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第百五十三話目~優しい言葉とあったか鍋焼きうどん~

 ふと目覚めると、良二はある違和感に気がついた。彼は喉に手を当て、驚きと喜びに目を見開く。

 喉の痛みが、すっかり消えていたのだ。それだけではなく、熱っぽさや頭痛も。綺麗サッパリ跡形もなく。寝る前まではまだ少々残っていたが、どうやら療養に徹していたのが功を奏したらしい。体のだるさを除けば、ほぼ完治といったところだ。


(そうだ。ディシディアさんは……?)


 きょろきょろと部屋の中を見渡すが、見当たらない。ベランダにもおらず、脱衣所にいるような気配もなかった。とすれば、考えられることは一つ。おそらく、買い出しに行っているのだろう。

 できれば、ここにいてほしかった。そして、調子が戻りつつあることをイの一番に報告して安心させてやりたかった。何せ、ここ数日彼女はずっと自分の看病をしてくれていたのだ。だから、少しでも早く彼女の気苦労を取り払ってやりたかったのである。

 多少予定が狂ってしまったが、いずれ帰ってくるだろうから問題はない。それよりもまず喉の渇きを潤すために、良二はのそのそと布団から起き上がった。


「……と」


 これまではトイレに行く時もディシディアの介添えを受けていたために体がそれに慣れていたのだろう。立ちくらみのようになってしまい、ふらふらとよろめきながら部屋の柱に手をつく。


「はは……情けないな」


 寝たきりだったせいか体力がすっかり落ちている。そもそも、まだ体だって思うように動いてくれない。けれど、彼はそんな体を引きずって冷蔵庫へと歩いていき、中からペットボトルに入れられたお茶を取り出す。これはディシディアが「飲みやすいように」と入れ替えてくれたものだ。

 小型サイズのペットボトルのキャップを開け、中身を飲み下す。よく冷えた麦茶によって徐々に頭が冴えていき、喉の渇きもなくなった。


「……さて、と」


 チビチビとお茶を飲みながら居間へと戻る。まだ全快とはいかない。色々とやりたいことなどはあるがそれは後回しだ。少なくとも、彼女が帰ってくるまでは寝ておかねばなるまい。

 ゴロンと布団に横になり、天井を見上げる。これまでは熱のせいで歪んだ景色を見せられていたからだろう。自分の家のはずなのに、まるで別の場所にいるような錯覚を覚えてしまった。

 苦笑しながらまた麦茶を煽る。寝ている間にも汗をかいているので水分補給は重要だ。彼は枕元に置いてあるタオルを使ってべたつく汗を拭い、それからふと玄関の方に視線をやった。


(いつ帰ってくるかな?)


 待ち遠しい。もし帰ってきたら、出迎えに行こう。そしたらきっと、ビックリしてくれるはずだ。

 それに、言いたいことがいくつもある。いや、できたと言った方が正しいかもしれない。

 良二ははやる鼓動を押さえるように胸元に手を当てて深呼吸を繰り返し、愛しい彼女の顔を思い浮かべる。

 彼女がいてくれたことは精神的に大きな支えだった。

 病気の時には精神的に弱くなることがある。けれど、彼女は嫌な顔せず自分を受け止めてくれたのだ。あの手の温もりと優しさがまだ額に残っているようである。

 何となく額に手を当てたところ、カンカンカン……と階段を上ってくるような音が聞こえた。この足音のリズムには聞き覚えがある。ディシディアだ。


「……よし」


 のっそりと布団から這い出て、よろめきながらも玄関へと向かう。まだ体の中に菌が残っているかもしれないので、マスクは必須だ。本当なら笑顔を見せたかったが、この際は仕方ないだろう。

 そうこうしている間に、ガチャン、というカギが開けられる音。続けてドアが開かれ、その奥から小柄な人影が現れる。


「ただい……ま……?」


 そこまで言って、ディシディアは言葉を失った。その視線はまっすぐ、一ミリもぶれることなく良二の方を向いている。彼はスッと居住まいを正し、マスクの下で笑みを作る。


「おかえりなさい。ディシディアさん。荷物、重かったでしょう? 持ちますよ」


 そう優しく語りかけ、彼女が掲げている大きなビニール袋をもらおう――と、手を伸ばしたが、その手は彼女によってふり払われる。手の甲に走る痛みに顔をしかめつつおそるおそる目線を向ければ、彼女は眉をキッと吊りあげていた。

 なぜ、彼女がそんな顔をしているのかわからない。良二は、たどたどしく問いかける。


「ディシディア……さん?」


「リョージ! 何で起きているんだ! まだ完治していないだろう!? 寝ていないとダメじゃないか!」


 大声で叱られ、反射的に飛び上がってしまう。けれど、それで彼女の溜飲が下がることはない。ディシディアは普段からは想像もできないほどの大声でなおも続ける。


「自分がどんな状態だったか忘れたのかい!? 病気がぶり返すことだってある! 無理をしたらダメじゃないか! 君の体は自分だけのものじゃないんだ! 全くどうして君はそう身勝手なんだ!」


