第百三十六話目~チキングラタンパンとしばしの別れ~
今日の朝は雨が降っていた。そのため、昼になった今でも地面はぬかるんでいる。ぐちゃぐちゃとした感触と跳ねる泥が若干気になるが、案外ディシディアは雨上がりの道を歩くのが嫌いではなかった。
雨の後というのは、いつもと違う景色が拝める。空に浮かぶ虹、雨露に濡れた木々や花々。それらに視線を映しながらディシディアは商店街の中へと足を踏み入れた。ここまで来ると地面はコンクリートで塗装されているため、泥が跳ねることはない。
これまではブーツを汚さないようなるべくゆっくり歩いてきた彼女だったが、商店街に足を踏み入れてしばらくした辺りで小走りになる。向かう場所はただ一つ。玲子が勤めているパン屋だ。
現在、彼女は良二にゆかりがある人物を尋ねてプレゼントを贈る際の参考にしているのだが、今回は玲子に白羽の矢が立ったのだ。同じ学校に通っている彼女なら、自分の知らないこともたくさん知っているだろうと考えてのことだ。
「さて、少し急がねばな……」
すでに時刻は一時間近。もしかしたら玲子は三限に向かうため、早めに切り上げているかもしれない。それに、ディシディアの腹具合も限界だった。朝から家事をやってきたせいでかなり体力を消耗している。
正直一瞬でも気を抜けば空腹で倒れ込みそうだったが……ふと、前方に見えた見慣れた人影を見て彼女はピタリと足を止めた。その視線の先にいるのは冬物の服でバッチリ防寒対策を施した玲子だった。
彼女は店の前で店主と何やら話し込んでいるようだったが、ややあってぺこりと頭を下げる。ただならぬ様子にディシディアはつい目を細めてしまう。
(ひょっとしたら、マズイ時に来たかもしれないな……)
遠くからなので何を話しているかはわからないが、それでも何かの事情があることはうかがえる。店主の方は笑っているようだったが、玲子は何度も何度も頭を下げており、謝罪をしているようにも見えた。
「……今日は、出直すか」
おそらく、今日はタイミングが悪かっただけなのだろう。なら、今日は別のところで食事を済ませるのもありか――と考えたが、玲子が店主と固い握手をした後で、こちらを見やってくる。その時、バッチリ目が合ってしまった。
そこで、ようやくディシディアは気づく。彼女の目にうっすらと涙が浮かんでいたことを。
「れ、レーコ。大丈夫かい?」
静かに歩み寄ってなるべく刺激しないように尋ねると、当の玲子は訳がわからないとでも言わんばかりに首を傾げてみせた。それを見たディシディアも、事情がイマイチ呑み込めず目を瞬かせる。
「? お、怒られていたのではないのかな?」
「ち、違います! そ、その……今日で、お店を辞めたんです」
「ッ!? それはどうして……ッ!?」
「え、えと……立ち話もなんですし、よければ私の家に来ませんか? 店長さんから餞別でたくさんパンをもらっておりますので」
と、大きめのバッグの中からビニール袋を覗かせる玲子。正直何が何だかわからなかったが少なくとも彼女が起こられていたわけではないと知って、ディシディアはそっと胸を撫で下ろす。
玲子はディシディアが来た道とは逆を歩きながら、彼女に問いかける。
「あ、ご、ごめんなさい。パン屋さん、寄りたかったですか?」
「いや、いいよ。今日は君に聞きたいことがあってきたんだ?」
「聞きたいこと?」
玲子はジィッとディシディアの目を覗き込む。そこには確かな決意の光が宿っていた。相当真剣に話に来ていることがわかり、彼女はごくりと息を呑む。相手が本気でぶつかってくるならば、自分もそれ相応の態度を取らねば無礼に当たってしまうからだ。
玲子は前髪をセットして気分を落ち着かせ、そっと息を吐く。彼女とディシディアはすでに友人と呼べる間柄だ。だが、だからこそキチンとしなくてはいけない時がある。それが今だ。
玲子はチラリとディシディアの方に視線をやり、静かに口を開く。
「あ、あの、ディシディアちゃん。私もあなたに話したいことがあったんです。後で、聞いてもらっていいですか?」
