第百五十八話目~迷い道とネパールバーガー~
平日の昼間。今日は見事な快晴だったが、昨日の雨がたたったのだろう。地面には水たまりがまばらにできており、当然ながら非常にぬかるんでいて足場は悪い。しかし、ブーツに跳ねる泥に目をくれることもなく、ディシディアは隣に並ぶ良二の顔を見上げた。
彼はとても晴れやかな顔をしているが、その理由は単純。今日で大学が一区切りを終えたからだ。残すは年明けの一月からの授業のみ。といってもそれらは数えるほどしかなく、すぐにテストに入りその後は春休みになるため実質もう休みの様なものだ。
「そういえば、チケットは取れたんですよね?」
「あぁ。行きは飛行機と船であちらに向かうよ。福岡空港に降り立って、その後は博多にある港に直行さ」
「飛行機……」
サァッと良二の顔が青くなる。台の飛行機嫌いである彼にとって、その先刻はまさしく死刑宣告と同義。一応隣にディシディアがいてくれるので安心感はあるが、だからといって苦手な者が突然好きになるはずもなく、条件反射的に彼の足はガクガクと震えていた。
「そう怖がるな。アメリカに比べればすぐじゃないか」
「そ、それはそうですが……」
福岡までの所要時間はおよそ二時間弱。アメリカに行ったときはこの倍以上あったのだから、少なく思えるかもしれない。が、苦手な者に乗るというのは例え時間がどれだけ短くても嫌なものだ。良二は盛大なため息をつき、がっくりと肩を落とす。
「はぁ……いっそ、魔法でピューンッと行けないものですかね?」
「できないことはないが、それでは情緒がないだろう? 魔法にばかり頼っていてはダメな大人になってしまうよ」
ぴしゃりと切って捨てられ、しゅんと肩を縮める。その姿はさながら飼い主に怒られる子犬のようだった。ディシディアは涙目になる彼を見て、クスッと愛嬌たっぷりに笑う。
「というか、船は大丈夫なのかい?」
「……乗ったことがないのでわからないですけど、正直自信がないです」
「ふぅむ……実を言うと私もこちらに来て船に乗るのは初めてだからね。あぁ、いや。カーラたちのところで小さいものには乗せてもらったが、あれとは大きさが桁違いだから……」
彼女も何やらぶつぶつ言いながら考え込んでしまう。カーラたちのところで乗ったボートはかなり小さいものだが、今回乗るのは大型フェリー。まるで勝手が違うため、比較にならないのも事実だ。
ディシディアは曖昧な吐息を漏らし、何の気なしに空を見上げる。昨日の深夜から朝にかけて相当降っていたはずなのに、今は雲一つ見当たらない。風も心地よく、冬とは思えないほど気温も穏やかだった。
(この国の気候は面白いな。色々と大変だが、興味深い)
例の如く目を怪しく輝かせながらディシディアは顎に手を置いて考え込む仕草をしてみせる。彼女はやはり大賢者と呼ばれていただけあって、知識欲を満たすことを喜びとしているのだ。だから、この見知らぬ世界は彼女にとってまさに宝箱。
見たことも聞いたこともない代物がゴロゴロと転がる世界に放り込まれたことは彼女にとって幸福なことだっただろう。実際、今も興味深げに空の様子を観察していた。
「ところで、そろそろお昼にしませんか?」
良二が突然口を開く。彼はディシディアからもらった時計を示してみせる。
今の時刻はちょうど昼の一時。学校から直で帰ってきた良二も、昼飯を食べず彼を駅まで迎えにいったディシディアも、どちらも腹ペコの状態だ。
「そうだね……じゃあ、お昼にしようか」
「でも、どうします? ここら辺、何もないですよ?」
駅から歩いて十分ほどの場所にある住宅地。そこが二人のいるところだ。見た感じ食べ物屋らしき場所は見当たらない。けれど、ディシディアはよく知っていた。
こういう人が集まる場所にこそ、隠れた名店があるということを。
彼女はしばし思案気に眉根を寄せたものの、すぐに口元を吊り上げて良二の手を取り、すたすたと歩きだしてしまう。狭い路地に入ったかと思えば、右折左折を繰り返しテイク様に、流石の良二も目を丸くする。
「ど、どこに行くんですか?」
「さぁ? 風の向くまま、気の向くまま。のんびり歩きながら店を探そうじゃないか」
なんともフリーな考えだ。が、それには相応のリスクが伴う。
