第百二十八話目~あったかほんわか・おでん祭~
その日は特別寒い夜だった。しとしとパラパラと冷たい雨が降り注ぎ、肌を切り裂くような風が音を立てながら吹き荒ぶ。ディシディアは身を屈めながら大きな傘を差して駅へと向かっている。
先ほど、良二から雨で足止めを食らって帰ることができないという報告を受けたのだ。まだディシディアたちの家の方には雨雲は来ていなかったものの、それでも嫌な空気が漂っていたのだけはわかっていた。
幸い早めに出たおかげか、大雨に見舞われるということはない。ただし、その分風の勢いは並ではなく、ともすれば後ろにつんのめってしまいそうなほどだった。
「くぅ……この国の気候は読みづらいな……」
ディシディアは肩の辺りをびっしょりと濡らしながら苦しげに呟く。普段は季節の移ろいにすら心を動かす彼女だが、今はその余裕もないらしい。それなりに厚着をしてきたのに、雨で濡れてしまえばみるみる内に体力は奪われてしまう。
が、すでに駅は目の前まで見えている。ディシディアは小走りでそちらへ向かい、駅の構内に入るや否やポケットから取り出したハンカチで体を拭う。
体はしとどに濡れており、特に靴はぐしょぐしょで履いているソックスまで水が染みこんでいた。一歩踏み出すたびにぐちょぐちょと嫌な感覚を感じ、彼女はわずかに顔をしかめるも遠くに見覚えのある人影を見てパァッと顔を輝かせた。
「リョージ! すまない、待たせたね」
「いえ、俺の方こそ、忙しいのにすいません」
良二はディシディアほど濡れているわけではなかったが、この寒い中にずっといたのが悪かったのだろう。彼は自らの体を抱くようにしながら小さく震えていた。
「あれ? 傘は……俺のだけですか?」
「ん? あぁ。君の傘は大きいから、二人でも入れるだろうと思ってね。嫌だったかい?」
「まさか。そんなことはありませんよ……にしても、寒くないですか?」
良二は不安げに眉根を寄せながらディシディアの方を見やる。彼女は相当体力を消耗しているのか、疲れた顔をしている。何とか平静を保とうとしているようだったが、数か月以上同居している良二から見れば様子が違うことは見るに明らかだった。
彼は自分の着ていた上着を彼女に羽織らせつつ、ジィッと外の様子を見やる。雨の勢いは増してきており、本降りになっている。ざぁざぁと音を立てる雨は風流さの欠片もない。
流石にこの中を帰るのは酷だろう。天気予報を確認してみれば、一時間ほどもすれば雨足も落ち着くらしい。良二はしばし腕組みした後で、ポンッと手を合わせた。
「そうだ。ディシディアさん。美味しいお店があるんですけど、付き合いません?」
「いいよ。この雨の中を帰るのは大変そうだからね。雨宿りがてら、外食といこうか」
ディシディアはすぐに同意を返してくれる。良二はそんな彼女に内心感謝しながら今いる場所の反対――南口の方へと足を向けた。すでに仕事終わりと思わしき会社員や部活終わりの学生たちが帰路に着き始めているのが見てとれる。
彼らはいそいそと傘を開き、足早に去っていく。おそらく、完全に雨雲に捕まる前に帰ろうという魂胆なのだろう。正直なところ、良二もそれができればよかったのだが……ディシディアは相当体力を消耗している。走るのは厳しいところだろう。
良二もそこまでの余力は残っていないのが現状だ。それならば、ここらで一旦暖房の効いた店にでも入り、一息ついてから出た方が得策というものである。
「こっちですよ。すぐ着きますから」
二人が向かうのは駅から歩いて数分ほどのところにある小ぢんまりとした店。古びた様相を醸し出す木造の店は他の建物などと比べるとかなり異色だが仄かな明かりが窓から漏れ道を明るく照らしていた。
「はい、着きましたよ」
「おぉ、本当に早かったね。では、早く入ろう。寒くて凍えそうだ」
ディシディアは手に息を吐きかけてから扉に手をかけ、ゆっくりと中へ足を踏み入れてぐるりと中を見やる。
内装はいかにもな居酒屋だ。が、珠江たちの店よりも一回り小さいためか、座敷はなくテーブル席とカウンター席のみ。どちらも数席ずつで、少々窮屈なように思えたがむしろそれが味のある雰囲気を醸し出しているように思えた。
店は空いており、閑散としている。この雨だ。ほとんどの人たちが家に直帰するのだろう。居酒屋特有の喧騒は二人とも慣れたもので割と好きな方だったが、今日ばかりは静かに飲みたい気分だった。
「あら、いらっしゃい」
迎えてくれたのはパーマをかけた四十代中盤くらいの女性だった。少々顔にしわがあるが浮かべている笑顔は子どものように無邪気である。エプロンを身に纏った彼女はにこやかに微笑みながら、カウンター席を促した。
「どうぞ。寒かったでしょう? すぐ温かいおしぼりをお持ちしますね」
彼女はそういうや否や一旦厨房の方へと消え、言葉通り温かいおしぼりを持ってやってきてくれる。その間に席に着いていた良二たちはおしぼりを受け取りつつ、手元のメニューを眺める。