 すごい剣幕に、思わず慄いてしまう。けれど、その怒りの表情の下に隠されている深い悲しみの色を感じて、良二はハッと息を呑んだ。

 ディシディアは目尻に涙を浮かべながら、


「私がどれだけ心配したと思っている! 君がもう二度と目覚めないんじゃないかと思った! このまま病に殺されてしまうんじゃないかと思った! もう二度と! 君と一緒にいられないと思った! なのに、君はどうして無茶をするんだ! 出迎えなんて来なくていい! 荷物だって持とうとしなくていい! ただ安静にしていてくれ! 君に何かあったら私は……ッ!?」


 彼女の言葉が途中で遮られる。その理由は一つだ。

 いきなり跪いたかと思った良二が、両腕で彼女を迎え入れたからだ。彼はディシディアを胸の中に抱きながら、そっと耳元で囁く。


「……ごめんなさい、ディシディアさん。俺、確かに自分勝手でした……でも、俺、あなたに言いたかったんです。ありがとうって。それに、話したいことがいくつもできたんです。よかったら、聞いてくれませんか?」


「な、き、君、は……」


 予想外の行動に毒気を抜かれてしまったのだろう。ディシディアは若干慌てながら、途切れ途切れに声を発する。良二はそんな彼女を横目で見てから、また言葉を紡ぐ。


「昨日、夢を見たって言いましたよね? その夢の中のディシディアさんはとても悲しそうで……寂しそうだった。それを見た時、思ったんです。俺はやっぱり、あなたが悲しむ顔は見たくないって。看病をしてくれたのは嬉しかったですけど、その時のディシディアさんも夢の時と同じくらい辛そうな顔をしていました。過ぎたことですからどうしようもないことですけど、これだけは言わせてください」


 彼は一旦言葉を切って彼女から身を離し、数日前まで高熱でうなされていたとは思えないほど力強さに満ちたまなざしで彼女の目を覗き込む。


「ディシディアさん。俺は……あなたには、笑っていてほしい。変な話かもしれませんけど、あなたが笑ってくれていると……俺も、自然と笑えるんです」


 彼の声は掠れて、震えていた。けれど、それは病気がぶり返したからではない。

 彼はあふれる涙をこらえようともせず、彼女の華奢な体を力いっぱい抱き寄せた。


「俺を看病してくれている時、ディシディアさんは笑ってくれていました。でも、違うんです。無理をしているのがわかったんです。あなたに気を遣わせて、辛い思いをさせている自分が情けなくて、許せなくて……本当に、ごめんなさい」


 腰に回された手に、また力が込められる。ディシディアは戸惑いながらも、自身もまた優しく彼を抱き寄せる。身長差があるため、良二は若干屈んでいる状態だ。そのため、容易にその頭を撫でられた。

 良二は目を細めながら、


「もう、俺は大丈夫ですよ。だから、ディシディアさんも、笑ってください。あんなに苦しそうで、辛そうな顔はあなたには似合わない」


 良二は指の腹でディシディアの目からこぼれていた雫を拭い取る。彼女はしばしジィッと彼の顔を見つめていたが、ややあって自分も彼の頬に手を伸ばし同じく指の腹で涙を拭ってやった。


「……ありがとう。知らず知らずのうちに、君を苦しめていたんだね。ごめんよ」


「謝らないでください。悪いのは、俺なんですから。本当に……むぎゅっ」


 ぐにゅっと鼻をつままれる。良二は目を瞬かせながらむぅっと頬を膨らませているディシディアを見やった

 すると彼女は涙の粒をぽろぽろと流しながら、俯きつつ言の葉を寄越す。


「君も謝るな。ただ、私からも一言言わせてくれ。あまり、無茶をするな。本当に、心配だったんだから。君がいなくなったらと思うと私は……」


「……はい。気をつけます」


 しばしの静寂が二人の間を流れる。二人は互いに見つめあったまま硬直していた。

 が、

 ――くきゅるるる……。

 という、か細い腹の虫の声が良二の腹から聞こえてきた。

 二人は数秒ほど何が起こったのかわからないように首を傾げていたが、しばらくして脳が状況を理解しだし、自然と笑いがこみあげてくる。


「ハハハハハ……素晴らしいタイミングだったな」


「えぇ。ちょっと気が抜けたらお腹が空いてきたみたいです」


「よろしい。じゃあ、すぐに作るから待っていたまえ。もちろん、絶対安静だよ」


 ディシディアは目尻に浮かんでいた涙を拭い、彼の背中を押して居間へと連行。そうして、自分はそそくさと台所へと向かっていってしまった。

 その時の彼女の横顔は、ここ数日見ていたものよりもずっと晴れやかで、可愛らしいものだった。あれこそが、自分の大好きな笑顔だ、と良二は思う。

 自分が倒れている時、彼女はずっと笑っているふりをしていた。それはとても痛々しくて、正直見ていられなかった。同時に、彼女にそこまでの負担を強いていることに自分で自分が嫌になった。

