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第百五十二話目~フルーツと幸せの盛り合わせ~

 目の前に広がるのは真っ暗な闇。灯りすらも、音すらもない、ただ静寂だけが支配する世界だ。


(ここは……)


 その世界の中心に立つ良二は辺りを見渡しながら思考を巡らせる。言葉を出そうとしても口がパクパク動くばかりで意味がない。目が見えていることは感覚的にわかったが、この暗闇では何を見つけられるはずもない。

 手を伸ばしてみても、それは空を切るだけ。ここはまさしく『虚無』という言葉が似合う世界だった。


(これは、たぶん夢だ……)


 頭ではそうわかっていても、根源的な恐怖と嫌悪感からは逃れられない。全身の毛が逆立つような、そんな不気味な感覚を覚えながら良二は一歩を歩きだす。そこに何があるのかわからないが、ここにずっといるよりはマシだと判断したのだ。


(……ん?)


 どれほどの時間が経っただろうか? 少なくとも軽く息が上がる程度まで歩いてくると、目の前にぼんやりとした光が浮かぶのがわかった。そして、その中央にいるのは――


(ディシディア、さん……ッ!)


 彼が何よりも大切に思っている彼女だった。だが、普段とは様子が違う。

 彼女はぽろぽろと涙をこぼしており、鬱々とした表情をしている。それを見ただけで、良二の胸がまた鋭い痛みを訴えた。ほぼ無意識のうちに胸元のシャツをしわができるほど強く握りしめる。


(ディシディアさん! ディシディアさん!)


 叫びたいのに、自分はここにいると伝えたいのに、声が出ない。そうこうしている間にも彼女はその端正な顔を涙でぐしゃぐしゃにして泣き崩れる。良二は何とか彼女の方に駆け寄ろうとしたが、彼女は沙漠にて見える蜃気楼のように近くて遠い存在のように感じられた。どれほど追っても、追いつけない。近づけない。


(クソ……ッ! クソッ!)


 自分の目から熱いものがこみ上げてきた。こんな光景、いつまでも見ていては気が狂いそうになる。

 自分の大好きな人が泣いているのに、なぜ自分はその傍にいてやれないんだと。どうしてその小さな体を力いっぱい抱きしめてあげられないんだと。夢だとわかっていても、その無力感に苛まれる。

 彼は汗だくになりながらも彼女の姿を追う。だが……彼女はひとしきり泣いた後にとてもさみしげな笑みを見せて、彼に背を向けてどこへともなく歩き出してしまう。


(待って……待って!)


 言うことを聞かない足を叩く。バクバクと耳障りな音を立てている心臓に舌打ちしながら、それでも駆ける。手を伸ばす。彼女名を呼ぼうとし続ける。

 けれどそんな彼の行為は虚しく彼女の姿は虚空に消えていき――


「ッ!」


 そこでようやく、彼の意識は現実世界に引き戻された。

 良二はしばらく困惑しているようだったがすぐにハッとして辺りを見回し、枕元に座り込んでいるディシディアの姿を視認する。彼女は泣いてはいなかったが、ひどく辛そうな顔をしていた。

 おそらく、看病の疲れだろう。看病というのは肉体的にも精神的にもクる。

 だが、それでも彼女は笑みを取り繕った。


「やぁ、おはよう。リョージ」


「ディシディアさん……」


 そんな声が意図せず漏れる。彼はフルフルと手を伸ばし、彼女の小さく柔らかな手を握りしめ、その感触を確かめてから大きく安堵の息を吐いた。


「ふふ、どうしたんだい? 急に甘えたくなったのかな?」


 彼女の声が少しだけ明るくなってきた気がする。もしかしたら、良二の体調がよくなりつつあることに気がついたのかもしれないし、はたまた彼が自分を求めてくれたのが嬉しいのかもしれないが、それは大した問題ではない。


「ディシディアさん……」


 良二はガラガラ声で、それでも彼女の名を呼んだ。夢で見た、あの地獄のような空間で呼べなかった分を補うように、何度も、何度も。

 けれど、二桁に入ろうというところで彼女の細い指が彼の唇に当てられた。


「待った。喉がガラガラじゃないか。今、お水を持ってきてあげるから……」


 立ち上がろうとして――ガクンっとつんのめる。見れば、自分の服の裾を良二が震える手で掴んでいて、涙で潤む瞳で請うようにこちらを見つめていた。

 彼はまるで夜ひとりで部屋にいるのが嫌だという子供のように首を振り、


「ディシディアさん……行かないでください。俺を、独りにしないでください」


 涙まじりの声で告げた。それを受けたディシディアは少しばかり驚いたように身を仰け反らせたものの、すぐに穏やかな笑みを浮かべて彼の手を取り、先ほどと同じように枕元へと腰を下ろす。


「大丈夫だよ。私は君を置いてどこにも行かないさ」


「本当、ですか……?」


「あぁ、本当だ。約束だとも。だから、今はちょっとだけ我慢してくれないかい? お水と、お薬と……ちょっとでいいからご飯を食べたら、またこうして傍にいてあげるから」


 良二は静かに涙を流していた。彼女の手の温もりが、これは現実だと声高に主張してくれている。

 そうだ。もう自分は現実に戻ってきている。あんな、最悪な夢はもうたくさんだ。


「怖い夢を見たんだね? 可愛そうに……」


 何となく事情を察してくれたのだろう。ディシディアは彼の頭を優しく撫でてやる。その感覚がまた気持ちよくて、良二は目を細めながら細い息を吐く。あれほど高鳴っていた心臓もようやく落ち着きを取り戻し、平常運転に戻りつつある。この調子ならば、大丈夫だ。


