第百五十話目~決意の白粥~
近くに寄ってみると、良二がどれほど重大な状態であるかが一目でわかった。
暖房を入れているとはいえ、異常なまでに汗をかいていてマスクから漏れる呼吸音はひどく切なげで苦しそうだ。時折げほげほ、と辛そうに咳き込んでは顔をしかめている。
「りょ、リョージ……? リョージ……?」
ディシディアはよろよろと彼が寝ている布団のところまで歩き、半ばくずおれるようにして座り込む。彼女は震える掌で良二の頬に優しく触れた。
体の中で火でも燃えているのではないかと思うほどの熱さ。反射的に手を放してしまったディシディアは言いようのない不安に駆られながらそっと呼びかける。
「……リョージ? 大丈夫かい……?」
幼子が親に語りかけるような、そんな不安げでか弱い声。その声は彼女の手と同じく震えており、普段の鈴の音が鳴るような美声からは想像もできないほど掠れていた。
「……んぅ?」
しばらく呼びかけていると、良二の目がうっすらと開いた。彼はしばしぼんやりと天井を見上げていたが、視界の端にチラリと映った、絹糸のように滑らかな白髪を見て力ない笑みを浮かべる。
「おかえりなさい、ディシディアさん……」
よかった。彼はまだ生きていた。そう思った瞬間全身からどっと力が抜けていくのを感じながら、ディシディアも力ない笑みを返す。
「ただいま、リョージ。どうしたんだい? 学校は……?」
「早引き、してきました。一応病院に行ったんですけど……インフルエンザだって言われましたよ」
「インフル、エンザ……?」
「風邪の強化版、みたいな感じです」
そこまで言った辺りで、彼はまたげほごほと咳き込み始める。ディシディアは辛そうな彼の苦しみを少しでも和らげようとしているのか、優しく胸元をさすってくれた。
良二は涙ぐみながら、彼女の顔を見て告げる。
「あの、ディシディアさん……一つ、お願いがあるんですが」
「なんだい? 言ってくれ」
ディシディアは決意に満ちたまなざしで頷く。以前、自分が病に倒れた時彼は必死に看病してくれた。なら、今度はこちらの番だ。
気を抜けば不安の海に溺れそうになってしまいそうなのをグッと堪え、彼女はジィッと良二の潤んだ双眸を見据えた。
彼はしばしぜぃぜぃと荒い呼吸音を漏らした後で息を整え、
「……俺が風邪の間、どこかに、非難していてもらえませんか……?」
「……え?」
頭が真っ白になった。ディシディアは何を言われたのかわからず、目を瞬かせている。
けれど、高熱で朦朧としている良二は彼女に気を配る余裕すらないのか、途切れ途切れになりながらも続ける。
「インフルエンザって、感染力、高いんですよ。ですから、ディシディアさんにまで罹ってしまったら申し訳ないので……だから、大将でも、一乗寺さんでも……誰のところでもいいので、避難していてください。ディシディアさんまで病気になる必要は、ありません、から……」
現在、熱は四十度近くまで上がっている。正直、言葉を絞り出すのもやっとのはずだ。けれども、良二の言葉は確かな力強さを含ませている。それだけ、彼が本気だということだ。自分を、案じてくれているということだ。
それを感じ取ったディシディアはしばし無言を貫く。その時の彼女の表情は悲しみと恐怖、そして不安が全てごちゃ混ぜになったようなものだった。が、彼女はやがて大きく息を吐き、何度か深呼吸をしたかと思うとギラリと良二を睨みつけた。
「この……大馬鹿者!」
ビクッと体を強張らせてしまう良二。彼女がここまで声を荒げたのは初めてだ。凛とした声により、部屋全体が震えたようにすら思えてしまう。それだけの威圧感と迫力がある言葉だった。
「……あ、あの……?」
良二は普段とはまるで違う様相で怒りをあらわにしている彼女に呆気にとられている。一方のディシディアは今にも良二に掴みかからんばかりの勢いで声を張り上げた。
「君は自分の状況がわかっているのかい!? さっきまで辛そうに呻いていたじゃないか! 今の君一人ではろくな食事を取ることも……いや、起き上がることすら無理だろう! なのに、どうして私を頼ってくれないんだい! そんなに私のことは信用できないのかい!?」
「ち、違います……俺は、ディシディアさんにまで辛い思いを……」
「ふざけるな! 病気にかかることは辛いかもしれない。だが、こんなに辛そうな君を見ている方がもっと辛い! それに、私たちはもう家族同然だと言ってくれたじゃないか! それを今さら……何を水臭い!」
そこで、良二はハッと息を呑む。彼女の目に、うっすらと涙が溜まっているのを見たからだ。
ディシディアはしばし拳を震わせていたが、ややあって静かに息を吐き、小さく首を振る。
「……すまない。君は今、病人だったね。大声を出して、申し訳ない。だが、これだけは言わせてくれ。私はどこにも行かない。君が辛い思いをしているなら、隣でそれを支えると決めたんだ。君が、いつもそうしてくれるようにね」
それだけ言って、彼女はそそくさと台所の方へと走り去っていってしまった。良二はまだ呆然としていたが、ぐらりと視界が歪むのを受けて今一度深く枕に顔を埋める。
(……あんなディシディアさん、初めて見たな)
これまでの彼女はいつもニコニコとしていて、たまに不機嫌になることはあっても声を荒げるということはなかった。しかし、今日の彼女は明らかに激昂していた。まるで炎のような怒りに、良二はただただ圧倒されるばかりだった。
彼としては、もちろん善意で言ったつもりだった。しかしそれが、彼女にとっては何よりも辛いことだったのだ。
