第百五十四話目~マスターの恩返し! シュトーレン風ベーグル&キャラメルラテ~
数日後、玄関先にはすっかり元気を取り戻した良二と、彼を見送ろうとしているが不安を隠しきれないディシディアの姿があった。
「りょ、リョージ。本当に大丈夫かい? まだ休んでもいいんじゃないか?」
「もう大丈夫ですって。十分休みましたし、学校ももうすぐ期末試験が始まりますから授業を聞いておきたいですし」
「し、しかしだな……万が一何かあれば」
ディシディアは相当彼のことを気にかけているようで、なんとか引き留めようとしていたが、良二はケロッとした調子で輝くような笑みを浮かべてみせる。いつも通りの彼の笑顔だ。もう調子は戻ったらしい。
「じゃあ、行ってきます」
「あ……」
引き留める間もなく彼は出ていってしまい、
「気をつけて、行ってくるんだよ……」
ポツリと、言葉を漏らすことしかできなかった。彼が出ていくと部屋が途端に静かになったような気がする。ディシディアはハッとしてすぐさまサンダルに履き替えて玄関を飛び出し、二階の手すりから身を乗り出して下を見やる。
「リョージ! 無理をしてはダメだよ!」
「はい! 行ってきます!」
彼は手を振りながら足早に駅へと駆けていってしまった。その後ろ姿を見送ったディシディアは吹き荒ぶ風の冷たさを思い出し、身震いをしてから中へと足を踏み入れる。しかし、やはりというべきか脳内では不安が渦巻いていた。
また病気がぶり返したりはしないだろうか?
万が一倒れて病院にでも運ばれないだろうか?
そんな最悪な想像が脳内をよぎっていく。彼女はしばし束ねたおさげの毛先を指でなぞっていたが、やがてブンブンと首を振って腰に手を当てた。
「えぇい、ダメだ!」
こうやって部屋にいるとどうしても思考がマイナスの方へと動いてしまう。それは本意ではないため、彼女はフンッと胸を反らしてからタンスの方へと歩み寄ってお気に入りの服を取り出していく。
そうして手早く服を着替えてから、愛用のポシェットの中につい最近買ったばかりの文庫本を突っ込み、玄関へと足を向けた。が、鍵を取り忘れていることに気づき、一旦居間へと戻ってから鍵をポケットへ。
「よし、万全だな」
彼女はすぐさま厚底ブーツに履き替えてドアを開き、
「行ってきます」
誰もいない部屋に語りかけてから、パタンとドアを閉めた。
それから数十分後。彼女はマスターの喫茶店へと赴いていた。マスターは彼女の前の席に座り、黙って話を聞いてくれている。その瞳は真摯で、こちらの話を真面目に受け止めてくれていることが伝わってきた。だから、ディシディアも心の中にあるもやもやを全て打ち明けることができる。
「……と、そういうわけなんだ。やはり、不安でね。彼は大丈夫だろうか?」
「大丈夫ですよ。飯塚君は強い子ですから」
「それはわかっているが……」
頬を膨らませつつふいっとそっぽを向いてしまうディシディアにマスターは苦笑する。彼は立ち上がり様にメニューを手に取り、ペラペラとめくってから満足げに鼻を鳴らす。
「気分が落ち着く飲み物をお出ししましょう。お昼ごはんはもう食べましたかな?」
フルフルと首を振って応えると、マスターはニコリと微笑んでくれた。それが両省の合図らしい。そっとメニューをテーブルに置いて去っていく彼を見送ってから、ディシディアは本を取り出して読み始める。
本のタイトルは『やまねこのなく頃に』というもので、内容としてはとある山奥のお屋敷にやってきた一族たちが次々と殺されていくものである。一冊ごとのボリュームが相当あり、読むのに時間がかかるが退屈しない。
むしろ、読めば読むほど深みにはまっていく感覚である。彼女はまだシリーズの二冊目に差し掛かったところだが、その魅力には惚れこんでいた。
だけど、今日に限っては頭の中に内容が入ってこない。せっかくの息も詰まるような推理対決のシーンだというのに、気分が全く乗らないのだ。
「はぁ……」
瞑目しながら細い息を吐き、パタンと本を閉じてソファに体を預ける。話してスッキリしたかと思ったが、むしろ彼のことが余計頭に残ってしまった。
何せ、数日前まではあれほど熱にうなされていたのである。あの姿を見ていたら、誰だって心配するだろう。今でこそ調子を取り戻した様子だが、それでも安心はできない。病気というのは恐ろしいもので、いつ復活するのかわからないのだから。
事実、彼女の友人たちの中にも病で亡くなったものは少なからず存在する。だから、その恐ろしさは彼女が誰より知っているのだ。
病気というのは、寿命よりも厄介だ。病気になれば、見ているこちらも辛くなってしまう上に、その苦しみがいつまで続くかわからないという問題がある。精神的にも肉体的にも、追い込まれていくのは必定だ。
「……本当に、大丈夫だろうか?」
「大丈夫ですよ」
ふと、声をかけられてハッと身を起こすとすでにマスターはトレイを片手にこちらへとやってきていた。彼は優雅な微笑みを讃えながらこれまた流れるような仕草にて食器を配膳する。
「ん?」
テーブルの上に置かれたカップを見て、ディシディアが唸った。彼女の眼前にあるのは一つのマグカップ。そこには並々と液体が注がれているものの、その表面は泡でコーティングされている。しかも、その泡は茶色と白に分かれており、白い方はハート形に形成されている。