「もちろんだとも。構わないよ」
「あ、ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げる。ディシディアはこんな小さな体躯をしているのに自分よりもずっとしっかりしていると玲子は常々思っていた。
まぁ、ディシディアはすでに数百年を生きている存在だ。それも当然ではあるのだが、彼女は知る余地もない。ただただ彼女の落ち着きぶりに感心するばかりだ。
二人はやがて商店街を抜け、続けて住宅街へと足を踏み入れる。すると、玲子は近くに見えたそれなりに新しいアパートを指さす。
「あ、あそこが私のお家です。あまり広くはないですが、どうぞ」
彼女の部屋は一階の一番端だ。ポケットから取り出した鍵を差し込みグルッと回し、そぅっとドアを開く。すると、玄関に置かれた芳香剤のフローラルな香りが外へと流れだしてきた。
「へぇ……いい所じゃないか」
中を覗き込んだディシディアは素直な感想を漏らす。確かに広いとは言い難かったが、その中で彼女の工夫が凝らされていた。
少女らしい色とりどりの小物が置かれた部屋や、家族たちと撮った思い出の写真が飾られているリビングなど、どれもこれも小洒落ている。
「あ、よ、よかったらリビングでくつろいでいてください。飲み物などリクエストはありますか……?」
「パンに合うものがいいな。頼むよ」
「は、はい! 任せてください!」
気合満タン、といった感じの玲子を尻目にディシディアはリビングに向かう。そこにはオシャレなテーブルが置かれており、上には造花が入った花瓶が置かれている。こういったアレンジがあるのは中々目によいものだ。
無論、これだけではない。玲子は案外凝り性らしく、部屋の模様替えもキチンとしているようだ。こういった点は、少々良二にも見習ってもらいたいものである。
あのいかにも庶民的で部屋の趣を活かした家も捨てがたいが、もう少し飾っていてもいいとは思っている。だから、せめてプレゼントを贈る日ぐらいは飾りつけをするつもりだ。
今日、玲子の家を訪れて改めてアレンジの大切さを確認する。ディシディアは取り出したメモに今感じたことを書き連ね忘れないように何度か脳内で反芻させた。
「ど、どうぞ。ミルクです。パンはもう少しだけ待ってくださいね」
いつのまにかやってきた玲子がコップに入ったミルクを置いてくれる。ディシディアは彼女に頭を下げ、コップを自分の方に引き寄せた。パンとミルクの相性は言わずもがなであり、食べる前から期待値が上がっていく。
どうやら玲子はもらったパンをそのまま出すのが嫌なようで、わざわざ大皿の上に乗せている。こういった几帳面さは少々良二に通ずるところがあった。
「は、はい。お待たせしました」
「おぉ!」
眼前に置かれたパンの山を見て目を見開く。山のように積み重ねられたパンはどれもこれも美味そうだ。
塩気があるもの、甘味が強いもの、季節の食材を使ったものなど様々だ。それが山のように積み重ねられているのだ。ディシディアにとっては宝の山を目にしたのと同義。目はキラキラと輝き、耳はぴょこぴょこと忙しなく動いていた。
「じゃあ、食べましょうか」
「そうだね。いただきます」
と、ディシディアはパンの山へと手を伸ばすが……玲子は祈るように手を組み合わせ、瞑目していた。
「……天にまします、我らが神よ。今日も恵みを与えてくれて感謝いたします……アーメン」
何やら呪文のようなものを呟いた後で彼女は目を開け――そこでようやくディシディアがいたことを思い出しカァッと顔を赤くした。
「ご、ごごご、ごめんなさい! いつもの癖で……」
「いや、気にしないでくれ。それより、今のは何だい?」
「わ、わたしの家では食べる前にこうやって祈るんですよ」
ほぉ、と感服したような声を漏らすディシディア。
玲子はクォーターであり、彼女の家族たちは全員が敬虔なキリシタンだ。もちろん、彼女も同様である。だから、この行為は至極当然のものであるのだ。
