第百四十二話目~愛妻弁当と失敗作~
響き渡るのはチープなチャイム。入学してから何回聞いたかわからないそれに耳を傾けることもなく、良二はぐ~っと背伸びをして目を擦った。
前方ではよぼよぼの老教師が荷物をまとめて去っているところである。見れば、最前列に座っているはずの学生たちも何人かは寝ている様子だった。
確かにこの授業は少々退屈だが、内容自体は身になるものである。何より、貴重な学費を払ってきているのだ。自慢ではないが、良二は一度たりとも授業中寝たことはない。まぁ、かといって授業後に質問に行くほど真面目かと言われればそうでもないのだが。
「さて、と」
彼は呟きつつ、スマホを手に取る。と、新着通知が一件。それはディシディアからだ。
件名は『昼食』。件名通り内容としては昼食の感想を求めている様だった。だがあいにく、今授業が終わったばかりである。良二はひょいと肩を竦めて鞄を手に取り、それからある場所へと向かっていく。
校舎を出てからしばらくのところにある学食だ。もちろん、そこで学食を食べようというわけではない。今日はある人物と待ち合わせをしているのだ。待たせてはいけない、と良二は寒空の下を駆ける。
「あ、飯塚先輩。こっちです……」
学食がある建物の入り口付近に立っているのは目元を波打つ髪で隠した少女――一乗寺玲子だった。彼女ははにかみながら、おずおずと手を振ってくれている。
「ごめん。ちょっと遅くなったよ」
「い、いえ、お気になさらず」
玲子はブンブンと手を振ってみせる。その様が少々ユーモラスで、良二は苦笑してしまった。
以前は二人ともそこまで親交が深いわけではなかったのだが、いつしかディシディア経由で仲良くなったのだ。良二は隣にいる彼女を見て、キョトンと首を傾げる。
「今日はパン、持ってきてないの?」
「あ、はい。もう、アルバイトは辞めたので」
「あぁ」
と、相槌を打って良二は息を吐く。
彼女はもうすぐ留学に出発してしまう。そのため、アルバイトを辞めるなど身辺の整理をしているのだ。これまではいつもあまりもののパンをもらってきては昼食代を削って留学費用を溜めているということだったが、どうやらもう十分溜まっているということだろう。
胸の内で安堵しつつ、良二は学食の中へと足を踏み入れた。やはり昼時ということもあり、かなり賑わっている。正直、席を探すのは非常に骨が折れるが、運がいいことに入り口付近に二つ、席が空いていることを確認する。
「俺が席を取っておくから、一乗寺さんは何か買ってきなよ」
「あ、ありがとうございますっ! 飯塚先輩!」
玲子はぺこりとお辞儀をしてからそそくさと走り去っていってしまう。良二はその後ろ姿を見送って、宣言通り席を確保。それから一息つき、鞄からディシディアが作ってくれた弁当を取り出す。
実を言うと、とてもわくわくしている。弁当を作ることはあったが、それは全部自作だ。弁当の醍醐味である、何が入っているのかわからないドキドキは味わえないのである。しかし、その念願が叶って頬を綻ばしている。
しかし良二はハッとして顔を引きしめ、食券売場の方を見つめる。かなり混雑しており、玲子の姿は見えないがそれなりに遅くなるだろう。先に食べているのもなんだか悪い気がするので、とりあえずディシディアにメールを送ることにする。
「今から食べます……っと。にしても、昨日の料理は美味しかったなぁ」
脳裏に浮かぶのは、昨日彼女が作ってくれた豪勢な料理の数々。味ももちろんだが、彼女の心が感じられた。
心なき料理では人を満足させることはできない。これは昔、大将から教えてもらった言葉だ。以降は良二も作る時には食べる人が喜んでくれている顔を想像したものである。
正直、ただの精神論として切って捨てられるかもしれない。心などと言う不確定的な要素が料理に影響を及ぼすはずがない、と。
