第百五十五話目~添い寝とリクエストと二つのお弁当~
「……っと、もうこんな時間か」
チラリと喫茶店内の時計を見たディシディアはポツリと呟き、本を静かに閉じて伝票を片手に席を立つ。マスターはレジの方へと移動しながら、
「もうお帰りですか?」
「あぁ。リョージがそろそろ帰ってくるからね。今日の料理もとても美味しかったよ、ありがとう」
「いえいえ、そう言ってもらえると作り甲斐がありますよ。またいらしてくださいね」
マスターはディシディアから料金をもらうと、また丁寧なお辞儀を寄越した。彼女はそれに軽く会釈を返してその場を後にする。ドアを開けるとぴゅぅっと冷たい風が吹き荒び、思わず服を両手で握りしめてしまった。
「うぅ……寒いな。早く帰ろう」
せっかく良二が回復したのに、今度は自分が病気になったら笑い話にもならない。自分の体を抱くようにしながら、暗くなりつつある道を駆ける。まだ五時のはずなのに、今日は一段と暗い。空には厚めの雲が昇っており、一雨来そうな様子だった。
彼女自身の速力はそれなりだが、いかんせん小柄なため一歩ごとの移動距離は短い。けれど、全力で家へと疾駆した甲斐あってか、あっという間に自宅付近へと到着する。
――と、その時だ。
「ディシディアさん!」
聞き覚えのある声が、耳朶を打ったのは。彼女はハッとして辺りを見渡し、すぐに良二の姿を発見する。彼はちょうど階段を上ろうとしているところだったが、すぐに引きかえしてきてこちらへと歩み寄ってきた。
ディシディアはそんな彼をジロジロと注意深く観察した後でほっと息を吐く。
「ふぅ……一応無事なようだね」
「もちろんですよ。ちゃんと勉強してきましたし、お土産だって、ほら」
彼が手に持っているビニール袋にようやく気付く。形状から察するに、中に入っているのはお弁当だ。
「ほら、ディシディアさんも看病で疲れてるでしょう? なら、たまにはこういうのもいいかな~……って」
見透かしたように言われ、思わず肩を竦めてしまう。確かに、疲れがないとは言い切れない。
マスターのおかげでだいぶリラックスした一時を過ごすことはできたが、それでも体に疲労がたまっているのは疑いようがない。実際、ここまで走ってくる途中にもそれを感じることができた。
「じゃあ、立ち話もなんですし行きましょうか」
「あぁ、行こう」
言って、彼の右手と指を絡める。ただ握るのではなく、いわゆる恋人つなぎと言われている形だ。
それにドキリとしてしまう良二だが、一方のディシディアはケロッとしている。この行為が天然なのか、はたまた意図してやったことなのかは伺えないが、悪いものでないことだけは確かだった。
二人はタンタン、とリズムよく階段を上っていき、ポケットから出した鍵を使って玄関の扉を開ける。
『ただいま』
口をそろえて言い、中へと足を踏み入れる。ディシディアはまず手洗いを済ますべく洗面所へ、一方の良二は弁当を保存するために一旦冷蔵庫へと入れた。
そうして自分も手洗いをしようと洗面所へと向かうと、出ようとしているディシディアとバッチリ目が合った。彼女はチラ、と風呂場の方を見つつ、
「リョージ。お風呂が沸くまで待っていてくれ」
「はい。じゃあ、その前にやることをやっておきますね」
ディシディアは風呂場へ、良二は洗面所へそれぞれ移動。互いになすべきことをしてから、二人は居間で合流した。
「さて、と」
良二は愛用の鞄を手に取り、中からファイルやら参考書やらを出してみせる。どうやら、勉強するつもりらしい。普段は夕食などが終わってからやるのだが、今回はそうも言ってられないらしい。
「おぉ……ずいぶん多いね」
「俺が休んでいる間に色々と宿題が出たらしいんですよね……」
がっくりと肩を落とす彼に憐憫のまなざしを向ける。とてもじゃないが、病み上がりの彼には荷が重い。何せ、プリントの数は十枚を超え、かつレポートなども別個であるような雰囲気だ。
彼は普段からマメな方なので宿題を忘れたことはない。毎日数時間は勉強に費やしているし、予習復習を怠らない。だが、いくら彼でもこの量は厳しいだろう。
とりあえず手近にあったプリントを見て、ディシディアは顔をしかめる。どうやら授業内でプレゼンをする必要があるらしく、そのプリントにはびっしりと注意要項が記載されていた。