品数などは珠江の店には劣るものの、なにやら見慣れぬ文字が並んでいるのを見てディシディアは首を傾げた。
「おでん……とは、なんだい?」
そう。この店の売りはなんと言っても『おでん』。おでんに関してはかなりの品が揃えられている。その数はおよそ二十。相当の量だ。
しかし、一品物やご飯物などもキチンと揃えられている。これならば、仮にディシディアがおでんが苦手であっても満足がいく食事ができそうだ。
「すいません。とりあえず、飲み物を注文していいですか?」
「はい。どうぞ」
「ウーロン茶を二つお願いします」
「はい。お料理はいかがなさいますか?」
言われて、良二たちはおでんのメニューに目を走らせる。が、ディシディアは唇を尖らせポリポリと頬を掻いた。
「私はおでんのことをよく知らないからな……どれが美味しいのかわからないよ」
「じゃあ、適当に見つくろいましょうか?」
女性の言葉に、ディシディアと良二は同時に頷いた。二人ともこの店に来るのは初めてだ。自分たちで選ぶのもいいが、そう言ってもらえるならばやってもらうに越したことはない。
「少々お待ちくださいね。とりあえず注文はそれくらいですか?」
「はい。これで大丈夫ですよ」
「はい。では、まずお飲み物をお持ちしますね」
彼女はそそくさと厨房の方へと消えていったかと思うと、数分もしないうちにウーロン茶のグラスを抱えてやってきた。
「お待たせしました。おでんももうすぐ出せますからね」
優しく語りかけてくる彼女に軽く会釈した後で、二人はウーロン茶のグラスを構えた。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「あぁ。お疲れ様、だ」
カチン、とグラスをかちあわせグイッと煽る。ガンガンに暖房が効いた状態で冷たい烏龍茶を煽るのは快感だ。よほど喉が渇いていたのか、ディシディアなどはごくごくと喉を鳴らしながら飲んでいる。
「はい、お待たせいたしました」
そんな折、カウンターの向こうから木で作られた四角形の皿が寄越される。その上に乗っているのは大根、こんにゃく、つみれ、モチ巾着、焼き竹輪という比較的ポピュラーな物ばかり。
だが、良二は皿の中を覗き込んでキョトンと首を捻った。
「あれ? 卵はないんですか?」
そう問いかけてしまうのも無理はないだろう。大根、こんにゃくとくれば後は卵といったメジャーどころが来そうなものである。もしや今から入れようとしているのかと思ったが、店主はぺチンと額を叩き大きなため息を漏らす。
「ごめんなさいね。実は今日、卵はないんですよ」
「あぁ……そういうことですか。なら、仕方ありませんね」
ないものねだりをしても無駄である。それよりは今あるものを堪能する方が先決だ。
二人は割り箸をパチンッと割り、ほぼ同時に手を合わせる。
『いただきます』
良二はカウンターの上に置かれていた取り皿を自分の方に寄せ、ディシディアに向かって優しく問いかけた。
「これも半分こしますよね? なら、取り皿を使いましょう」
「そうだね。じゃあ、まずはこれを頂こうかな」
ディシディアがまず箸を伸ばしたのは大根だ。金色のつゆをたっぷりと吸った大根は変色しており、この段階でもすでに美味しそうに見える。
「いい香りだね……ダシがキチンと取られている証拠だ」
ひくひくと鼻を動かしながら感想を述べるディシディア。鰹節と昆布の心地よい風味が官能的な刺激を整えてくれる。それによって彼女の腹の虫が獰猛そうな唸りを上げた。
「では……」
ふーふーっと息を吹きかけよく冷ましてから大根にかじりつく。と、その瞬間じゅわっと芳醇なつゆが溢れてきて口の中を一瞬で満たした。
「~~~~~~っ!」
味のよく染みた大根は柔らかく、けれどキチンと噛みごたえはあって噛むたびに至福を届けてくれる。また、大根の微かな甘みがあるからこそおでんはより優しい味わいになっているのだ。
アツアツの大根は頬張ると口の中を火傷してしまいそうだが、冷え切っていた体にはちょうどいい。溢れたつゆがじんわりと体に染みわたっていき、内側からゆっくりと温めてくれる。
さらにこのつゆには一切の雑味がなく、出汁として用いられた鰹節と昆布の旨みだけがギュッと濃縮されている。それも押しつけがましいものではなく、素朴だが味わい深いものだった。
よほど気に入ったのか、ディシディアは頬に手を当ててとろんと目を潤ませていた。その様を見て、良二はクスッと笑う。
「気に入ったなら、こっちもどうぞ」
良二が差し出してきたのはこんにゃくだ。三角形にカットされているこんにゃくはかなり分厚く、厚さは数センチほどもある。切れ目が入れてあり味が染みやすくしているなど、工夫が凝らされていた。
「おぉ、こちらも楽しみだ」
こんにゃくを掴み、先ほどと同じく口に入れる。今度はぷるっとした食感が伝わってきた。その歯ごたえたるや、まるでこんにゃくが生きているのではないかと思うほどだ。もちろん、大根ほどではないがこちらも十分味が染みている。