適当に歩いたせいで今自分たちがどこにいるのかすらわからない。だが、幸いなことがあるとすればいつもと違うコースを歩いたことで「最寄り駅の近くにこんな風景があったのか」と驚かされてしまうことだ。
ただしそれでも、デメリットの方が大きく思える。普段の散歩ならいいだろう。だが、今の二人は空腹の状態だ。仮にすぐ見つからなかったら、ヘロヘロの状態で歩き続けることになる。そうなれば、餓死とはいかないまでも精神的、肉体的ダメージを追うことは明白だった。
それがわかっている良二はグッと腰を落として踏ん張り、彼女に制止をかける。
「戻りましょうよ。駅に行けばご飯屋さんも……」
「リョージ」
静かな、けれど有無を言わさないような声音で彼女が告げる。その目は真剣そのもので、ある種の迫力に満ちていた。
彼女はすぅっと息を吐いて、それからまた大きく吸い、呼吸を整えてからピッと人差し指を立てた。
「いいかい、リョージ。引き返せば、確かに食べ物屋は見つかるだろう。だが、そうなれば未知なる料理に出会う機会を逸してしまうんだよ? もったいないと思わないかい?」
「それはそうですが……」
「まぁ、目安を設けておこう。十分だ。十分探して見つからなかったら、駅に戻ろう」
妥協案が寄越される。まぁ、腹の調子から考えても十分程度なら余裕だろう。良二が頷き返すと、ディシディアは「よろしい」と言って手を打ちあわせた。
そうして、またてくてくと歩いていく。が、その歩みは順調とは言えない。
彼女もこの場所を訪れるのは初めてなため、見たこともない建物などに目を奪われている。当然ながらそこまで距離を歩くこともなく、タイムリミットは迫りつつあった。
「もうすぐ十分ですよ」
「む、もうそんなになるのかい? いや、だが……」
はたと足を止め、ぐるぐるとその場で回りだすディシディア。その度に彼女の結った長い髪が揺れ、仄かに甘い香りを漂わせた。その色香に惑わされぬよう意識をしっかり持ちつつ良二が時計を眺めていると、
「ッ! あれは!」
ディシディアがよろめきつつブレーキをかけ、良二の後方を指さした。彼はそちらをふと見て、あんぐりと口を開ける。
確かに、食べ物屋があったのだ。一見普通の一軒家のように思えたが、二階建ての一回は食べ物屋になっているようである。近くに寄ってみれば、表にはメニューも掲げられていた。それを見るに、ここはどうやらネパール料理屋らしい。
換気扇からは絶えずスパイスのいい香りが漏れ出ている。空腹時において、この香りは殺人級の威力を持つ。二人はごくりと息を呑み、なぜか自動ドアに改装されている扉の前に立った。
するとスゥッと自動ドアが開き、
『ラッシャイマセーッ!』
男性二人分の力強い声が聞こえてくる。彼女たちは一瞬ビクッとその場で飛び上がったものの、すぐに調子を取り戻して窓際の席に着く。
「ご注文は?」
ネパール人と思わしき男性が語りかけてくる。日本にいた期間が長いのか、変な訛りもない。彼は流暢な手つきで金属製のゴブレットを配膳し、メニュー表を手に取った。
別に急かされているわけでもないのに、二人は慌ててメニューを見やる。想像通り、ここはカレーがメインらしい。
だが、そこには似つかわしくないメニューの名前を見て、二人は目を見開く。
「ネパールバーガー……限定八食!?」
「えぇ。まだ在庫はありますので、お作りすることは可能ですよ」
驚嘆するディシディアに男性が優しく語りかける。無論、この機械を逃すわけにはいかない。
「リョージ。君はどうする?」
「俺もそれで。限定品とかに弱いんですよね……」
「私もだ。じゃあ、それを二つ頼むよ」
「かしこまりました。お飲み物は?」
どうやら、飲み物もチョイスできるらしい。二人はメニューに視線を戻し、
「私はラッシーで」
「俺はチャイ。あ、アイスでお願いします」
いつぞやカレーを食べに行った時と同じ飲み物をチョイスする。店による味の違いを楽しむのも食事の醍醐味だ。
「かしこまりました。少々お待ちを」
男性はぺこりと頭を下げて去っていく。良二は彼を一瞥した後でディシディアに視線を戻し、
「ディシディアさん。クリスマス何かしたいこととかあります?」