「うぅ……大変ですよ」
「可哀想に……私が手伝ってあげられればいいんだがね」
いくら大賢者といえど、大学の専門的な知識までは有していない。ましてや、彼女はこの世界に来てまだ日が浅いのだ。手伝え、というのは相当無理な話だろう。
だが、良二は力なく笑う。
「大丈夫ですよ。手伝ってもらったら自分のためになりませんから」
「むぅ……君は真面目だね。たまには肩の力を抜いていいんだよ?」
サッと後ろに回り、彼の肩を優しくマッサージ。だいぶ凝っている。数日間寝込んでいたとはいえ、それで全快するほどではなかったのだろう。固い手ごたえがする肩を丁寧にも見ながら、ディシディアは唇を尖らせた。
「別に手伝ってもらうことは悪いことじゃない。誰かにまかせっきりになることがダメなんだ」
「ハハ……ありがとうございます。あ、あの、申し訳ないんですが、もう少しだけマッサージしてもらえませんか? 気持ちいいので……」
「ふふ、いいよ。なんだか、風邪を引いたらずいぶんと甘えん坊になったみたいだね」
「ち、違いますっ!」
良二は耳まで赤くして反論してきたが、ディシディアはクスクスと子どものように笑ってそれを受け流す。彼は納得いかないようだったが、目の前の課題の山から目を背けるわけにもいかず、彼女のマッサージを受けながら少しずつ取りかかっていった。
――それから小一時間後。良二はすっかり疲れ切った顔で終わった課題の束をまとめていた。
「お疲れ様。偉い、偉い」
後ろにいるディシディアがそっと頭を撫でてくれる。子ども扱いされることにだんだん抵抗がなくなってきているような気がしたが、心地よいので構わない。彼はぐ~っと背伸びをしてから、課題を鞄へと仕舞いこんだ。
「そろそろお風呂にしませんか?」
「あぁ、そうだね。君も勉強はそれまでにしなさい。期日を見たが、提出は来年度だろう? 病み上がりなんだ。今日はまだゆっくりしていなさい」
「はい、わかりました」
彼女に言われては敵わない。黙ってその場を立ち、風呂場へと向かうと……なぜだか、ディシディアもついてきた。自分の後ろにぴったりと張り付いてくる彼女の方に首を向け、
「あの、どうしたんですか?」
「ん? 君はずいぶんと甘えたがりなようだからね。身体でも洗ってあげようかと」
「け、結構です! ディシディアさんは夕食の準備をしていてください!」
背中をぐいぐいと押されて外に出され、振り向いた時には脱衣所の扉を閉められていた。ディシディアはつまらなそうに唇を尖らせ、
「別にいいじゃないか……今日はすることもないのだから」
良二が弁当を買ってきてくれたおかげでやることはない。正直言って、かなり暇だ。
「まぁ、いい。パチモンでもするか」
彼女は気持ちを切り替え、ゲーム機を取りに居間へと戻る。ちょうどシナリオをクリアして、今はまた新たなパチモンたちの育成をやっている段階だ。彼に勧められて始めたが、やりこみ要素が多くハマっている。
気づけば彼女は不機嫌だったのも忘れてパチモンたちと冒険に繰り出していた。
さらにそれから数十分後。
「ディシディアさん。お風呂いいですよ」
「あぁ。じゃあ、行ってくるよ」
あらかじめ出していた寝間着などを手に取り、脱衣所へと向かう。その時、ちょうど今へ戻ってきている良二とすれ違い、互いに笑みを交わした。
そうして脱衣所の扉に手をかけたその時、
「あ……ディ、ディシディアさん!」
上ずった彼の声が聞こえてきて、何事かと後ろを振り向く。すると、顔を真っ赤にしている良二が何やら黒いひらひらしたものを突き出していた。
彼はそれをなるべく見ないようにしながら、
「あ、あの……落ちました、よ」
そこでようやく、それが自分の下着であると気づき、ディシディアは頬を朱に染める。
「あ、ありがとう……」
「い、いえ、どういたしまして」
洗濯物を当番制でしているので下着などは見慣れたものだが、こうやって手に取って渡すとなるとまた違う。受け取る方も同様だ。顔が燃えるように熱く、彼の顔を正視できない。俯いたまま黒のショーツを手に取り、逃げるように脱衣所へと駆けこむ。