「キャラメルラテでございます。それと、こちらはシュトーレン風ベーグル。熱いので、お気をつけて」
「シュトーレン?」
「ドイツ八署のお菓子ですよ。これをクリスマス前に食べるのが風習だそうです」
と、説明を受けつつベーグルとラテを交互に見る。どちらも初めて見る品物だが、やはり作り手の腕がいいのだろう。とても美味しそうで、見ているだけで涎が出てくる。特にラテの方は俗に言うラテアートの類だ。その技術の素晴らしさに、彼女はただ感心するしかない。
「それでは、ごゆるりと」
深々と礼をしてくる彼に軽く会釈をし、ディシディアは手を合わせた。
「いただきます」
まずは喉を潤そうと考え、キャラメルラテを取る。ほんのりと温かく、持っているだけで心地よい。彼女はしばし芳醇な香りを楽しんだ後で、おそるおそる口をつけてゆっくりと啜る。
ふわりと口の中に広がったのはキャラメルの豊かな風味と、キリッとしたコーヒーの苦みだ。それらは一件チグハグなように思えるが、驚くほどの好相性でまろやかな味わいとなって舌に響いてくる。
キャラメルラテの『ラテ』――あるいはラッテはイタリア語で牛乳を意味するものである。このままだとカフェオレと似ているように思えるが、そうではない。
カフェオレはドリップコーヒーであるのに対し、カフェラテはエスプレッソコーヒーをベースにしている。エスプレッソは圧力を加えて抽出されるものであり、苦味が強いのが特徴だがキャラメルが加えられることでマイルドになっている。
ディシディアのことを思ってか、やや甘めの味付けにしているがコーヒーの風味が損なわれていない辺りは流石としか言いようがない。甘さと苦みの絶妙なハーモニーは確かに心安らぐものだ。
合間にベーグルを取り、かぶりつく。出来立てなのだろう。ホカホカとしていて、もっちりとした歯ごたえをしている。噛み切ると今度はオレンジピールやレーズン、クルミといった個性的な面々が迎えてくれた。
本来なら粉砂糖をまぶすはずが、これにはかけられていない。その代わりにシナモンが中に練り込まれているようだ。独特の風味は多少抵抗があるものの、慣れればこれほど美味しいものはない。
特筆すべきはベーグルの中に入っている具材たちだ。オレンジピールは噛むと微かな酸味と苦みを放つ。それがよりシナモン風味のベーグルの素朴な甘さを引き立てており、かつキャラメルラテを新鮮に味わえるファクターともなっている。
食感で言うなら、クルミに勝るものはいない。コリコリ、カリカリと実にいい歯ごたえをしている。噛み砕くとふくよかな香りがふわっと口内に広がり、また違った面白さを垣間見せてくれる。
シュトーレンには必須のレーズンだっていい仕事をしている。ねっとりとした濃厚な甘さは癖になる。少々味付けが濃い目にされているが、これはベーグルとのバランスを保つためだろう。
具だくさんのベーグルを食べていると宝探しをしているような錯覚に見舞われる。実際にどこに何が入っているかわからないから一口ごとに面白みがあった。
キャラメルラテも泡の部分と一緒に呑めば、これまた一風変わった趣向が楽しめる。ただ、難点はそうするとせっかくマスターが描いてくれた綺麗なハートが崩れてしまうことだ。最初は綺麗なハート形だったのに、今は歪な半円になっている。
「お気に召していただけましたか?」
チラリと横を見ると、いつの間にかマスターがやってきていた。礼を言おうと思ったが口の中にまだベーグルが残っていたのでゴクリと喉を鳴らして嚥下し、
「あぁ。とても美味しかったよ」
「左様でございますか。それはよかった……時に、飯塚君のことなら心配いらないと思いますよ? 彼は強い。それに、差し出がましいことを言うならば……今、彼の傍に最も近いのはあなたです。そのあなたが、彼を信じてあげなくては、誰が彼を信じてあげるのです?」
思わずハッと息を呑む。マスターは相も変わらず優雅な姿勢を崩さないまま、口の端をわずかに歪めていた。
「……やれやれ、負けたよ」
自分よりもうんと年下の男性に、ズバリと正論を言われてしまったことが相当効いたのだろう。ディシディアはやれやれ、と言わんばかりに首を振り、ソファに体を預けてラテを飲み干した。
「よろしければ、おかわりなどいかがですか?」
「いいのかい?」
「もちろん。今日は特別に無料でおかわり可能としましょう。無論、何度でもよいですよ」
「悪いな……色々と助かるよ」
素直に謝辞を述べたが、マスターは「とんでもない」と言って手を横に振る。
「この店を救ってくれた恩人に何もしないとあっては、妻から怒られてしまいますよ。客商売は人間関係が命ですからね」
「? 恩人? 私は何かしたか?」
キョトンと首を傾げるディシディア。
きっと彼女はもう覚えていないだろう。かつて閉店の危機に追い込まれていたこの店に金貨という名の投資を行ったことを。そしてそれが巡り巡って自分のためになっていることを。
「覚えていないなら、無理に思い出さずとも結構ですよ。ですが私は……あの時の御恩を生涯忘れませんから」
真剣なマスターの声は彼女の耳には届いていないだろう。彼女の頭はもう、良二のことよりも彼にどんな恩を売ったか思い出そうとフル稼働していた。