「クリスマス? う~ん……二十七日には旅行に行くからね。あまり遠出はしたくないかな。近場で遊べるならそれに越したことはないよ」
それを聞いた良二はパァッと顔を輝かせ、嬉しそうに水を煽る。もしかしたら、彼なりに計画をしていたのかもしれない。喉を潤した彼はごほんと咳払いをした後で語り始める。
「じゃあ、カラオケなんていかがです?」
「カラオケ……あぁ! 前教えてくれたあれか!」
「ですです。ほら、ここ最近色々あって行けなかったでしょ? 時間はたっぷりありますし、目一杯歌ってもいいんじゃないかと」
「うん、いいアイデアだ。しかし……歌か。帰ったら復習だな」
「というか、こっちの歌って歌えるんですか?」
「歌えるとも。家事をする時によく流しているんだが、いつしか覚えてしまったよ」
相槌を打つ良二。考えてみれば、彼女は確かに音楽が好きだ。
家事の時はどうしても退屈になりがちだから、それを凌ぐために聞いていたと考えれば不審な点は何もない。
いつも彼女は故郷の歌を歌ってくれるがこちらの世界の歌謡曲などは謳ってくれないため、否応なく期待値が上がっていく。それを感じ取ったディシディアは耳をピンッと立てつつ、慌てて手を振った。
「そ、そんなに期待しないでくれ。あまり歌えるものはないと思うから……」
「なかったらいいんですよ。その代わり、ディシディアさんの故郷の歌が聞きたいです。あれ、好きなんですよね」
「君はたまにストレートに好意をぶつけてくるね……まぁ、嫌いじゃないが」
水を煽り、喉を潤してみせる。彼女自身、歌うのはとても好きな方だ。だから、カラオケに行くことは今からとても楽しみなのだろう。すでに待ちきれない様子で、耳をぴょこぴょこ動かしていた。
良二も歌うのは好きな方である。頻繁に行く方ではないが、給料が入った時や気が向いた時などには訪れることがよくある。それに、学校の友人たちに連れられていくこともあるため、場馴れはしているのだ。
二人が明日何を歌うか脳内で考え込んでいると、先ほどの男性が大きめのプレートを二つ持って現れた。その上にはフレンチフライと別皿に入れられたケチャップ、紙に包まれたネパールバーガー、そしてラッシーとチャイがそれぞれ乗せられていた。
「お待たせしました。どうぞ、熱いのでお気をつけて」
ポテトはまだじゅうじゅうと音を立てている。香ばしい香りを辺りに放ち、それに呼応して二人の腹の虫が重低音を奏でる。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
空腹を少しでも和らげるため、まずはフレンチフライに手を伸ばすディシディア。
カリッとした歯ごたえの後にはほくほくとしたジャガイモの食感。味付けは塩だけのシンプルなものだが、だからこそ素材の良さが引き立っている。食前にはちょうどよい手軽さと味付けだ。
しばしそれで舌を鳴らした後で、彼女はようやくネパールバーガーの包みを剥がしていく。手に持つとずっしりと重く、見た目よりもボリュームがあることが伺えたが――包みが剥がれた瞬間、彼女はそのヴィジュアルに目を丸くする。
「これは……何がサンドされているんだ?」
中に入っているのはビーフパティではなかった。オレンジ色をした肉……おそらく何らかの処理が施された肉なのだろう。スパイシーな香りがする点から見ても、その認識は間違いではない。
良二は驚愕するディシディアが持つネパールバーガーを見て「あぁ」と頷いた。
「えっと……それはタンドリーチキンですね。骨が外してあるのでチキンティッカって言った方がいいかもしれませんけど、簡単に言うと鶏肉をスパイスとかで下味をつけて壺窯で焼き上げたものです」
「なるほど……だからここまで奥深い香りが出ているんだね」
ハンバーガーとは思えないほどスパイシーで痛烈な香りを放つ品に、否応なくよだれが溢れてしまう。ディシディアは口内に溜まった唾をぐっと飲み込み、ネパールバーガーにかぶりつく。
すると、焼かれたバンズの香ばしさと生野菜たちの瑞々しさ、そしてチキンの芳醇さが一気に口の中を満たす。普通のハンバーガーとは比べることもできない、独特な味だ。