先ほどの大根は少し歯を入れるとほろりと溶けていくようだったが、こちらのこんにゃくは歯を押し返してくるような力強い弾力を有していた。
正直なところ、おでんというのは簡単に見えて奥深い料理だ。ちゃんとした下ごしらえをしなければ途端に台無しになってしまう。このこんにゃくもかなりの分厚さを持っているというのに中までキチンと味が染みているのはそれだけの丁寧な仕事がなされている証明だろう。
もはやおでんを楽しむことしか頭になくなったディシディアは次から次へと料理を取り皿へと移す。一方の良二も、ディシディアが半分残してくれた大根やこんにゃくなどを頬張っていた。
「美味しいですね。寒い日には最適ですよ」
「あぁ。できれば、熱燗と一緒に呑みたいものだな……」
「……今度、家で作ってあげますよ」
流石に聞かれてはまずいと思ったのか良二はディシディアに身を寄せ静かに囁く。と、彼女は心底嬉しそうに笑いかけてきた。すでに疲れは取れているらしく、その顔は非常に晴れ晴れとしている。
「まぁ、まずはこれを食べましょうか」
「それもそうか」
とだけ言って、ディシディアはガツガツとおでんを食べ進める。一方の良二はウーロン茶で口の中をサッパリさせてからモチ巾着を頬張る。
トロットロになったモチはまだモチらしき弾力を有しており、それを包む油揚げには大根すら凌駕するほど大量のつゆが染みこんでいる。留めるために用いられているかんぴょうもコリコリとしていて、もっちりとしたモチ巾着の中でいいアクセントを醸し出していた。
「おぉ、これはふわっとしていて面白い食感だな」
ディシディアが口にしているのはいわしのつみれだ。魚臭さはなく、ふわっとした口当たりをしている。おそらく、これは自家製だろう。既製品では作れない美味さが感じられる。
焼き竹輪も秀逸だ。もっちりとした食感で、こちらも魚臭さは皆無。炙られているからこその香ばしさもプラスされており、同じく魚介系の具材であるつみれとはまた別のベクトルの美味さだ。
つみれがまろやかさを追求したものであるとすれば、焼き竹輪は味のインパクトを重視したものである。どちらも違った良さがあり、飽きることがない。
「はい、お次お待たせしました」
カウンターから寄越されたのは同じく四角形の皿に乗せられた棒付きつくね串と白滝。それと木製のお椀に入れられたトマトだ。当然ながら、椀の中にはたっぷりとつゆが入れられていた。
「トマトのおでんは特におすすめですよ。スープみたいに飲めるので、温まるのでぜひ」
「そうか。なら、まずは一口」
添えられていた木製スプーンを手に取り、そっとつゆを飲むディシディア。瞬間、彼女の目が驚愕に見開かれた。
「これは……コンソメを入れているのか?」
「そうですよ。つゆをベースにした後コンソメを入れて洋風おでんにしてみたんです。美味しいでしょう?」
「あぁ……最高だッ!」
正直、今まで出てきた中ではダントツの美味さだ。
トマトといえばおでんの中では邪道と取られがちだが、そんなことはディシディアにとってどうでもいいことである。彼女にとっては美味さだけが正義だ。
柔らかくなったトマトが丸ごと入れられているが、これは簡単にスプーンで崩すことができる。そうしているといつしか味が変わっていき、時間が経つごとに違った味わいが感じられるのだ。
「俺も呑んでいいですか?」
「あぁ。ほら、あ~ん」
「あ~……んっ!?」
トマトを口に入れた良二はディシディアと同じく目を見開く。予想以上に強烈な味わいだ。
トマトは糖度が低く、代わりに酸味が強いものを使っている。だが、これが案外おでんのつゆに合うのだ。和洋折衷――昔ならば考えられなかった組み合わせだが、このコンビネーションのよさは良二にとっても意外だった。
ディシディアはというと、良二が食べ進めている間につくね串と白滝を交互に口にする。
つくね串に用いられているのは鴨肉。少々癖があるが、鶏肉よりももっと力強い野趣のある旨みがあるのだ。下手をすれば臭みとエグみがでるがそこはキチンと押さえられていた。
また、白滝はクニュクニュシャクシャクとした独特の食感だ。良二にとってはもう慣れっこのものであるが、ディシディアにとっては違う。彼女は一心不乱に白滝の食感を味わっているようだった。
良二はチラ、と後方を見やった後、小さく目を伏せる。まだ外では乱暴な雨の音が聞こえてきていた。正直、まだ帰るには早い。それにディシディアもせっかくおでんを気に入ってくれたのだからせめてもう少しはここにいたいものである。
良二は一旦腕時計を見た後で、店主を見つめた。
「すいません。またいくつか見繕ってもらえますか?」
「はい。今日は寒いですものね。いっぱい食べて、温まっていってくださいな」
店主はそれだけ言って、また鍋に向き合う。ディシディアたちは新たなおでんの皿がやってくるまで、チビチビと温かいつゆを飲んでいた。