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第百三十一話目~本場の味? マトンカレーとほうれんそうとチキンカレー!~

 待ちに待った休日、ディシディアと良二はある場所へと赴いていた。二人は眼前の建物をジィッと眺めながら、ひくひくと鼻を動かす。換気扇からは絶えず鼻の奥をヒリヒリと突き刺すようなスパイシーな香りが漂っている。それは嗅ぎ続けるだけで食欲をわき起こすようなものだ。


「ここが、例のカレー屋さんかい?」


「はい。本格的でしょう?」


 言われて、ディシディアは店の看板を見つめる。そこにはデカデカと『本場インドの味!』と書かれている。実際、店先に置かれているオブジェなどもそれらしきものばかりだ。


「とりあえず、入ってみるとするか」


 出入り口付近に置かれている奇妙な象の置物を一瞥してから、スパイスの香りが充満する店内へと足を踏み入れる。中にはすでに数名の客たちがおり、メニューを眺めているところだった。


「いらっしゃいマセ。お好きな席にどうゾ」


 独特なイントネーションの日本語が厨房の方から聞こえてくる。二人がそちらに視線を向けると、厨房で鍋に向き合っていた男性がこちらに向かってひらひらと手を振ってきた。

 褐色の肌を持つ三十代ほどの男性は柔和な笑みを湛えている。彼の他に従業員は二名ほど。おそらく同じ出身国であるのか、似たような顔立ちをしていた。

 二人は彼らに軽く会釈をした後で一番奥の席に腰掛ける。店内ではインドの民族音楽と思わしきものが流れており、雰囲気づくりに一役買っていた。

 ぐるりと視線を巡らせればインド風の装飾が施された布やオブジェなどが飾られている。中々に凝った店内だ。比較的新しくできた店なせいか、店内はピカピカで埃一つ見当たらない。


「コンニチハ。メニューはお決まりデスカ?」


 こちらにやってきた男性が優しく問いかけてくる。そこでようやくディシディアたちはメニューに目を走らせた。

 この店はランチもやっているらしい。けれど、カレーの種類がそれなりに多く悩んでしまう。それに、ドリンクなども見たことがないものばかりでディシディアは渋面を作るばかりだ。

 仕方なしに、良二は店員の顔を見上げる。


「すいません。オススメとかありませんか?」


「オススメ? あぁ、ならこれとこれがオススメデスヨ」


 男性が指差してきたのは……『マトンカレー』と『ほうれんそうとチキンのカレー』だった。写真を見てみればどちらともかなり美味しそうに見える。


「せっかくだ。オススメを食べようじゃないか」


 ディシディアも気に入ってくれたようだ。良二は店員にその二つを指さしてみせ、次にドリンクの欄を手で示す。


「俺はチャイで。ディシディアさんはどうします?」


「私は……このラッシーとやらに興味があるな。どのような料理だい?」


「簡単に言うと、飲むヨーグルトデスヨ」


 店員が咄嗟に答えてくれる。良二は待たせてしまったか、と一瞬表情を陰らせたが、彼は嫌な顔一つしていない。むしろ、真剣に悩んでいる二人を見て微笑ましげな笑みを浮かべていた。


「じゃあ、この二つでいいデスカ?」


「はい。お願いします」


「かしこまりマシタ。少々お待ちくだサイ」


 彼はぺこりと一礼して去っていき、厨房の男性たちにオーダーを伝える。彼の後姿を見送ってから、ディシディアはテーブルに置かれている紙を見つめた。そこには使われているであろうスパイスの詳細が書かれている。

 およそ十数種類のスパイスにはそれぞれの役割があるらしい。疲労回復、代謝促進、解毒作用があるものまでさまざまだ。その全てに驚いたような顔をしつつ、ディシディアは唇に指を当てる。


「ほぉ……面白いね。こんなにたくさんの効能があるのか」


「カレーは体にいいらしいですからね。特に朝食べるといいらしいですよ」


「君は物知りだね。私も見習わなくては」


「いや……ディシディアさんの方が物知りでしょう」


 がっくりと肩を落としながら呟く良二。正直なところ、自分は彼女より長くこちらの世界で生きてきたから物事を知っているだけなのだ。

 けれど、ディシディアはこちらの知識には疎くとも多くのことを知っている。それは数百年を生きてきたからこそ得られる経験に基づくものだ。

 おそらく彼女が本気を出せばこの世界のことをあっという間に覚えてしまうだろう。事実、最初は理解できていなかった掃除機や洗濯機などの仕組みも今では完全に理解し使いこなしているのだから。