タンドリーチキンを用いているのはただ目新しさを出したかったからではないだろう。スパイスによって底上げされた肉の旨みが新鮮な野菜にベストマッチ。くどくなく、サッパリといただける品だ。
中に入っている野菜はスライスされた玉ねぎ、キュウリ、トマト、そしてレタスだ。これらには別でニンジンドレッシング付与されている。タンドリーチキンだけでは絶対に出せない深みはこれによるものだろう。
驚くべきはこれらの野菜たちの量だ。メインであるはずのチキンよりも多い。が、味のバランスは見事なまでに取れている。
別に水準が低いわけではない。むしろ、野菜たちの高すぎるポテンシャルにチキンがくらいついてきているのだ。
「これは……美味いな。気に入った」
野菜が入っているため、非常にヘルシーでジャンクフードらしい感じが全くしない。チキンも味わい深いが、こってりと脂っこいわけではない。食感的な意味でも多彩で、飽きが来ない品だ。
ディシディアは言葉通り、相当気に入ったのだろう。むしゃむしゃと一心不乱に食べている。口の端にソースがついていようが、お構いなしだ。
たまにラッシーやチャイなど、甘いものを挟むとタンドリーチキンの風味が増強される。フレンチフライもケチャップをつけることで味わいを変え、こちらを退屈させることがない。
ひとつひとつは簡素な料理だと思われるかもしれないが、この三つの品をローテーションするだけで、とてつもない破壊力が生み出された。
たまに食べる順番を変えてみるのもまた新鮮だ。空腹は最高のスパイスと言うが、にしてもこれは相当なものだ、とディシディアは思う。
アメリカで食べたハンバーガーが『力強さ』をテーマにしているとすれば、こちらはまさに『繊細さ』。大味ではなく、インパクトという点では劣るかもしれない。
だが、味のグラデーションの配分はアメリカをはるかに上回る。
ヘルシーながら食べごたえもある品だ。いつしか手に持っていたはずのハンバーガーはすっかり二人の腹の中に納められてしまい、残されたのはソースがこびりついた紙のみ。
「ふぅ……ね? 来てよかっただろう?」
「はい。たまにはいいですね、こういうのも」
最初はどうなるかと思ったが、結果オーライという奴だ。おかげで普段は絶対に食べられない者に巡り合うことができた。良二はチャイをグイッと煽り、備え付けの紙ナプキンで手を拭う。
「じゃあ、そろそろ行きますか?」
「そうだね。もう全部食べ終えてしまったし、お暇しよう」
二人は席を立ち、レジへと向かう。と、男性がニコニコしながら、
「千百八十円になります」
「え!? や、安いですね……」
値札が書かれていなかったのでひょっとしたら相当高級なのではと思ったが、案外安価だった。限定品でここまで安いのはむしろレアな部類ではなかろうか?
などと疑念はあるものの、財布から代金を出して彼に渡す。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
「あぁ、また来るよ。ご馳走様。本当に美味しかったよ」
「ッ! ありがとうございます!」
男性は歓喜に震えながら、深々と頭を下げる。きっと、見知らぬ土地に来て色々な不安などもあったのだろう。そんな折、こんな言葉を言われれば誰だって嬉しくなる。ましてや、彼は料理人だ。
料理を褒めてもらえることは自分のことよりも嬉しい……これは以前、大将か誰かが言っていたことだ。
それを脳内で反芻しながら、ディシディアは彼に手を振って店から出る。容赦ない日差しが差し込み、薄暗い店内にいた二人は顔をしかめるが……左斜め前方にある店を見て、顔を見合わせて破顔する。
「デザート、いっておきますか?」
「いいね。冬休み突入記念だ」
そう言って二人が歩み寄ったのは――メロンパン屋。どうやら、ここらは意外にも食べ物屋が揃っているらしい。空腹のせいで気付かなかったが、一定間隔で店が並んでいた。
「あまり食べすぎないようにしてくださいよ?」
念のため忠告を入れておく。彼女は食べ物のこととなると見境がなくなるからだ。
「わかっているよ。全く……」
不満をあらわにするディシディアだったが、メロンパンの甘く蕩けるような香りを嗅いでは溜まったものではない。すぐにへにゃっと表情を緩ませ、誘蛾灯に誘われる蛾の如く店に吸い込まれていくのだった。