第百三十五話目~サプライズ・???ハンバーグ~
珠江の家であらかたの家事を終えたころ、ディシディアは帰路に着いていた。すでに空は真っ暗で、道は街灯によって微かに照らされているのみである。あちらの世界では月明かりがない中を歩くのはそれなりに危険だったが、こっちの世界ではそんなことは全くない。
文明の利器を感じながら、ディシディアはトコトコと歩いていく。彼女の手にはメモが握られており、そこには様々なことが書き連ねられている。無論、それは良二へ贈るプレゼントを決めるに当たって重要なものだ。彼女は真剣な顔つきでそれと睨めっこをしていたが、ややあってほぅっと白い息を吐く。
「中々難しいものだな、プレゼントとは」
あちらの世界でも贈ったことはあるが、その時でもやはり難しさは感じた。
気に入ってもらえるだろうか?
嫌がられはしないだろうか?
そんな不安が胸中で渦巻き、心をどす黒い靄が覆っていく感覚。一瞬でも気を緩めれば、それに呑みこまれて途端に臆病になってしまう。けれど、彼女はよく知っていた。
思考を止めず、常に最善手を考えていけばきっと満足のいく結果になるということを。
初めて他人にプレゼントを渡したのは旅の仲間たちだった。故郷では異端と呼ばれ迫害されていた彼女だ。育ての親を除けば贈ったことも贈られたこともなく難儀したが、結果的に全員が喜んでくれたのは今でも覚えている。
何かを贈って喜んでもらえることほど嬉しいことはないだろう。だから、また贈ろうと思えるのだ。その快感を知っていれば、今感じている不安や戸惑いなど大したこともない。
「さて、今回も上手くいくだろうか?」
胸中に期待の種を宿らせる彼女はポツリと呟き、メモをがま口財布に仕舞いこんだ。そうして、ポンッと手を打ちあわせる。
「よし、今日はあそこで夕食を取ることにしよう」
脳裏に浮かぶのはダンディーな雰囲気を漂わせる初老の男性。彼女がよく行く喫茶店兼レストランのオーナー……通称、マスターだ。彼はディシディアと交流がある人間の中でもそれなりに年を重ねている部類であり、既婚者である。きっといい知恵ととびっきりのご馳走でもてなしてくれるだろう、と高をくくってディシディアは小走りで店へと急いだ。
耳元でぴゅうぴゅうと風を切る音がする。すっかり季節も冬になりつつあり、風は冷たく鋭い。特にディシディアの耳は長く、耳あてが使えないためにむき出しだ。ことさら寒さが身に沁み、もはや痛みすら感じてくる。
彼女は手に息を吐きかけ、擦り、耳を何とか温めようとしながら店へと急ぐ。幸いにも、珠江の家は店からそう遠くない。ものの数分で到着し、眼前に見える仄かな明かりを灯らせる店を見て彼女はほっと胸を撫で下ろした。
彼女は早く暖を取ろうと小走りで店先へと向かい、ドアを開ける。すると、カランコロン、という小気味よいチャイムの音共に中にいたマスターが柔らかい笑みを向けてきた。
「いらっしゃいませ。今日はおひとりなんですね」
「あぁ、ちょっと訳ありでね。別に喧嘩をしたわけじゃないよ?」
「えぇ、わかっておりますとも」
念のため釘をさすと、マスターはくふふ、と含み笑いをしてみせた。どこか見透かしたようなその視線に顔を赤くしながら、ディシディアは窓際の席に腰掛けて店内を見渡す。
店内にはあいにく一人もいない。マスターにとってはあまり喜ばしくないかもしれないが、ディシディアにとっては好都合だ。彼女はお冷を持ってきた彼に、ちょいちょいと手招きしてみせる。
「どうしました?」
年相応の落ち着きを見せながらマスターは中腰になり、目線を合わせてくれる。これは彼が自分を対等に見てくれている証だ。彼女は内心彼の心意気に感謝しつつ頭を下げ、小さく口を開く。
「実は、折り入って相談があるんだ。その……リョージにプレゼントを贈ろうと思うのだが、知恵を貸してくれないだろうか?」
「……なるほど。私でよければ、お力になりますよ。ですが、まずは腹ごしらえといきましょう。お腹が空いていては、いい考えも出てこないですからね」
