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第百五十七話目~つまみのクラッカーと少しの悪酔い~

 良二はパソコンに向かい合い、カタカタとキーボードを打ち込んでいた。彼が見ているのは例の小値賀島のサイト。調べてみると、中々に興味深い。

 曰く、ここは海底火山の噴火によって生まれた島だそうだ。だから、土は白ではなく赤土らしい。画像で見てみたが、赤い砂浜というのは初めて見たので度肝を抜かれてしまった。

 しかも、ここはかつて隠れキリシタンの隠れ家だったらしく、近くの分島――野崎島というところには旧野首教会というところがあるらしく、しかも今は世界遺産『候補』に上がっているそうだ。


「へぇ……」


 つい感嘆のため息が漏れる。先ほどは先入観でディシディアの意見に反論してしまったが、見てみればかなり遊べそうだ。泳ぐことはできないかもしれないが朝一はあっているそうだし、何より島は一面海に囲まれていてまだかつての日本が有していた自然を保有している。

 どことなく、ウィスコンシンと似たような匂いを感じた。


「どうだい? 中々面白そうだろう?」


 隣で、やや蕩けたような声が聞こえてくる。嘆息しながら横を見やればディシディアが白ワインを煽りながらクラッカーをつまんでいた。どうにも今日は酒を飲みたい気分だったらしく、髪を乾かした途端冷蔵庫からワインとつまみを適当に持ってきて酒盛りをし出したのである。


「珍しいですね、お酒を飲みたがるなんて」


「私だって飲みたい時くらいある。たまにはいいじゃないか。新しい旅の前祝だと思えばいいさ」


 プハッと息を吐くディシディア。わずかに酒臭い。けれど、そんなことよりも桃色に染まりつつある肌に目を奪われ、良二はゴクリと息を呑んだ。

 彼女はたまにとても無防備になる。今だって前かがみになっているせいで服の隙間からその白い肌が覗いているというのに、彼女は気にしている様子もない。相当酒がまわっているようだ。

 ちびちびとワインを飲み、空になればまた入れる。もちろん、おつまみを挟むのも忘れない。

 今回のつまみはコンビーフ乗せクラッカーとオイルサーディン乗せクラッカーだ。コンビーフに関しては缶詰をただ開けただけだが、オイルサーディンに関してはちょいと一捻り入れている。

 醤油とレモンを垂らし、オーブンで軽く火を通している。それをクラッカーに乗せ、ゆっくりと口に運ぶ彼女を見ているとよだれが出てきてしまい、良二は慌てて口元に手を当てた。

 イワシの生臭さは火を通され、さらにレモンが加えられたことによって完全になくなっている。醤油を入れたがこれが中々にワインと合う。

 入れてから火を通したのが功を奏したのだろう。発想としては、サザエのつぼ焼きと同じだ。熱が加わることで醤油が持つ旨みが何倍にも、何十倍にも増幅されている。レモン汁によってサッパリと頂けるので、飽きる心配もない。

 つまみとしてこれ以上優秀なものはないだろう。ディシディアは窓の外に見える半月を眺めてはワイングラスを傾ける。


「……早く行きたいな」


「チケットとか、色々と揃えなくちゃいけませんね。しかも島ですから、船で移動しなくちゃいけないみたいですし」


「そうだね。君が学校に行っている間にやっておくよ。まぁ、私の方がお金持ちだからね」


 がま口財布をぷらぷらと揺らしてみせ、ディシディアは瞑目してワインの瓶を取った。彼女はグラスになみなみとワインを注いだかと思うと、今度は良二に突き出してくる。


「え、えと……」


「飲みなさい。一杯でもいいから、付き合ってくれ」


 正直に言うと、まだ調べ物がしたいので飲むのは遠慮したい。サイトを巡れば巡るほど、知らないことがわかってくるのが快感になってきた。その感覚は彼女がいつも得ているものだろう、と何となく直感する。

 しかし一方の彼女はというと、妙に目が座った状態でワイングラスを突き付けてくる。断れば、お叱りを受けそうだ。これでは、仕方ない。


「……いただきます」


「よろしい」


 渋々受け取り、口に運ぶ。清涼感があって後味がスッキリとしたワインだ。舌の上でワインを転がすようにしてから飲みこみ、その余韻が消えないうちにサーディンクラッカーを口に入れた。

 と同時、彼の顔が緩む。それを見たディシディアは満足げに微笑みながら、コンビーフクラッカーにかじりついた。


「中々だろう? 調べ物もいいが、君はまだ病み上がりだ。控えておきなさい」


「むぅ……それもそうですね」


 確かに、自分はまだ病み上がりで本調子ではない。じゃあ、酒を飲んでいいのかという話になるが、酒は百薬の長という名言を残した先人に敬意を表し今回は了承する。

 何より、彼女と一緒に月見酒をするというのも悪くない趣向だ。ちょっと残念なのは、今日は雪が降っていないということ。季節の風物詩と合わせるだけで、どんな酒でも名酒になるとは金言だ。