 けれど、とりあえずは一段落だ。ほっと息を吐きつつ、まだ残っていた涙の粒を服の袖で払う。ちょっとだけだが、気分も軽くなった。

 と同時、不意に眠気がやってくる。彼女が言う通り、急に動いたから体が休みを欲しているのだろう。正直まだディシディアに言いたいこともあったが、まぁ、いい。

 ゆっくりと瞼を下ろし、彼女が刻む包丁のリズムに耳を傾ける。すると驚くほど簡単に、夢の世界への扉は開かれた。


「リョージ。リョージ」


 耳元で、誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。いや、これは聞き間違えようがない。

 良二はゆっくりと瞼を開け、視界に映り込んできた少女へと笑いかけた。


「おはようございます、ディシディアさん」


「やぁ、おはよう。ぐっすりとお休みな様だったが、麺が伸びては美味しくないからね。ほら」


 と、彼女が差し出してきたのは――鍋焼きうどんだ。たっぷりの野菜と麺が入っている。見た目は重そうだが、出汁の効いた香りは軽やかでスゥッと胸の中に入り込んでくる。それに呼応して腹の虫もわめきたて、それを聞いたディシディアはふふっと微笑を洩らした。


「さぁ、食べられるかい?」


「えぇ、おなかペコペコです」


「そうか。じゃあ、召し上がれ」


 ディシディアは取り皿にうどんといくつかの野菜などをよそって、また同じように食べさせてくれる。良二はチュルンッと麺を啜り、安堵のため息をついた。

 十分な出汁が効いた鍋焼きうどんは味わい深い。味覚も戻ってきたのか、味の繊細さが如実に感じられた。麺はやや柔らかめに茹でられている。おそらく、良二の体調を気遣ってだろう。確かに固いものだとまだ噛みにくい。

 具材も小さめにカットされており、味だってよく染みている。ニンジン、ネギ、シイタケや油揚げ。それからかまぼこと栄養面もバッチリカバーしてある。

 特に油揚げやシイタケなどはよく汁を吸っており、食べていると体の内からポカポカと温まっていくようである。


「美味しいかい?」


「えぇ、とても美味しいです。また食べたいくらいですよ」


「いつでも作ってあげるよ。だから、早く病気を治しなさい。全く……君の気持ちは嬉しいが、それで無理をしてまた倒れては本末転倒だろう?」


「うぅ……ごめんなさい」


 正論だ。自分の言いたいことだけを考えて、彼女がどう思うかなど考えていなかったのである。

 ただ、あれでよかったとも思えている。言いたいことは言えた。それに、決意も固まった。

 やはり、彼女には笑っていてもらいたい。だから、彼女が笑えるように自分はずっとそばにいたい。誰よりも近くで、彼女の笑顔が見たいのだ。その気持ちに嘘偽りはない。

 良二がそんなことを考えている間、ディシディアはそっと目を細めつつ脳内で考えを巡らせていた。


(……この子は、たまにとんでもないことを言ってのけるな)


 あの時、彼の目は間違いなく一人の男としての決意と覚悟を決めた目だった。彼女から見ればまだ子どもの年齢だが、あの時は間違いなく『男の子』から『男』になった瞬間だ。

 そっと胸に手を当てる。バクバクと忙しなく動き回る心臓を落ち着かせるべく、深呼吸を繰り返す。年甲斐もなく、あの時は声を荒げてしまった。

 無論、心臓が早鐘を打っているのはそれだけじゃない。不覚にも、彼の告白に心を動かされてしまったのだ。あんなに真摯なまなざしで見つめられては、仕方ないだろう。

 自分に言い聞かせるようにしながら胸元のシャツを握りしめる。顔がほてっているのがわかる。こんな気持ちは初めてだ。


「……リョージ。さっきの言葉に嘘はないんだよね?」


「もちろんです。俺はあなたを幸せにします。だって、ディシディアさんの笑っている顔が大好きですから」


 こういうことをサラッと言える辺りは彼の美点だろう。ディシディアはしばし沈黙した後、彼の服の裾をキュッと握りしめた。


「……ありがとう、リョージ。私も、君が笑っている顔が大好きだよ」


 言って、顔が熱くなる。気恥しさから逃れるためにディシディアは台所へと駆けだし、良二用に作っていたペットボトルを取って麦茶をグィッと煽った。


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