第百二十四話目~ある意味初見殺し? どじょう鍋!~
寿司弁当を食べてから小一時間後。ディシディアたちは大満足で演芸ホールを後にしていた。二人の頬は軽く赤らんでおり、興奮は冷めていないのかまだ息が荒い。
「面白かったですね、ディシディアさん」
「あぁ。見ごたえがあった。落語以外もすごい出来だったな」
今回行われていたのは落語や漫談以外にも大道芸や漫才など。その全てが、息を呑むほどのクオリティーだった。
芸の道は一朝一夕でなるものじゃない。長い年月と研鑽を重ねて初めて形になるものだ。その点で言えば、今日見た演目のほとんどは完璧に近い。
際立ったミスもなく、何より演者によるアレンジが加えられていた。途中途中でアドリブを加えるなど、臨機応変さを垣間見せる演者たちにディシディアは何度も感心してしまったものである。
「また来たいな。今度は夜の部も見てみたい」
夜の部も参加するとなると遅くなってしまうし、何より追加料金が発生してしまう。せっかく浅草という中々来れない場所に来たのだから、散策した方がいいだろうというのは二人の共通認識だった。
「その時は是非俺もお供しますよ。結構ハマりましたから」
そう告げる良二は売店で買ったばかりのタオルをバッグに入れているところだった。下手すると、ディシディアより楽しんでいたのかもしれない。思い返してみれば、演目を見ている時の彼は終始笑顔だった。
「さて、次はどうする?」
「そうですね……ちょっと食べに行きたいお店があるんですが、いいですか?」
「構わないよ。ここから近いのかい?」
「とても近いですよ。ここからすぐです」
言いつつ、良二はあらかじめ書いてきたらしき地図を眺めながら先を歩いていき、ディシディアも遅れまいとその横を並んで歩く。夜の浅草は賑わいを増してきており、学校帰りの学生たちの姿なども見て取れた。
浅草には食べ歩きをする場所が多数存在している。おそらく、彼らもその類だろう。手にはクレープなどを持っており、楽しげに談笑しながら歩いていた。
「微笑ましい光景だね。青春という感じだ」
「えぇ、そう思いますよ。若いっていいですね……」
「だから、君もまだまだ若いと言っているだろう。私なんかもうすぐ二百歳だよ?」
ぷくっと頬を膨らませてみせるディシディアだったが、本当に怒っているわけではなく彼との掛け合いを楽しんでいるようだった。
良二は彼女を適当にあしらいながら地図を頼りに進み――ある場所に来たところで、はたと足を止めた。つられてディシディアもピタッと止まり、彼が向いている方向に体を向ける。
するとそこには料亭風の佇まいの店が一つ。暖簾にはデカデカと『どぜう』の文字があるが、ディシディアはそれが何であるのかわからないらしくキョトンと首を傾げた。
「どぜうってのはどじょうのことですよ。どじょうは知ってますよね?」
その反応を返されるのは予想通りだったのだろう。良二は優しげな笑みをもって問いかける。と、ディシディアは曖昧な首肯を返した。
「あぁ。ただ……実物を見たことがないので、何ともな」
「一応、画像はこんな感じです」
良二はスマホの画面をサッと彼女に向けてみせた。そこにはややグロテスクな風貌をした魚の画像が映し出されている。それを見たディシディアは小さく唸り、
「むぅ……食べられるのかい? 見たところ、小さいようだが」
スマホの画面に映し出されているから小さく見えているわけではない。比較対象として一緒に映されている煙草よりも小さく、細いのだ。正直、これが食べられるとは到底思えない。
けれど、良二はなぜか自信満々に胸を反らした。
「安心してください。ちゃんと美味しいらしいですから」
「……なら、いいのだが」
ディシディアはまだ疑わしげな視線を送ってきているが、良二は構わずに店の暖簾をくぐり、中へと足を踏み入れた。
『いらっしゃいませ』
直後、店内から聞こえてくる静かだがよく響く声。見れば、中居さんたちがズラリと並び、頭を下げてきているところだった。
外観にそぐわず、中は純日本風で落ち着いた雰囲気だ。一応リサーチはしてきたが、予想以上に高級そうな雰囲気を漂わせる店内に、良二は怯んでしまう。予備知識がないディシディアなどはそれ以上で、不安げな顔で良二の服の裾をずっと引っ張っていた。
けれど、そんな二人をよそに見習いと思わしき男性板前がやってくる。
