する。
「えぇ、まぁ……よく眠れましたよ」
「それはよかった。もうそろそろご飯ができるからね。用意をしておいてくれ」
言われるがまま居間へと戻り、自分の布団を脇に寄せて卓袱台を出して布巾でテーブルを拭う。ピカピカになったところで今度は食器棚に歩み寄り、コップと箸を出してまた戻る。
「よし、と」
ほぼ同時、ディシディアもおにぎりを握り終えたようだった。彼女は満足げに唸って手を洗ってから、今度は味噌汁をお椀に注ぐ。いりこの効いた出汁の香りがぷ~んと漂ってきて、否応なく食欲を引き出してくれた。
「いい匂いですね。今日は何のお味噌汁ですか?」
「シンプルにお麩とわかめだよ。あいにく、あまり材料がなかったからね。ほら、召し上がれ」
トレイを持ってきた彼女はパチッと可愛らしいウインクを寄越してみせる。良二はやや赤面しながら自分の席に腰掛け、彼女から一旦麦茶で喉を潤してから手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ。では、私も……いただきます」
空腹時にはまず味噌汁を啜る。白味噌のコクのある旨みがじんわりと体の中に染みわたっていくようだ。味噌汁の味は出汁によって決まると言っても過言ではない。この味噌汁はその点で言えば完璧に近い。十分出汁が取られているのでふくよかな香りが感じられるのだ。
この出汁だからこそ、中に入っているお麩が活きる。噛むとじゅわっとうまみ成分が溢れだし、得も言われぬ感覚を覚えた。わかめもシャッキリとしていて歯ごたえがよく、お麩との対比が見事だと思える。
喜色満面、という言葉が一番似合う良二に向かって、ディシディアは尋ねる。
「美味しいかい?」
「えぇ、とても美味しいですよ」
「そうか。では、おにぎりも食べてみてくれ」
チラ、と眼下のおにぎりを見る。以前は形もぐちゃぐちゃで歪なものだったが、今回は綺麗な三角形。おそらく自分が学校に行っている間などにも自分で練習していたのだろう。一朝一夕でこの形にはならないはずだ。
海苔だけが巻かれているシンプルなおにぎりを掴む。握る時の力加減が絶妙だったのか、崩れることはない。ますます膨れ上がる期待を胸に良二が大きな口でおにぎりにかぶりついた――直後だった。
全身がブルッと震えるほどの強烈な酸味が舌を貫いた。塩味の効いたおにぎりの中でそれはとてつもない存在感を放つ。
「か……カフッ!」
むせながら麦茶を煽る。一瞬だけ酸味が強くなったように思えるがすぐに柔らかな味わいとなって喉を下っていく。良二は目尻に涙を浮かべながら麦茶を飲みほした。
「ふ……ハハッ! 酸っぱかったのかい?」
眼前のディシディアは心底おかしそうにカラカラと笑っている。どうやら、飛び切り酸味が強い梅干しをおにぎりの中に入れていたらしい。白米の中で不気味なほどに赤く輝く梅干を見ているだけで口内に唾が溢れてしまった。
ディシディアは目尻に浮かんだ涙を指の腹で拭いながら、含み笑いをする。
「ふふ、昨日も思ったが、君は中々に面白い反応をしてくれるね。ついつい意地悪をしたくなってしまうよ……」
「ひ、ひどいですよ、ディシディアさん……」
まぁ、元はといえば自分が彼女の忠告を聞かなかったせいでこうなってしまったのだ。反論しようにも、そこまで強く言えないのが悔しいところである。
「それに君だって私に意地悪する時があるじゃないか。お互い様だよ」
ぷいっとそっぽを向いてしまうディシディア。確かに、良二もそれには心当たりがある。
彼女の色んな表情が見たいと思うとついつい色々と意地悪をしたくなる時もあるのだ。でもそれは間違いなく彼女が好きだからである。それはディシディアも同じだ。決して相手が憎くて意地悪をしているわけではない。
この梅干しによるサプライズも考えてみれば可愛らしい悪戯だ。良二は口を窄めながらおにぎりを食べ進めていき、それを見ていたディシディアも笑いながら自分のおにぎりを食べ、その端正な顔をちょっぴり歪めてみせる。
「うぅ……やはり酸っぱいな」
「自爆してるじゃないですか!」
どうやら彼女の方にも同様に酸っぱい梅干しが入っていたらしい。一応選別はしたようだが、そうは簡単にいかないものだ。彼女はべ~っと小さいピンク色の舌を突き出し、顔をしかめる。
「ほら、麦茶ですよ」
「ありがとう……やはり仕返しなど考えるものじゃないね」
「別に、これくらいの可愛い仕返しなら俺は大歓迎ですよ」
「ほほぅ」
その時、彼女のエメラルドグリーンの瞳が妖しい光を宿した。と思った時にはすでに手遅れ。彼女は麦茶をグイッと飲み干すなり、手をわきわき動かし始める。それを見た瞬間昨日の悪夢がよみがえり、良二は慌てて手を振った。
「ま、待ってください! それだけは……」
「おや、これも可愛い悪戯の範疇だろう? さぁ、また昨日みたいに可愛い声を聞かせておくれ」
「い、いや、ほら! 今日は出発の日ですし! あまりはしゃぐと……」
何とかして離れようと後ずさるも、後ろは壁だ。もはや逃げ場はなし。良二は悪そうな笑みを浮かべる彼女に対し、イヤイヤ、と首を振る。
しかし、それはかえって彼女の嗜虐心を煽るものに過ぎない。ディシディアはごくりと喉を鳴らし、口元をニィッと吊り上げる。
その数秒後、ディシディアの苛烈な責めが開始される。ただ、それでもやや控えめな方だ。出発を控えているため、ややセーブしているらしい。
数分ほどの責めを終えた後、良二は乱れた衣服を直しながらすすり泣く。
「うぅ……もうお婿に行けませんよ」
「心配するな。私がもらってあげるよ」
サラリととんでもないことを言われたような気がしたが、疲れた頭では冷静な思考をすることもできない。彼はふらふらと卓袱台のところへと戻り、すっかり冷めきった味噌汁を啜った――その時だ。
ピンポーンッというチャイムの鳴る音が耳朶を打ったのは。
それに首を傾げたのは良二。ようやくか、と言わんばかりに口元を緩ませたのはディシディアだ。彼女は食べかけのおにぎりを置いて、パタパタと玄関へと向かう。
「誰です?」
「すぐにわかるよ」
そう言って勢いよく扉を開け放つディシディア。するとその先にいたのは――
「一乗寺……さん?」
「お、お久しぶりです。飯塚先輩」
そう。その先にいたのは彼の一年下の後輩で、ディシディアの友人である一乗寺玲子だった。彼女は厚手のセーターに身を包んだ状態で律儀に頭を下げてくる。
そんな彼女の脇には、自分たちが持っているようなものより二回りほど大きいキャリーバッグが置いてあった。
さて、今日から長崎へ帰省します。が、あいにく今回は親戚まわりなどやることが多く、執筆が難しい状況になってしまいました。パソコンは持っていけないのでスマホを使って執筆はするつもりですが、投稿は厳しいかもしれません。いつも読んでくださっている方々、申し訳ありません。帰ってきたらまた投稿する予定なので、それまで気長にお待ちくださいませ