自分たちは『家族』だ。だから、辛いことがあったら支え合うものだと思っていた。けれど、そんな折に彼から言われたのがあの言葉だ。怒るには十分すぎる理由である。
(……でも、やっぱり嫌なんだけどな……)
自分が辛い分には全然構わない。けど、仮に病気が伝染したら自分はきっと自責の念で押しつぶされそうになるだろう。誰しも、最愛の人物が苦しんでいるのは嫌だ。
良二はしばしそんなことを考えるが、やがてやってきた激しい頭痛によって思考をかき消され、ただただ苦しそうに顔をしかめる。
体が燃えそうなほど熱い。喉だって裂けたかと錯覚するほど痛くて、呼吸するたびに苦痛がやってくる。頭だって今にも割れそうだ。
「うぅ……」
意図せず、うめきが口から漏れる。すると、それを聞きつけたディシディアがパタパタとやってきて、枕元に腰掛けてきた。
それを良二が薄目を開けて確認した直後、
――ピトッ。
と、冷たい何かが額にあたる感覚。それが彼女の掌だとわかったのは、ふにふにとした柔らかさがあったからだ。
「どうだい? 少しは、楽になっただろう?」
「……はい、ありがとうございます」
「礼を言うのも辛いだろう? なら、完治した後でお礼は言ってくれ」
ディシディアの声音は案外スッキリとしたものだった。もう先ほど見せたような怒気は含まれていない。チラリと顔を見てみても、彼女はやはり慈愛に満ちた表情をしてこちらの顔を見下ろしていた。
――気のせいか、少しだけ身体が軽くなった気がする。ひんやりとした掌はとても気持ちよく、ついつい夢見心地になってしまう。さらに、そこに彼女が奏でる子守唄まで加わるのだから、どんどん夢の世界が近くなっていく。
耳にするりと入り込んでくる彼女の透き通るような歌声は体の中の邪気を払ってくれるかのようで、聞いているだけでリラックスできる。その旋律は聞き慣れないものであるはずなのに、どこか懐かしく感じた。
その数分後、歌が全身に染みわたっていくような錯覚を覚えながら良二は微睡へと落ちていった。
――数時間後。目を覚ますと、窓の外は真っ暗だった。もちろん、今の灯りも消されている。
慌ててディシディアの姿を探すと……いた。台所で、なにやら作業をしている。鼻が詰まっているせいで匂いは嗅げないが、何かを作っているであろうことは見て取れた。
彼がしばらくそちらを眺めていると、その視線に気づいたのかディシディアがふと視線をやり、穏やかな笑みを向けてみせる。
「おはよう。ぐっすりだったね。夕飯、できてるよ。少しでいいから、食べなさい」
言うが早いか、ディシディアは土鍋をトレイに乗せて持ってきてくれる。彼女は起き上がろうとする良二を手で遮り、土鍋の蓋を開けてみせた。
そこに広がっていたのは――白粥の海。もうもうと立ち上る湯気が、出来立てであることを証明していた。彼女は少しだけ誇らしげに胸を張ったかと思うとまた台所に戻って取り皿とレンゲ、それから調味料一式を持って帰ってくる。
「珠江から聞いておいてよかった。ほら、食べさせてあげるから、そのまま寝てなさい」
良二はコクリと頷く。声を出そうとしたが、やはり喉が痛くて声にならなかったのだ。
ディシディアは白粥をレンゲでお茶碗へとよそい、それから持ってきた塩をぱらりと振ってみせる。そうして、レンゲで一口掬うとフーフーと息を吹きかけて冷ましてくれた。
「ほら、口を開けなさい。あ~ん、だ」
良二は言われるがまま口を開けるも、そこでようやく自分がマスクをしたままだということに気づき、片手でマスクを取り払う。そうして、大口を開けてレンゲを迎え入れた。
……じんわりと、体の奥に染みわたっていくような優しい味付けだ。べちゃべちゃとしておらず、ちょうどいい具合に仕上がっている。
「塩以外の味付けもできるからね。リクエストがあったら言ってくれ」
そういう彼女の傍らには塩以外にも醤油、鰹節、ふりかけ、はたまた鮭フレークなどが置かれていた。それは嬉しいのだが、正直塩粥が一番食べやすい気がして、良二はそのまま食べることを続行する。
寝そべったまま食べさせてもらうのは少々行儀が悪いし、恥ずかしいことだとも思うのだが、甲斐甲斐しく粥を口に運んでくれているディシディアを見ているとそんな言葉はどこかへと消えていってしまった。
「美味しいかい?」
言われて、小さく頷く。けど、それは嘘だ。
正直、まだ体の調子が元に戻っていないために味はそれほどわからない。でも、彼女が一生懸命作ってくれたものがまずいわけないのだ。
一瞬でも気を抜けば、目から涙がこぼれそうになってしまう。正直なことを言うと、彼女がいなくなってまた独りになることを思うと心細かったのだ。
しかし今、彼女はこうやって自分の傍に寄り添ってくれている。それがまたどうしようもなく嬉しくて、涙が溢れそうになってきた。
「……ん」
良二は小さく首を振り、顔を背ける。小さめのお茶碗の半分ほどしか粥を食べられていないが、何も食べないよりはマシだ。ディシディアは黙ってお茶碗を脇に寄せ、それから彼の額に手を当てる。
またしても、ピトッという冷たい感触。その気持ちよさに、良二はついつい目を細めてしまう。
「リョージ。しばらく学校はお休みするだろう? なら、身の回りの世話は私に任せてくれ。先ほども言ったが、私は君を置いてどこかに行くつもりはないからね」
「……ありがとう、ございます」
彼の目から、一筋の雫がこぼれる。ディシディアは雫を指の腹で掬い、
「大丈夫だよ、リョージ。私がついているからね」
と、子をあやす母親のように優しい口調で語りかけるのだった。