第百六十三話目~くすぐり責めと釜揚げうどん~
翌日、二人は大掃除兼明日の準備で朝から大忙しだった。クリスマスパーティーの疲れもまだ取れていないというのに、重い荷物を持ち上げたり大量のごみを捨てに行くのは難儀なものだった。
が、もともと良二の家には物がなかったため、案外あっさりと終った。そのため、午後は明日の準備だけに集中できたのである。
こちらは中々難航したものの、ようやく終わりを迎える頃合い。ディシディアは手元にあるメモと睨めっこをしながら最後の指さし確認をして、満足げに微笑んだ。
「よし、完璧だ。今すぐにでも行けるよ」
「お疲れ様です。すぐにご飯作りますからね」
すでに時刻は夜の八時を回っている。普段の二人からすればずいぶんと遅い夕食だ。作業が終わった途端空腹感と疲れがどっと沸いてきて体から力が抜ける中、良二は冷蔵庫へと向かう。
旅行に行くことが決定していたため、なるべく保存が効く食材しか残していない。その中でまともそうなのは――うどんだ。
「よし」
サッとうどんを取り出し、台所へと向かう。今回はかなり手抜きをするつもりだが、非難されることはないだろう。すでに空腹感が限界に達しているらしきディシディアは生気のない顔で卓袱台を拭いているのだから。
(にしても、明日は飛行機かぁ……)
生めんタイプのうどんを湯の中にぶち込みながら、がっくりと肩を落とす。彼は飛行機が大の苦手なのだ。
地面に足がついていないとどうにも安心感がない。隣にディシディアがいてくれるだけマシだが、一人なら絶対に遠慮したいところだ。
というか、彼女がいなければ旅行に行こうなどとは思わなかっただろう。そういった意味でも、彼女の存在意義は大きい。
チラ、と居間を見やる。すでに卓袱台を拭き終ったディシディアは出したコップに早速麦茶を注いで喉の渇きを潤していた。冷静に考えれば、白髪のエルフがこたつに入って麦茶を飲んでいる光景はかなりカオスだ。
が、それに慣れつつあることを自覚して口の端を歪める。彼女と出会ってもう半年にもなるが、感覚的には数年間一緒に過ごしたような密度だった。それだけ彼女との生活が楽しかった、ということである。
こんな感覚はどれくらいぶりだろうか? 祖父母たちも優しかったが、ディシディアといる時のような高揚感はなかった。
たぶん、彼女自身が好奇心旺盛な方だからだろう。自分の前をどんどん歩いていくから、自然とその後を追い、隣に並ぼうとするのだ。
(いつか、追いつけるかな?)
彼女は数百歳。自分はまだ二十代。どう考えても年季が違いすぎる。だが、それでも思いは変わらない。彼女の隣に立って共に笑うことこそが、彼の望みだ。
いつからだろうか? 彼女の笑顔に惹かれるようになったのは?
あの甘美な感覚を得るためならば、自分は何だってしよう。
そんなことを思いながら鍋を撹拌する。うどんはだんだん煮えてきて、いい茹で具合になってきた。念のため一本だけ取り、ちゅるっと啜って確認。今がベストなタイミングだ。
手早くコンロのスイッチを切り、鍋つかみを装着。彼はそのまま鍋を持って居間の方へと向かった。
「ディシディアさん。新聞紙お願いします」
「ん、わかった」
言うが早いか、彼女は卓袱台の中央に新聞紙を置いてみせる。彼は中身をこぼさないよう細心の注意を払いながら鍋を新聞紙の上に置いた。
「完成です。今日は釜揚げうどんですよ」
「おぉ! いいね。昨日はお酒を結構飲んだから、胃に優しいものが食べたかったんだ」
「ですね……俺なんか、記憶がありませんもん」
飲み過ぎたのは事実だが、記憶がないのはディシディアのせいでもある。彼女がかけた魔法によって、彼は昨夜の記憶をほぼ失っているのだ。
楽しかったというあいまいな感想しか浮かばない自分の脳に辟易したようにフンッと鼻を鳴らし、良二は取り皿に麺つゆを注ぐ。釜揚げの場合茹で汁も中に入って薄まるのでやや濃いめの味付けにした。後はネギやワサビなどお好みの薬味を添えて完成。
『いただきます』
二人は手を合わせ、鍋からうどんを掬う。釜揚げうどんで一番いい点は何よりも手軽なところだ。別の丼に移す必要もないし、このまま直で食べる楽しみもある。
しかも今の季節は冬。しかも、こたつに入りながらときている。これはおそらく最強のコンボだろう。体の内と外からポカポカと温められていくのだ。
「うん、酒盛りの後にはうってつけだね。優しい味だ」
ディシディアの取り皿にはたっぷりのネギと生姜が浮かんでいる。ネギのシャキシャキとした食感と生姜の清涼感のある味わいがスゥッと体の中に染みこんでくるようである。
うどんもいい具合で、柔らかすぎず固すぎない。喉越しもよく、驚くほどするっと食べられる。
「たまにはこういう手抜きもいいですよね? 今日は色々と大変でしたし、明日も早いですから」
「だね。これなら洗い物も少なくて済むから」
何だか見透かされているような気がして、良二は肩を竦める。実際、洗い物が多いと手間なのだ。彼女も手伝ってくれるが、それでも負担は減らしたい。冬の洗い物は拷問だ。たぶん三時間もやりつづければ並のスパイは情報を漏らすだろう。
なんてアホなことを想起しつつうどんを啜っていく。今回は残り物を作らないという気持ちでやや多めに茹でたが、ちょうどよかったようだ。もしかしたら疲れすぎて食べられないかと思ったが、それは杞憂であった。
「この料理はアレンジが効きそうだね。いつか色々やってみないかい?」
「いいですよ。ていうか、今度はちゃんとした鍋を食べましょうよ。シメにはうどんを入れたり、ご飯を入れたり……」
「ふふ、食べているそばから食べ物の話かい? 食い意地が張っているね」
「ディシディアさんには言われたくないです」
ちょっと悔しかったので、わざとらしくそっぽを向く。横目で彼女を見れば、自分の仕草を気に入ってくれたらしい。口元に手を当ててコロコロと可愛らしく笑っている。
それを見ているだけで愛しさがこみ上げてきた。それを今すぐにでも伝えたいが、やはり恥ずかしい。喉元まで浮かんで来た言葉をうどんと共に飲み下し、良二はふと部屋の隅にあるキャリーバッグを見据えた。
「旅行、楽しみですね」
「あぁ。楽しみだ。どんなものが食べられるだろうね? どんなものを見れるかな?」
彼女は目をキラキラ輝かせている。もう待ちきれないのか、耳がぴょこぴょこと忙しなく動いていた。その動きの激しさたるや、ともすればどこぞの象の如く空でも飛べるのではないかと思ってしまったほどだ。
(……てか、今さらだけどディシディアさんの耳ってどうなっているんだろう?)