良二はしばし呆然としていたが、フルフルと首を振って居間へと戻る。そんな彼の手には、今度はゲーム機が握られていた。
さて、それから数十分後。ようやく風呂から上がったディシディアを迎えてくれたのは居間のこたつでくつろいでいる彼だった。テーブルの上にはお弁当が置かれている。ディシディアが上がるのを見越してレンジに入れたのだろう。まだホカホカと温かった。
「気が利くね、ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、食べましょうか」
気のせいだろうか、良二がこちらを見てくれない。まだ耳が赤いことを見るに、やはりさっきのことを気にしているのだろう。彼は最近の男子にしては相当初心だ、とディシディアは思う。
そのくせたまにこちらがドキリとくるようなことを素で言うのだから性質が悪い。前から感じていたが、あれこそ天然のたらしという奴だろう。しかも、無自覚だ。
「いただきます」
などと思いながらも静かに手を合わせ、自分の弁当と向き直る。良二の弁当は野菜炒め弁当で、自分のはおろしハンバーグ弁当だ。付け合せのおかずたちも見事なもので、色合いも鮮やか。見ているだけで涎が出てくるが、せっかく目の前にあるのだから食べねば損である。
パチンッと割り箸を割り、まずはアツアツのハンバーグをカット。驚くほど簡単に切れ、中からは肉汁が滝のように溢れ出る。その肉の上に大根おろしとトッピングされていたしめじ、えのきをたっぷりと乗せ、ご飯の上でワンクッションさせてから口に入れれば極上の味わいが炸裂する。
ハンバーグはとてつもなくジューシーだが、おろし大根のおかげでサッパリと仕上がっている。ポン酢の中にはレモンが含まれていたのだろう。後味がより引き締まっており、肉のくどさが欠片もない。肉の旨みが増強され、それが食欲をそそる。
当然ながら、白米との相性は完璧だ。一口ごとに、体が歓喜で震える。シメジやしめじなどの繊維質なキノコたちは肉の旨みを十分に吸収しているので、噛むとキノコ特有の風味と肉がミックスされて口に広がった。
大根おろしは滑らかで、変にじゃりじゃりしていない。たまに大根の欠片が入っているものもあるが、これに限っては心配ないだろう。まるで雪のようにふわふわとした大根おろしは辛味もなく、むしろ甘い。それが肉との素晴らしい対比を生み出すのだ。
「美味しそうですね、それ」
野菜炒めをもぐもぐ食べながら良二が言う。もしかしたら、病み上がりだから野菜を多めに取ろうとしているのかもしれない。弁当箱の半分以上は野菜だった。
「よかったら、食べるかい?」
促しつつも、答えは決まっているだろうからカットして大根おろしをたっぷりと乗せてやる。そうして肉汁とポン酢に軽く浸してから彼の方に箸を突き出した。
「はい、あ~ん、だ」
「あ~……ん」
大口を開けてハンバーグを迎え入れた彼の目がクワッと見開かれる。予想通りのリアクションに、ディシディアはなぜか誇らしげに鼻を鳴らした。
「美味しいですね、これ! サッパリとしていて……トッピングされているキノコも味が染みていて美味しいです」
「そうだろう? もう一つあげよう。あ~ん」
最近、彼に餌付けするのが癖になってきた。いや、いつもはされる側なのだが、やってみる側になると楽しさがよくわかる。
彼はよく自分の美味しそうに食べる顔が好きだ、と言ってくれるが彼も中々……いや、かなり美味しそうに食べるのだ。それを見ているだけで、幸せをおすそ分けしてもらったような気分になれる。
彼はしばしもぐもぐと咀嚼した後で、自分の野菜炒めをがっしりと箸で掴んでこちらへと押しやってきた。
「お返しです。こっちも美味しいですよ。あ~んしてください」
「あ~……ん!?」
口に入れられた大量の野菜たちを食む。食み続ける。すると、その度にそれぞれの野菜たちが持つ旨みが滲み出てきた。
入っているのはもやし、キャベツ、ニンジン、ピーマン、玉ねぎという野菜炒め界でのオールスター。そこに豚肉も加われば、まさしく究極の野菜炒めの完成だ。
ニンニクの効いたたれで炒められているらしいが、この味わいはそれだけではない。おそらく、肉を炒めた油で野菜たちも炒めているのだろう。ただの油では絶対に生まれない味が形作られている。