実を言うと、珠江の家で家事をしてきたからお腹はペコペコだったのだ。良二の家とは比べ物にならない広さだったため、かなりの重労働だった。
ディシディアは両手を上げ「流石だね」と感服した様子を見せ、それを見たマスターは微笑と共にメニューを広げる。
「実は、オススメの料理があるのですが、いかがでしょうか?」
「オススメの料理? 是非とも頼む!」
マスターの料理はディシディアの中でお気に入りだ。それこそ、珠江たちの店に負けないくらいだと思っている。
マスターはニコリと微笑み、厨房へと消えていく。その間、ディシディアはメニューを手に取りぱらぱらとめくり始めた。
最初は読めなかった文字がだんだん読めつつある。できないことができるようになるというのは実に快感だ。だから、彼女は貪欲に知識を喰らう。彼女にとっては失敗するリスクよりも成功した時のリターンの方が重要なのだ。
「さて、どんな料理が来るやら……」
もしかしたら、季節の食材をふんだんに使ったパスタかもしれない。はたまた、シンプルながら力強い旨みを持つ肉厚のステーキか、それともトロトロの卵を用いたデミソースオムライスかもしれない。ひょっとして、メニューには載っていない新作……?
メニューを見て想像しているだけで涎が溢れてくる。すでに彼女はこちらで多くの食材を口にしているのだ。写真を見ただけでその味が詳細に脳内へと浮かび、唾液の分泌を促す。初めて来た時との差異に驚きを隠せない様子の彼女だったが、やがてパタンとメニューを閉じた。
考えずとも、すぐにわかることだ。ディシディアはそっと目を閉じ、お冷で喉を潤す。
体の中に冷たさが浸透していくと頭も冴えていくようだ。ディシディアはコップをテーブルにそっと置き、がま口からメモを取り出してまた見始める。
珠江と大将は色々と有益な情報を与えてくれた。が、まだ足りない。ここで満足してはいけない、とも思う。何せ、記念すべき彼への初プレゼントなのだ。どうせなら、ちゃんとしたものを贈って驚かせたいに決まっている。
「むぅ……しかし、難しいな」
方針が今のところ定まらない。これからも情報収集に勤しむつもりだが、やはり方針があった方が捗るというものである。彼女は頭を抱えながらも必死に考え込む――が、突如として厨房から漂ってきた肉の焼ける芳しい匂いに思考を持っていかれる。
「この匂いは……ハンバーグか」
じゅうじゅうと肉の焼ける音からもそう判断できる。ハンバーグはディシディアの好物だ……が、若干拍子抜けしてしまう。
てっきり見たことも聞いたこともない料理が出てくると思っていただけに、ハンバーグだとわかってちょっとだけがっかりした自分がいたのだ。もちろん大好きなのには違いないが、彼女は刺激を求めていたのである。
少々気持ちが沈みこんでいるところに、満を持してマスターがやってきた。彼が抱えているトレイには案の定鉄板に乗せられているハンバーグと白い皿にこんもりと盛られている白米があった。
「お待たせしました。熱いので、お気をつけて」
マスターは恭しく配膳し、やがて遠慮気味にディシディアの目の前に座る。話を聞く体勢を整えているのか少々身なりを気にしている彼を横目で見てから、そっと手を合わせた。
「いただきます」
フォークとナイフを手に取り、そっと切り込む。フォークが刺さった瞬間ハンバーグからはピュッと肉汁が溢れ、鉄板の上に広がっていき得も言われぬ芳香を放つ。
それは食欲をそそるものだが、やはり嗅いだ事のあるもの。求めていた新しい刺激ではない。上にかかっているデミソースもすでに見慣れたものだ。
ディシディアはどこか物寂しさを覚えながらハンバーグをナイフで切り取った。その次の瞬間、彼女の目は驚きに見開かれることになる。
「こ、これは……ッ!?」
ギョッと目を剥く彼女を見て、マスターはしたり顔で頷いた。
「特製チーズインハンバーグでございます。どうぞ、召し上がれ」
ディシディアはごくりと喉を鳴らし、改めてハンバーグを見やる。