人間でも耳を動かせる人たちは存在する。だが、彼女のは少々異質なように感じた。
近いものとしては――犬や猫の尻尾。嬉しい時はピコピコ揺れるし、悲しい時はしゅんと垂れる。だから、ポーカーフェイスを装っている時でも耳を見ればいまどのような精神状態であるのかが大体はわかるのだ。
ただ、本人もある程度は自制できるらしい。その枷が外れるのは華の上が大きく揺れ動いた時だ。この点もやはり、尻尾に似ている。
気づけば良二の手は彼女の耳へと――
「あいたっ!?」
伸びかけていたが、その手は彼女によってパシッと払われる。ジンジンと痛む手の甲を撫でながら彼女を見れば、
「ディ、ディシディアさん?」
「リョージ。ちょっと正座しなさい」
全身から怒りのオーラを滲ませている様子が見てとれた。顔には笑顔が浮かんでいるが、目が全く笑っていない。その静かな迫力に、良二はゴクリと息を飲む。
「リョージ。聞こえないのかい? 正座」
静かだが、有無を言わさぬ口調だった。良二は小さく震えながらこたつを抜け出し、彼女の隣に正座する。と、ディシディアもこちらに向かい合ってきて、諭すような口調で語りかけてきた。
「いいかい、リョージ。私の体を触るのは許そう。だが、耳だけはダメだ」
「えと……どうして?」
「どうしても、だ」
相変わらず強い口調だ。が、核心には触れてこない。正直ツッコミを入れたい気持ちでいっぱいだったが、追求すればキツイお仕置きが待っているだろう。だから、ここは黙っておくことにする。
「……すいません、以後気をつけます」
「よろしい。次から気をつけなさい」
それだけ言って彼女は自分に背を向ける。
その時だ。心の奥からふつふつと、異常なまでの好奇心といたずら心が湧き上がってきたのは。
猫は好奇心で殺される、というが人間も同じことだ。抗う術を持たない彼はとうとう彼女の右耳を指で――
「きゃんっ!?」
摘まんだ直後、今まで聞いたことがないくらい可愛らしい声がディシディアの口から漏れた。それに意表を突かれたのも束の間、良二は恐ろしいものを目にする。
「ヒ……ッ!」
「……リョージ。昨日の酔いがまだ残っているのかな?」
そこにいたのは小さな般若。にこにこと笑いながら、けれども強大な怒りのオーラを放ち続けている。曖昧だが、これが『殺気』と呼ばれる類のものだということはわかった。
――彼女は旅の中で数多の修羅場を潜り抜けてきた。命のやり取りをする場面に遭遇したのも一度や二度じゃない。その極限状態で身に着けたのが、気迫で相手を気圧す術だ。並大抵の魔物や盗賊なら、この段階で戦意を喪失してしまう。良二も例外ではない。普段は絶対に見ることができない彼女の様相に驚きつつ、逃げることすらできないでいる。
だからディシディアは依然として穏やかな表情の仮面を張り付けたまま、彼の体を押す。と、驚くほど簡単に彼の体は仰向けにさせられた。薄汚れた天井が視界に映ったかと思うと、次の瞬間にはディシディアの理知的な顔が見える。
彼女の鮮やかなピンク色の唇が動き、底冷えするような声を漏らす。
「さて、リョージ。本来ならこんなことはやりたくないが……ちょっと、お仕置きが必要みたいだね?」
「あ、あの、何をするんですか?」
「今からやるから、聞く必要はないよ」
「え、あ、あぁあああああっ!」
彼女の細い指が全身を撫でまわす、腋、首筋、わき腹など、くすぐったいところを重点的に。
くすぐりというのは拷問術としても用いられる。特に彼女は諸国を遍歴している際、自称『アルテラ一のくすぐり師』と言う女性に会ったことがあり、その技術の一端を盗んでいたのだ。
オリジナルにははるかに劣るものの、くすぐりという技は彼女の細い指でこそ活きる。緩急と強弱をつけながらのくすぐりは恐ろしいまでの破壊力で、込み上げてくる笑いを一秒たりとも堪えることができない。
先ほどの気迫によってすっかり腰を抜かしてしまった良二は身を捩ることしかできず、されるがままになっている。そんな彼を見て奥に眠る嗜虐心を煽られたのかはわからないが、ディシディアは妖艶な笑みを浮かべながらくすぐりを続けていく。
――この数十分後。居間には衣服を乱れさせてすすり泣く良二とすっかり伸びきった麺を啜るディシディアの姿があった。