 彼女は子どものように無邪気に笑いながら、フルフルと首を振った。


「いいや、私などまだまださ。この世界のことを知るとなったら……あとどれくらいの時間がかかるだろうね?」


「その時に俺が生きてるのかが問題ですね。たぶん、もう死んでるんじゃないですか?」


 と、冗談まじりに言ってみせた――が、ディシディアの反応は思ったものと違っていた。

 彼女はわずかに表情を陰らせ「……そうだね」とだけ呟いて視線を逸らしてしまった。それを見て、良二はハッと口をつぐむも、すでに遅い。

 ディシディアは死別を恐れている。それは長寿である彼女ならではの悩みだ。知っていたのに軽々しく地雷を踏み抜いてしまったことを後悔しながら、良二は頭を抱える。


(……しまった。馬鹿か、俺は)


 額に手を当てて顔をしかめながら心の中で毒づく。せっかく楽しい休日が過ごせそうだと思ったのに、台無しにしてしまった。

 胸中では後悔と自責の念がぐるぐると渦巻く。いっそ叫びたいほどの衝動が体の奥底からこみあげてくる中、ふと二人の方に誰かが歩み寄ってきた。


「おまたせしまシタ。サラダと飲み物デス」


 店員は慣れた手つきで配膳してくれる。金属の皿に入れられたサラダを見て、ディシディアはキョトンと首を傾げた。


「オレンジ色のドレッシングか……珍しいね」


「なんでも、ニンジンベースのドレッシングらしいですよ」


 顔を合わせることなく良二が答えるが、そんな彼を見てディシディアはムッと頬を膨らませた。


「リョージ。こっちを見なさい」


 有無を言わさぬ強い口調だった。良二はおそるおそる顔を上げ、彼女の方を見やる。

 どれほど恐ろしい形相をしていることだろう……内心びくびくとしていたが、彼の予想は大きく裏切られる。

 ディシディアは確かに頬を膨らませて苛立ちを露わにしていた。けれど、その目には慈しみが見てとれる。少なくとも、良二が想像したような憤怒の形相ではない。


「リョージ。そんな顔をするな。美味しいものも美味しくなくなってしまう」


「……すいません。あの、さっき俺、ディシディアさんのことも考えないであんなこと言ってしまって……」


「気にするな。ただ、一つだけ言わせてくれ。君が死んだら悲しむものがいることを忘れるな。だから、軽々しくあんなことを言ってはいけないよ」


「……すいません。以後、気をつけます」


「よし。じゃあ、この件はここまでだ。ほら、早く食べよう」


 ディシディアは席から身を乗り出して良二の頬に手を当て、むにむにもにゅもにゅといじくってくる。その感覚がくすぐったくて、恥ずかしくて、けれど嬉しくて良二は次第に顔を綻ばせていく。


「ふふふ、そうだ。君は笑っている方が可愛らしい。暗い顔は似合わないよ」


「それはディシディアさんだって同じですよ。ですから、お互い笑ってましょう。ディシディアさんが笑っていると、俺も笑いますから」


「そうだね。楽しさは連鎖するものだ。さて、では……いただきます」


 ディシディアは先に腰掛けてフォークを取り、サラダを口に運ぶ。ニンジンドレッシングがかけられたキャベツのサラダはまろやかで、コクが深い。シャキシャキとした食感も実に魅力的だ。


「はい。お待たせしまシタ~」


 二人がサラダに舌鼓を打っていると、店員が小皿に入れられたカレーを二皿とディシディアの腕と同じくらいの長さを誇るナンを持ってきた。籠からはみ出しているそれを見て、ディシディアはギョッと身をのけぞらせる。


「お、大きいね。幅だって私の手より広いじゃないか」


 アツアツのナンに手をかざして大きさを比べてみれば、やはり彼女の手よりも大きい。何とも食べごたえがありそうな品の登場に、ディシディアは期待に胸を弾ませながら手をわきわきとさせた。


「さてさて、これはどういう味なのかな?」


 良二がやっているのを真似、ナンを少し千切ってルーに浸してから食べる。

 昨日のスープカレーよりもルーはどろりとしており、数倍濃厚だ。スパイスの強烈さもあちらに負けていない。

 ちなみにディシディアが食べているのはマトンカレーだ。本来、成羊であるマトンはラムと比べて臭みとアクが強い。けれど、そこはスパイスによって緩和されており、肉の力強い旨みだけがダイレクトに伝わってきた。

 これをパリパリのナンに乗せて食べれば、思わず体がブルリと震える。アツアツのナンは千切る時に少しばかり難儀するが、食べるとこれ以上ないほどカレーに合う。

 スプーンを使ってマトンを大きめのナンに乗せ、大口を開けて頬張る。マトンを噛み締めると肉汁がじゅわっと溢れ、ルーとナンによく絡む。正直なところ、大きめだと思えたナンが心許なく思える。この小さな皿に入れられたルーを食べるにあたって、先になくなってしまうのではないかと心配してしまうほどだ。