玲子はディシディアの期待するような視線に耐えられなくなったのか、わざとらしく手を振りパンの山から餡パンを手に取って口に入れた。それを見たディシディアも、近くにあった丸いパンを手に取る。
上にはチーズが振りかけてあったのだろう。焼かれたことでそれはカリカリになっており、実に香ばしい香りを漂わせている。それに、上にはブラックペッパーがふんだんに散らされスパイシーさが感じられた。
「これは?」
「え、えと『チキングラタンパン』です。美味しいですよ?」
「うん、君のオススメだからね。信頼しているよ」
純粋な行為を露わにしながらディシディアは大きく口を開けてパンをかじる。流石に出来立てではなかったが、中からはとろりとしたチキングラタンが溢れてきた。
まったりとしたホワイトソースとふんわりモチモチとしたパンが異常なまでに調和する。ここだけだと若干味にインパクトが足りないように思えるが、カリカリになったチーズとブラックペッパーがスパイシーさを加えた。それだけで味が数段階跳ねあがる。
「これは美味しいな! できればアツアツが食べたかったところだが、仕方ない」
もぐもぐと咀嚼しながら満面の笑みを浮かべているディシディアに、玲子は穏やかな笑みを返す。きっとこの光景を店長が見れば泣いて喜ぶだろう。彼女は実に美味しそうに食べていた。
が、ディシディアは一口食べたあたりでハッと息を呑み、慌てて口を開いた。
「そ、そうだ。忘れるところだった。実は折り入って相談があるのだが、いいだろうか?」
「は、はい! もちろんです!」
「ありがとう。実は良二にプレゼントを贈りたいと思っているのだが、何かいい案はないだろうか?」
「え、えと……いい案、ですか? 難しいですね……」
玲子は唇を尖らせながら額に手を置いて考え込む。ディシディアは苦笑しつつも手元のグラタンパンを齧って沈黙をこらえようとする。
グラタンの中身はジューシーな鶏肉ともにゅもにゅとした食感が特徴のマカロニだ。炭水化物と炭水化物が合わさっているわけで、つまりカロリーはかなりのものになっているはずだが……美味しいものを食べるにあたって余計な考えは味覚を鈍らせる。
ディシディアはそっと目を閉じて味覚だけに感覚を集中させた。
ただのグラタンではない。一瞬だが、柑橘系の香りとピリッとした辛味が感じられた。これはおそらく……柚子胡椒だろう。
少々意外な調味料だったが、悪くない。いや、むしろいい。意外性も味も申し分なく、隠し味程度の量なのでグラタンを邪魔することもない。案外グラタンと柚子胡椒の相性はいいようだ。
そのように彼女が舌鼓を打っていると、玲子がコホンと咳払いをしてようやくしっかりとした眼差しをこちらへと向けてきた。それを受け、ディシディアは口の中のものを嚥下して不敵な笑みを返す。
玲子はしばし深呼吸を繰り返した後で、
「そ、そうですね。プレゼントを贈るコツは、自分がもらって嬉しいものを選ぶといいらしいですよ」
「おぉ、その考えはなかった。なるほど……確かに、言われてみればそうだな」
もちろん、ディシディアと良二の好みは完全に一致することはない。けれど、自分がもらって微妙だと思うものを避ければ爆死する危険性はグンと低くなる。これまでは彼に喜んでもらえるような品を模索してきたが、ここらで一旦考え方を変えることができたのは行幸だった。
ひとまず自分の考えが好評だったことが嬉しかったのか、玲子は安堵のため息とともにその豊満な胸を手で押さえる。案外、真剣な悩みに答えるというのは神経を使うものだ。けれど、喜んでもらえた時や役に立ったと思ってもらえるとその苦労が一瞬で吹き飛び嬉しさが勝る。
玲子は手についていたパンの欠片をピンク色の舌でペロッと舐めとり、次のパンを手に取る。と、そこでディシディアがメモを取る手を止めてまたこちらを見つめてきた。
「後、プレゼントとは関係ないのだが、部屋の飾りつけについて君から指導していただきたい。正直、私はあまり得意じゃないからね」