「じゃあ、ちょっと待っていてくれ。すぐに戻ってくるからね」


 チュッ……と、額にぬめり気のあるものが触れる。良二は特に気にした様子もなかったが、当のディシディアはやっておいた側でありながらわずかに頬を朱に染めつつ冷蔵庫に歩み寄り、そこからガラス製のお皿を取り出してくる。

 そこに乗っているのは色とりどりのフルーツたちだ。

 バナナ、リンゴ、ミカンにパイナップル。それらが綺麗に盛り付けられている様はさながら楽園の一部を切り取ったかのようだ。彼女はそれを落とさないよう慎重に歩き、枕元に腰を下ろしてフォークを手に取った。


「冷たいから食べるとサッパリするよ。ほら、召し上がれ」


「……ありがとう、ございます」


 小さく礼を言い、口を開けて一口サイズにカットされたパイナップルを迎え入れる。噛み締めるとじゅわっと甘酸っぱい果汁が弾け、口内を席巻した。

 よく冷やされたパイナップルは彼女の言う通り、目の覚めるような代物だった。キリッとした酸味があるのに、一拍置いてフルーティーな甘さがやってくる。

 噛むたびに果汁が溢れてくるので、果実を食べているというよりはジュースを飲んでいる感覚に近い。あれほど渇いていた喉もすっかり潤された時、良二はふと自分の喉に手を当てて目を瞬かせた。


(あれ……昨日より、ちょっと楽になってる?)


 起きた時は混乱していてわからなかったが、確かに言葉を発せたし、今ものどの痛みは軽くなっているように感じた。もしかしたら、完治は近いのかもしれない。


「まだ食べられるかい?」


 見越したような彼女の言葉に頷き、今度はバナナを口に入れてもらう。

 ネットリとした濃厚な甘さを誇るバナナは風邪を引いた体にじんわりと染みわたっていくようだ。元々バナナは栄養面が豊富であるので、その感覚は間違いではないだろう。おそらく、今頃体の中では新たに入ってきた栄養で力をつけた抗体たちが菌と全面戦争を繰り広げているはずだ。

 なら、治りかけの今こそキチンと栄養を取っておくべきである。

 良二は誰に言われるでもなく口を開け、食べる準備を整える。


「偉いね。いっぱい食べて早くよくなりなさい」


 そう告げるディシディアの顔は起き抜けの時に見たよりもずっと穏やかで、安心したようにも見えた。目の下にはクマができているが、その顔に浮かんでいるのはいつも浮かべているものに近い笑み。それを見ているだけで、体の疲れがすぅっと抜けていくような気がした。

 良二は辛いのをグッと堪え、リンゴの形をしたウサギや内皮まで完全に剥かれた状態のミカン。彼女なりに、良二が食べやすいよう食感や見た目に気を遣ってくれたのだろう。それを思うだけで、どれだけでも食べられるような気がした。

 正直、まだ本調子ではない。けれど、ひんやりとした果物は食べやすく、何より彼女の気遣いが如実に伝わってくる。だから、自然と全部平らげることができた。


「おぉ……よく食べられたね。偉い、偉い」


 子ども扱いしないで、といつもなら言いたいところだが、今日ばかりはいいだろう。彼女の嬉しそうな顔を見ていると、反論する気すら失せた。

 彼女はしばし良二を撫でていたが、急に真剣な顔になって居住まいを正し、問いかけてくる。


「さっきはどうしたんだい? あんなに取り乱して」


「……夢を見たんです。ディシディアさんが泣いていて、どこかへ行ってしまう夢」


 思い出すだけで涙が溢れそうになるのをこらえながら、なおも続ける。


「俺は追いかけようとしたんです。でも、届かなくて、声も出せなくて、そうしている間にディシディアさんはどんどん先に行って見えなくなって……気付いたら、俺は何もない世界に独り残されていました」


 彼は鼻をすすり目尻に涙を溜めながらそろそろと彼女の顔を見上げ、何とか声を絞り出す。


「ディシディアさん……どこにも、行かないですよね?」


「もちろんだとも。君は私の家族だと言ったはずだ。だから、置いていったりしない。本当だ。約束だよ」


 泣きじゃくる彼の目を優しく手で覆ってやる。すると気が緩んでしまったのか、良二の口からは嗚咽が漏れ始める。それを聞きながら、ディシディアも震える声で応えた。


「……リョージ。いいかい? 前にも言ったかもしれないが、君は私にとってとても大切な存在だ。この世界で、何よりも、誰よりも大切な存在だ。だから、安心してくれ。絶対に君を独りにしない。孤独にはさせないよ」


「本当、ですか……?」


「あぁ。そうだとも。だから、今はおやすみ。そして、風邪が治ったらまた一緒に二人でどこかに行こう。ね? さぁ……いい子だから」


 言って、ディシディアはまた子守唄を口ずさむ。だが、それは昨日聞いたものともこれまでに聞いたものともまるで違うものだ。

 もっと伸びやかでゆったりとしており、子守唄というよりはバラードのようにすら思える。まるでこちらに語りかけてくるような、感情のこもった唄だ。

 もちろん彼女の国の唄だから、歌詞も意味も分からない。でも、それは言葉よりも雄弁だ。

 儚くて、切なくて、もどかしくて。けれども尊くて、温かくて、何よりも愛おしい。

 その歌はまさしく彼女自身というべきものだ。心地よいメロディーに包まれていく錯覚を覚えながら良二は眠りの世界に誘われていき……きっと看病の疲れが溜まっていたのだろう。それにつられてディシディアも眠りこけてしまう。

 布団に眠っている良二と、その脇に寝転ぶディシディア。二人は互いに向き合うようにして、すやすやと心地よさ気な寝息を立てている。

 ……もし、この光景を誰かが見たならば、二人のことをこう呼ぶだろう。

 誰よりも、幸せな時間を過ごしている――と。


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