切るまでは普通に思えた。けれど、切った瞬間それは自分が想像していたものとは一線を画すものだと理解した。
中からはとろ~りとしたチーズが溢れてきて、濃い色をしたデミグラスソースに混じっていく。白と黒のコントラストが織りなす模様は芸術的で、ついつい目を奪われてしまう。
が、これはハンバーグであって芸術品ではない。食べねば始まらないのだ。
ディシディアは一口サイズにカットしたハンバーグをデミグラスソースとチーズにたっぷりと絡め、大口を開けて頬張る。その瞬間、ジューシーな肉とコクのあるチーズ、そして濃厚なデミグラスソースが口の中で一体になった。
間髪入れずにご飯を掻きこんで嚥下すれば、体全体が喜んでいるような錯覚に襲われる。てっきり普通のハンバーグだと思っていただけに、その衝撃は相当のものだった。ディシディアは半ば放心状態のまま、チーズインハンバーグを食らっている。
対面のマスターは目を細めて髭を弄っている。が、穏やかな笑みを湛えながら諭すような口調で語りかけた。
「……料理も、人生も似たようなものです。日常の中でのサプライズは、何よりも驚かれるものですよ」
その通りだ、と言わんばかりにディシディアは何度も首肯する。
何気ない、どこにでもあるようなハンバーグだと思わせてから不意打ち気味のチーズだ。おそらく、見た瞬間にわかってしまうようなものでも驚きはしたが、一旦フェイクを入れただけにその威力は倍増している。
(おぉ……案外、これは使えるかもしれないな)
脳内で少しシチュエーションを想定してみせる。あくまで平凡を装って彼が学校に行くのを見送ってから、帰ってくるまでに準備をしてプレゼントを渡す……王道だが、ハズレはないだろう。
後は、ここでどのような工夫を凝らすかだ……が、悲しいことに美味いものというのは人の思考力を容易く奪ってしまう。
「これは本当に美味しいな……驚きだけじゃなく味の方も満点以上だ」
ディシディアはチーズインハンバーグに魅せられていた。ただのハンバーグとは違う。
チーズが入ることで、これほどまでに味の次元が跳ね上がるとは。
とろりとしたチーズは肉との相性もいい。かつ、ソースを邪魔することはない。むしろその良さを引き出しつつ、自分は陰の主役として料理を成り立たせるのだ。
チーズを使うと乳臭さが出る場合もあるが、流石というべきか臭みはない。ここは職人の腕がいいからだろう。肉の表面からチーズが溢れているということもなく、実に見事な出来栄えだ。
ソースにはマッシュルームなども一緒に入っているが、これが少々の贅沢感を与えてくれる。コリコリとしていて、噛むとじゅわっと風味が放たれる。肉とはまた違う、力強いものだ。決して他の具材に負けていない。
マスターは眼前のディシディアを見て懐かしげに目を細め、左手薬指にはめられた指輪を撫でる。
「いい食べっぷりですね。妻を思い出しますよ」
「……奥方に、何かプレゼントをしたことは?」
「もちろん、ありますとも。彼女はロマンチストでしてね。花束の中にメッセージカードを入れると、毎回泣きながら受け取ってくれたんです。ふふ、最初に渡した時は戸惑いましたよ。失敗したのではないか、とね」
「メッセージカード……そうか、そういう手もあるか」
「そうです。考えるだけ、色んな可能性があります。迷ったら、組み合わせてみるのもいいでしょう。正解はないのです……まぁ、これは妻からの受け売りですがね」
マスターは洒落たように肩を竦めながら手元の指輪に視線を戻し、
「……彼女はもういませんが、後悔はありませんよ。私の思いは全部伝えたつもりです。ただ、難点は生きていると彼女に話したいことがたくさんできてしまう、ということですね。いつかあの世に行ったら、たくさんの思い出話をしてあげるつもりですよ」
「……愛しているんだね、奥方のことを」
「えぇ、それはもちろん。彼女は私の全てでしたから」
ハッキリと言ってみせるマスターは誇らしげで、自信に満ちていて――けれどちょっぴり照れ臭そうだった。