 もちろんカレーらしく辛さはあるが、舌がビリビリと痺れるものではない。ピリリとした刺激を残していったかと思えば、数秒遅れてスパイスの風味を口の中で炸裂させるのだ。その感覚は一度味わえば病みつきになってしまうもので、もはやディシディアは何かに憑りつかれたかのようにナンとルーを貪っている。


「ディシディアさん。こっちも食べてみませんか?」


 と、良二が差し出してくるのは緑色のカレー……『ほうれんそうとチキンのカレー』だ。緑色はほうれんそうのペーストによって出しているらしい。これまた期待できそうな一品だ。


「おぉ。なら、私のカレーと交換だ」


 彼の皿を引き寄せ、代わりに自分の皿を押しやる。緑色のルーは奇抜だが、その香りは一級品。自然とナンを千切り、そこに浸していた。

 後は食べるだけ。スプーンを使ってナンの上にチキンを乗せ、ぱくりと口に入れる。


「む、中々味わいが違うな」


 もぐもぐと咀嚼しながら感想を漏らす。マトンカレーはマトンの力強さが主体だったが、こちらはほうれんそうのまろやかさがメインになっている。

 このまろやかさがあるからこそ、スパイスとチキンの味わいが際立つのだ。もちろんナンとの相性も最上のものであり、ついつい手が伸びそうになってしまう。

 が、ディシディアはグッと堪え、彼の方に皿をやった。それを見て、良二はまた不安げな顔をしてみせる。


「も、もしかしてお口に合いませんでしたか?」


「違うよ。ほら、カレーには体にいいスパイスが入っているだろう? 君には長生きしてもらいたいからね。ほら、たっぷりと食べなさい」


「……ありがとうございます、ディシディアさん。でも、おれもディシディアさんには長生きしてもらいたいので」


 言いつつ、ホウレンソウカレーの皿を押しやる。良二は確かな決意を秘めた目でディシディアを見据えており、その真摯さを彼女も感じ取ったのだろう。大きなため息をつきながら、皿を自分の方に引き寄せる。


「やれやれ……君は変なところで頑固だね」


「ディシディアさんもでしょ?」


「言うじゃないか」


 などと軽口を交わしながら、二人はカレーを堪能していく。どちらのカレーも甲乙つけがたい極上のものだ。


「おっと。そういえば、ドリンクを飲むのを忘れていたね」


「あ、そういえばそうでしたね」


 二人はようやく自分たちの脇に置かれているドリンクに気が付いたらしい。ディシディアのもの――ラッシーは牛乳のような白をしており、良二が頼んだチャイは淡いチョコレート色をしている。二人は互いに視線を交わらせた後、ストローに口をつけてゆっくりと啜った。

 途端、二人は幸せそうに口元を緩ませる。

 ラッシーはこれ以上ないほど甘く、けれど微かな酸っぱさを醸し出している。これをカレーと交互に食べればルーの辛さとラッシーの甘さが互いに相乗効果を生み出し食欲が無限に湧いてくるようである。

 チャイはラッシーとは違い甘さ控えめだ。けれどラッシー以上に濃厚で飲んでいるとホッとするような味である。


「飲みますか?」


「ありがとう。君も飲むだろう?」


 互いに身を乗り出し、相手のドリンクを飲む。どちらも違った味わいで、美味だ。


「……ふぅ。にしても、案外食べられるものだね」


 ストローから口を離したディシディアは自分のナンを見てそう漏らす。最初は食べられるか不安だったものの、今では残り数口ほどしか残っていない。

 なのに、ルーはまだまだ残っている。このままでは、ルーだけで食べることになってしまうが……そんな折、店員がスッと歩み寄ってきた。


「ランチはナンのおかわり無料デスヨ。いかがデスカ?」


「本当かい? なら、お願いしたいな」


「かしこまりまシタ。それにしても、お客さんたちずいぶん美味しそうに食べてくれるネ」


「もちろんさ。流石、本場の味と言うだけはあるね」


 と、素直な賛辞をディシディアは送る……が、店員は困り顔で頬を掻いていた。

 何か悪いことを言ってしまっただろうか、とディシディアが頭を悩ませていると、その男性はきょろきょろと辺りをいぶかしげに眺めた後でそっと二人の方に身を寄せてきた。


「これ、内緒で頼みたいんですけど……実は私たち、ネパール人なんデスヨネ」


 一瞬二人の時間が止まった。理解が追いつかず、脳がフリーズを起こしている。

 が、数秒後。その事実を聞いたディシディアたちは苦笑しながら身を離す。

 その後二人はおかわりのナンを食べることになるのだが……少しばかり疲れた顔をしていたのは言うまでもない。


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