しかし、良二はこの論を支持していた。
なぜか? 決まっている。
かつて、自分が作った焦げまみれの卵焼きを母が美味しそうに食べてくれたからだ。
あの時、最初はとても悲しかったのを覚えている。確か、母の誕生日だった。
母が好きだった卵焼きを作ろうとしていたら火加減を間違え、ひっくり返そうとしたら形を崩してしまったりして、結局出来上がったのは黒焦げの何かと言った方がいいものだった。
もちろん食べなくていい、と言おうとしたが母はそれを頬張って言ってくれたのだ。
『美味しい』
と。だが、良二は首を振ってこう尋ねた。
『どうして? そんなに焦げてるのに……』
すると、母はにこやかに笑って、こちらの髪をくしゃくしゃと撫でながら優しく教えてくれた。
『美味しいに決まっているじゃない。だって、良二が私のために作ってくれたんでしょ? 見かけはちょっと悪いけど……それでも、あなたの真心が詰まった世界に二つとない料理よ』
あの時のことは生涯忘れないだろう。料理を失敗した悔しさと、母にかけてもらった言葉の温かさと、次はもっと上手く作ってみせようという熱い情熱。
もっと喜んでもらいたい。もっと美味しいと言ってもらいたい。もっと……もっと、笑顔が見たい。その思いこそが、彼が料理を作ろうとした原点だった。
しかし、母はもう他界している。以来長らく忘れていた気持ちだが、昨日のディシディアの件を経て母が言ってくれた気持ちがよくわかった。
確かに粗は多かった。完璧とは言えなかった。それでも、美味しかった。
それは多分、彼女が一生懸命作ってくれたから。あの時はなんとなくしかわかっていなかったが、自分が言う立場になってようやく分かった気がした。
「お、お待たせしました……」
「ッ!?」
不意に聞こえた声に、良二は飛び上がる。すると、視線の先にいた玲子がトレイを落としそうな勢いで飛び跳ねているのが目に入った。どうやら、彼女の方が驚いているらしい。良二は額に手を当てて首を振り、小さく息を吐く。
「ごめん、ちょっと考え事をしてた」
「い、いいんですよ……私が勝手にびっくりしただけですし」
玲子は言いつつ、席に腰掛ける。彼女は見た目に寄らずかなり食べる方だ。何と今日はカツ丼を大盛りで注文している。思えば、パン屋のバイトをしている頃は大量のパンをもらってきているようだった。
「じゃあ、食べようか。いただきます」
「あ、それもそうですね……では」
手を組みあわせ祈りを捧げている彼女を尻目に良二は弁当箱の包みを開ける。長方形の弁当箱は二段重ねで、それなりの厚さと長さを誇る。彼はごくりと息を呑み、蓋を開けて――目を瞬かせた。
「これは……ッ!」
まず、一段目に入っていたのは白米。のり弁風になっているらしく、カットされた海苔が散りばめられている。が、それは何かの文字のようにも思えた。もしかしたら、彼女の故郷の文字かもしれない。
二段目は至ってシンプルな、けれども美味そうな具材のオンパレードだった。
鳥の唐揚げ、エノキのベーコン巻き、茹でたブロッコリーに、ミニトマト。それから色合いを整えるための卵焼きと、リンゴで作られたウサギ。何とも贅沢な弁当だ。
「へぇ……それ、ディシディアちゃんが作ったんですか?」
玲子が弁当箱を覗き込みながらそう言ってくる。正直照れ臭い気もしたが、悪くない。良二は頷き、頬を掻く。
「うん。昨日も夕ご飯を作ってくれたり、色々助かってるよ」
「いい子ですよね、ディシディアちゃん。私も、あんな妹がいればなぁってたまに思います」
(いや、年齢で言ったら十倍以上なんだけど……まぁ、いいか)
言わぬが花。良二は口をつぐみ、箸を取る。そうして弁当箱を傾けつつ、
(そういえば、ディシディアさんはお昼は何を食べているんだろ?)