「あ、な、なら、後で私が参考にした本をお渡ししますよ。そこに揃えた方がいいものとか見本も載っていますので」
「助かるよ。とりあえず、私が聞きたいのはここまでかな」
「ど、どういたしまして」
玲子はぺこりと会釈しミルクを煽る。冷たく甘い牛乳が喉を下っていく感覚は実に心地よく、間髪入れずにパンを食べれば互いの味を引き立ててくれる。
今さらながらいいバイト先に巡り合えた、と思う。店長は優しかったし、お客さんたちもとってもいい人たちばかりだった。
何より――。
玲子は視線をディシディアに向け、微笑を浮かべる。
(本当、あのバイトを選んでよかった)
胸中で感謝を述べながら、再びミルクを煽って喉を潤す。それから呼吸を整えたところで、玲子は猫背の姿勢を正してごくりと息を呑んだ。
「あ、あの、ディシディアちゃん。私も、あなたに言っておきたいことがあるんです」
「……何だい」
穏やかな声音。かつて祖母が寝る前に話しかけてくれた時のような錯覚を覚えながら、玲子は続ける。
「わ、私、もうすぐ留学に行くんです……ですから、バイトも辞めました。正確に言うと、お休みですけど、それでも一年近くは帰って来れないので……」
それはなんとなく、ディシディアも感じ取っていた。彼女は留学に向けて勉強をしていると良二から何度か聞いている。それに、彼女は外国の血を引いているのだ。そうするのも当然だろう、と考えていたのである。
玲子はそのままさらに言う。
「あ、あの、私、ディシディアちゃんに会えてよかったと思ってます。もちろん、飯塚先輩にもです。ですから……いつか私が帰ってきた時、また仲良くしてくれますか?」
「当然さ。馬鹿を言ってはいけないよ。それに、連絡が取れなくなるわけじゃないだろう? 一応、これが私のパソコンのアドレスだ」
サラサラッと手慣れた手つきでアドレスを書き、メモを破いて彼女に渡す。玲子はそれを大事そうに胸元で握りしめ、
「あ、ありがとうございます……ッ! 後、ディシディアちゃん。もしよければ、私のお古ですがお洋服などいりませんか? ちょうど、母から連絡が来たんです。捨てるのも忍びないので、もらっていただければ嬉しいんですが……」
「もちろん、もらうとも。ありがとう。それと、レーコ」
「は、はい?」
玲子は戸惑いがちに、眼前の少女を見やる。すると彼女は――とても穏やかで人懐っこい笑みを浮かべながら静かに右手を差し出してきていた。
「君が、私に会えてよかったと言ってくれて本当に嬉しかった。だから、私も言わせてくれ。私の方こそ、君に会えてよかった……レーコ。勝手かもしれないが、私は君を友人だと思っている。年は離れているが、それでも君は私の大事な友人だ。こっちで初めてできた、女の子の……ね?」
可愛らしくウインクをしながら言ってくるディシディアを呆然と見つめる玲子だったが、数拍置いて彼女はギュッと唇を噛み締めた。髪で隠れているため目元は明らかにならないが、確かに一筋の雫が彼女の頬を流れる。
「ディ、ディシディアぢゃん……ッ! ありがとう、ありがとうございますっ! そう言ってくれて、私もとっても嬉しいです!」
「お、おわっ!?」
急に立ち上がったかと思った玲子からのタックルに近い抱擁を受け、ディシディアは思わず声を上げる。すでに玲子は涙で顔をぐしゃぐしゃにしており、嗚咽を漏らしている。
ディシディアはそんな彼女の背を優しく撫で、
「……一年後には帰ってくるんだろう? なら、ちゃんと無事で帰ってきてくれ。私は、ずっとここで待っているからね」
「はい……ッ! はい……ッ! ちゃんとお土産も買ってきますからね! 待っててくださいね!」
「ふふふ、土産話で十分さ」
彼女の背を撫でながら耳元でそっと囁く。玲子は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも――どこか嬉しそうに口元を緩ませていた。