すばらしいのは、野菜たちがどれもこれも食感を損なっていないところだ。固すぎず、柔らかすぎない。それぞれの野菜たちが一番活きるであろう塩梅で炒められているあたりは流石としか言いようがない。
具材の構成などを見るに、これはコンビニ弁当ではないのだろう。そう思い割り箸の袋を見れば、ディシディアがたまに利用している弁当屋のものであることが判明した。
これまでは王道しか買ってこなかったが、野菜炒めも中々にいいものだ。少々物足りないかと思っていたが、それは間違いだ。野菜と同じくらい肉も入っているので満足感は十分である。
ディシディアはほっぺを押さえ、恍惚の表情を浮かべる。それを見ている良二は、どこか安心したように息を吐いて目を伏せた。
(やっぱり、この顔が好きだな……)
自分が病に倒れたせいで、彼女には辛い思いをさせてしまった。けれど今、改めて彼女の満面の笑みを見て決意が固まる。
やはり自分は、彼女が好きだ。彼女には、どんな時も笑っていてほしい。
だから、努力しよう。せめて彼女の隣を歩けるようになろう。いつまでも、彼女に心配ばかりをかけていてはダメなのだ。
「? リョージ? ボーっとして、どうしたんだい?」
「え? あ、いや、ちょっと考えごとを……」
「無理をしてはダメだよ。今日は早く休もう」
ディシディアはキュウリの浅漬けをポリポリ噛みながら言う。良二は苦笑し、そこでふと彼女に質問を投げかけた。
「あ、そうだ。ディシディアさん。看病してくれたお礼がしたいんですけど、何かリクエストありますか?」
「別にいいのだが……そうだね。リクエストなら、あるよ」
その時、彼女の瞳が妖しく輝いたような気がしたが――結果として、その認識は間違っていなかった。
食事を終えて小一時間後。良二は布団の中で困惑していた。
なぜか? 決まっている。
自分の体に、彼女が抱きついてきているからだ。ちょうど向き合うような形になっており、ちょっとでも目線を下に向ければ彼女の顔が見えて、さらにはパジャマの隙間から白い肌が覗く。ハッキリ言って、刺激が強すぎる。
「あ、あの、これがリクエストですか?」
「そう。今晩は私と一緒に寝てくれ」
「ですが、どうして俺はこんな……」
「別にいいだろう? 抱き枕代わりさ……にしても、ふふ。君の体は案外抱き心地がいいね。温かくて、気持ちいい」
胸元に、彼女の額がぐりぐりと擦りつけられる。ちょっと痛いが、それよりも驚きと心地よさが勝る。というか、抱き心地なら彼女の方が上だ、と良二は思う。
もともと体温が高い方なのだろう。ギュッと抱きしめれば、たちまち天然の湯たんぽと化す。プニプニとした身体は抱き枕と比べるのも失礼なくらい気持ちよくて、一瞬でも気を抜けばいつまでもその感触を掌で堪能しそうだった。
が、あまり触れると彼女は嫌がるかもしれない……そんな考えがよぎり、結局行き場のない手は彼女に触れることすら叶わないでいた。
「あぁ……気持ちいい。ずっとこうしていたいくらいだ」
自分も、とは言えない。言ったらからかわれる気がしたから。
ディシディアはしばし微笑を洩らした後で、こちらの胸板をつつ~っと指でなぞってくる。その甘美な刺激に、つい体が反応してビクッと震えてしまった。
「可愛いな……にしても、本当によかった。君が元気になって」
くぐもった声が聞こえてくる。が、それは別に彼女が自分の胸板に顔を押し付けているからではないだろう。良二は黙って、彼女の言葉に耳を傾ける。
「正直、不安だったんだよ? 君が……もしかしたら、もう目覚めないんじゃないかってね。でも、もう大丈夫さ。だって、君の体はこんなに温かいんだ。生きている、と声高に主張しているんだからね」
彼女が大切な者たちの『死』についてトラウマを持っていることは良二も知っている。だから、自然と行き場のない手は彼女の体を抱きしめる形になっていた。
「……大丈夫です。俺はどこにも行きませんよ」
「私だって、どこにも行かないさ」
抱きしめあうと互いの鼓動が、呼吸音が、温もりがダイレクトに伝わってきた。二人はそれを感じているうちに、眠りへと落ちていく。
その後目覚めるまで、二人は互いの体を強く抱きしめあったままだった。