 ましてや、愛しいものと肩を並べて飲むのだ。不味いわけがない。

 パソコンがシャットダウンされたのを確認してから、良二はディシディアと共に月を眺め始める。彼女はすでにこたつから出てきて、代わりに自分に抱きつくことで暖を取っている。動きが制限される辛さはあるものの、彼女が楽しそうだったのでよしとした。


「……それにしても、月日というのは早いね。しばらく、この感覚を忘れていたよ。アメリカ旅行に行ったことが昨日のように思える」


「やっぱり、百年以上生きていると時間間隔がおかしくなるんですか?」


「いいや、違う。私の場合は、倦怠の海に長く沈み過ぎた。いいかい、リョージ。退屈というのはね、十分死ぬ理由となりうるんだよ」


 その時の彼女の顔が本当に悲しそうで、切なそうで、胸がずきりと痛んだ。きっと、彼女は何度も死のうと考えたのだろう。

 だが、しなかった。出来なかった。

 死ねば、全てから解放される。窮屈な軟禁生活からも、煩わしい風習からも、何もかも。けれど、命を断てばそれまで積み上げてきたつながりも全て失われることになる。

 もちろん、彼女の友人や恩師はすでに死亡している。だが、彼らとの思い出は胸に刻まれているのだ。もし死ねば、その大切な記憶すら忘却することになる。それだけは、どうしてもできなかった。

 彼女は遠い目をしたままグイッとワインを煽り、息を吐くと同時に指の腹で涙の粒を払う。


「……私は今、生きていてよかったと心底思っているよ。君といると退屈することがない。そのおかげで、ようやく思い出したよ。あっという間に終わっていく一日という時間が、こんなにも貴重なんだってね」


「……ディシディアさん」


「ふふ、すまない。少々酔ってしまったようだ。忘れてくれ」


 彼女はフルフルと首を振りその場を去ろうとするが、良二は彼女の腕をガッと掴んで立ち上がるのを妨げた。ディシディアはキョトンと首を傾げたものの、良二の目を見た瞬間にわずかに表情を強張らせる。

 良二はゴクリと喉を鳴らし、


「前にも言いましたけど、俺はあなたが笑っている顔が好きです。ですから、絶対に退屈させませんよ。安心してください」


「……ありがとう」


 返されるのは、淡い笑み。儚くて、それでも美しい。その蠱惑的な表情に、良二は言葉を失ってしまう。

 酒に酔っているからか、色気も増しているようだ。普段の笑顔よりもずっと妖艶で、思わず魂が引き抜かれるかと思った。シャツの胸元がしわになるほど強く握りながら、


(これからお酒は控えてもらわないとな……)


 などと思っている良二をよそに、ディシディアは「う~……」と呻きつつ彼の膝に頭を乗せる。どうやら飲み過ぎたらしい。それも当然だ。ワイン一本をほぼ一人で飲んでしまったのだから。

 彼女は割と酒を飲める方だが、今回はペースが速かった。だから、体がついてこなかったのだろう。妙に納得しつつ、良二は彼女の肩を揺する。


「ディシディアさん。風邪……って、もう寝てるんですか?」


 返事はない。ただ、すやすやという心地よさ気な寝息が聞こえてくるだけだ。その寝顔はとても子供っぽくて、先ほどまで見せていた大人びた妖艶さは欠片もない。


「はぁ……仕方ない、か」


 ここまで気持ちよさそうに寝られては、起こしては可哀想である。良二は彼女をお姫様抱っこして一旦部屋の隅に寄せ、それから急いで布団を敷き、そこに寝かせてやる。すると、落ち着く場所に来られたことが感覚的にわかったのか彼女は微かな呻きを漏らしつつ寝返りを打った。


「さて、と。俺も寝るかな」


 卓袱台を片付け、自分の布団を敷く。しかし、その時脳内によぎったのは先ほど彼女が見せた苦しげな顔だ。彼女があちらの世界でどのような生活をしていたかは知っているからこそ、その辛さが自分のことのように伝わってきた。

 捨て子として育てられ、忌み子として畏れられ、けれど旅に出て生涯の友と師を得た――かと思えば、今度は大賢者になった途端軟禁生活だ。それが数十年以上続けば、ほとんどのものは発狂するだろう。

 だが、彼女はしなかった。それは心に『芯』があったからだ。友と、恩師と育んだ記憶。それこそが、あの地獄のような生活において清涼剤となってくれるものだったのだ。


(……俺も、頑張らなくちゃ)


 自分は彼女の『友』でも『師』でもない。ただ、これだけは言える。

 ――自分たちは『家族』だ。

 そして何より、自分は彼女のことを愛している。もう、覚悟だって決めた。

 彼女といたのは確かに半年にも満たない時間かもしれない。だが、直感したのだ。

 自分たちは、きっと巡りあうべくして出会ったのだと。だから、このつながりは大事にしようと思う。きっとこのつながりはいつか……何よりも強くて固いものになるような気がしていたから。

 布団を敷き終え、部屋の照明に手をかけたところで良二は慈愛に満ちたまなざしをディシディアへと送る。


「……おやすみなさい、ディシディアさん」


 一拍置いて照明が消され、部屋を照らすのはカーテンから差し込んでくる月光となった。


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