などと思いを馳せるのだった――。
「さて、私もお弁当タイムと行くか」
同時刻、ディシディアは昨日の後片付けを終えるなり、冷蔵庫に立ち寄って中から食材のあまり……もとい、良二の弁当には入れられなかった失敗作たちを取り出す。
焦げまくった唐揚げや、すっかり分離してしまったエノキベーコン。ひっくり返すのに失敗してほぼスクランブルエッグのようになってしまった卵焼きなど、相当の数がある。
これらはすべて、今日の朝作ろうとして失敗したものばかりだ。実を言うと、昨日もこれと同じくらい失敗をして良二が帰ってくる前に食べていたのである。
一朝一夕でできるほど料理は甘くない。それはよくわかっていたが、ここまでできないとは思っていなかった。
もちろん、彼女にとってはこちらの世界の食材や道具はほぼ未知。こうなるのはある程度予想していたが、それでも中々にひどい出来だ、とディシディアは嘆息する。
「まぁ、いいさ。次だ、次」
自分に言い聞かせるように呟きつつそれらをちゃぶ台の上に並べ、箸と冷ご飯を持ってきて手を合わせる。
「いただきます」
まず食べたのは唐揚げ。ニンニクを効かせた醤油誰にじっくりと付け込まれて肉は柔らかくなっているが、そもそも衣が焦げているので後味が非常に悪い。
たまに成功しているものもあり、そういったものはこの上なく上手く感じるのだが、失敗作はとことんダメだ。
衣はこんがりとなっているのに中は生焼けだったり、はたまた揚げすぎて肉がカチカチになっていたりと反省すべき点が次々露出してくる。
唐揚げにおいて一番重要だと言える皮もパリッとしておらず、へにゃへにゃと気持ちの悪い食感だ。唐揚げ粉がつきすぎているのか、もったりした食べ口のものまである。正直、これを良二に食べさせるのは気が引けた。
「むぅ。まぁ、これならばイケるだろう」
彼女が箸休めとして手を伸ばしたのはエノキベーコン。こちらは単純につなぎとして使っていた爪楊枝が外れてしまい、バラバラになっただけであるので特に味が悪いわけではない。
塩加減は抜群だし、繊維質のえのきはベーコンの肉汁をこれでもかと吸っている。それにベーコンもカリカリした部分があったりして、ご飯とマッチしている。
いや、正直言えばビールが欲しくなる味だ。塩コショウが効いているので、これだけで数杯は飲めそうである。まぁ、飲めば良二から大目玉をくらうのでやらないが。
卵焼きも形が悪いだけで唐揚げほどひどくはない。まぁ、かといって絶品かと言われれば首を捻ってしまう。そんな出来だ。
時々べちゃべちゃした所があり、非常に後味が悪い。火を通そうかとも考えたが、むしろ悪化しそうなのでやめた。味付けはまぁまぁうまくできている……卵を用いたデザートだと思えば。
良二が甘い卵焼きが好きだと聞いたので砂糖を多めに入れたが、それは失敗だった。もはやこれはスィーツの領域。しかも形が悪いと来ているので擁護の使用がない。
彼女は嘆息し、天井を見上げた。
「……喜んでもらえているだろうか?」
不安が胸の中で渦巻く。彼は優しい子だ。妙なところで気を遣う癖もある。
だが、次に彼女の胸に去来したのは、彼が喜んでくれた時の高揚感。あの感動は、生涯忘れないだろう。
昨日の品も、まだまだ納得がいかない点が多かった。けど、それでも彼は美味しい、美味しいと食べ進めてくれたのだ。仮にあれが演技であっても、いや、演技だったらなおのこと、次こそは美味しいものを作ってあげたいと思う。
「まずは知識を蓄えなくてはな……頑張らねば」
もそもそと失敗作を食べている彼女。もはやダークマターと呼んでも差し支えないような唐揚げを食べて少々不機嫌そうな顔をしていると、地べたに置いていたパソコンに何やらメールが届いていることに気がついた。
「? リョージからか」
見れば、新着は二件。一件目は先ほど冷蔵庫に行くのと入れ違いできたらしく、気づけていなかったようだ。内容としては、今から食べるという宣言がある。
そして二件目には――簡潔にただ一言。
『とっても、美味しかったです』
それを見た瞬間、胸の奥から何か熱いものがこみ上げてくるような気がした。どくどくと脈打ち、体全体に満ちていく熱い鼓動に戸惑いながらも、彼女はごくりと息を呑みこみ、一旦席を外して彼に電話をかける。
数秒ほどコール音が聞こえた後、
『もしもし?』
愛しの彼の声が受話器越しに聞こえてきた。
「や、やぁ、リョージ。どうだったかな?」
『冗談抜きで美味しかったですよ。また作ってもらいたいくらいです』
「そうか……ありがとう。次はもっと頑張るよ」
『はい、期待してます。あ、そうそう。気になったことがあるんですけど……あの、海苔で書かれた文字ってどういう意味なんですか? それだけが気がかりで……』
「ん? ふふ、秘密さ。推理してごらん。当たったら、いいものをあげるから」
受話器の向こうで彼が首を傾げる雰囲気が伝わってくる。
だが、これでいいのだ。わからなくて、いい。
何せ、あれは……普段は秘めている彼女の言葉を表したものなのだから。