「いらっしゃいませ。お座敷へどうぞ。靴は脱いでいただければ、片付けておきますから」
「は、はい!」
完全に声を上ずらせながら、良二がぎこちなく進む。ディシディアは平静を保とうとしているようだったが、頬が引くついている。
これまで二人が入ってきたのは大衆食堂や個人経営のこじんまりとした店が主だった。こんな高級そうな店は今まで入ったことがない。
二人は完全に緊張した面持ちで靴を脱ぎ、座敷の一番端の席へと向かう。そこには座布団があらかじめ敷かれており、すでに取り皿や箸なども用意されている。中央にはカセットコンロが置かれているが、それは鍋を食べる時などにもいるのだろう。
二人がそこに腰掛けると、中居さんがやってきてしずしずとメニューを開いて見せた。
「こちら、ご来店は初めてですか?」
二人がおのぼりさんであることは見るに明らかだったが、一応聞くのが礼儀だと思ったのだろう。彼女はなるべく穏やかな口調を心掛けてくれており、それにより二人の緊張が少しだけ和らいだ。
「は、はい。あの、実はどじょうを食べるのも初めてなんですが……」
「まぁ、そうなのですね。では、是非ウチの料理を食べていって好きになってくださいな」
「あ、ありがとうございます。それで、あの……オススメとかはありますか?」
良二はおずおずとメニューを指さしてみせる。すると、中居さんは柔和な笑みを寄越した。
「そうですねぇ……やはり一番はどじょう鍋だと思います。こちらどじょうを割り下で煮たものでございまして、ネギを食べていただくのがお勧めです。ご飯と食べても美味しいですよ」
「じゃあ、それとご飯を二つお願いします」
「かしこまりました。どうぞ、ごゆるりと」
礼儀正しく礼をしてから去っていく彼女の後姿を見て、ディシディアたちはほっと胸を撫で下ろした。
「き、緊張するな……」
「ですね。俺たち、本当に入ってよかったんでしょうか?」
周りにお客はいるが、どれもこれもブルジョワ層らしき身なりをしている。正直なところ、普段着の良二たちはひどく場違いに思えてしまった。
「うぅ……値段、間違えてないですよね?」
どじょう鍋の値段は千七百五十円。だが、この店の雰囲気からか、少々値段を見間違えているのではないかと思ってしまうのだ。
二人は何度もメニューを見返す。気のせいか、きりきりと胃が痛むようだった。
が、ディシディアは大きく息を吐いた後で、良二の頬を軽くつねった。彼は微かに走る頬の痛みに顔をしかめるが、ディシディアの慈母のごとき眼差しを見て表情を緩和させる。
彼女はふっと肩の力を抜き、
「まぁ、そう気張るな。せっかくの食事なんだ。楽しもうじゃないか」
「ですが……」
「気にするな。ほら、お店の人たちも別に私たちに言ってこないだろう? なら、このままでいいんだよ」
確かに、奇異の視線は向けられていない。どころか、先ほどの中居さんもとても親切にしてくれた。他の客たちもディシディアを見て笑っているどころか、目が合うと緊張している彼女たちの気持ちを察してか優しい笑みを返してくれた。
最初は少々堅苦しい場所かと思ったが、実際はそんなことはなくとてもフレンドリーで親しみやすい店のようだ。実際、緊張しているのはディシディアたちだけで、他の客たちは自然体で過ごしている。
良二はぐるりと店内を見渡した後で、ガシガシと髪を掻き毟った。
「……それもそうですね。ちょっとどうかしてました」
「私もだ。初めて来る場所だからか、少々気負ってしまっていたな。面目ない」
ディシディアはポリポリと頬を掻きつつ、ぺろりと舌を出してみせる。すでに元の調子に戻った彼女を見て、良二も大きく息を吐き出した。そうして、しばし深呼吸を繰り返してだらんと身体を弛緩させる。
ただし、まだまだ完全にリラックスすることはできていないのか、慣れない正座をしている。普段食べる時はあぐらしかかかないせいか、良二は時折もぞもぞと足を動かして位置を整えている。
「お待たせしました。鍋をお持ちしました」
と、そこで新たな声が生まれる。見れば、先ほどとは別の中居さんが鉄鍋を持ってきているところだった。そこには並々と注がれた割り下と、ずらりと並べられたどじょうの姿がある。
「わ、割と大きいんですね」
良二は鍋の中身を覗き込んで掠れた声を漏らした。鍋には画像で見たものよりもでっぷり太っていて大きいどじょうが十匹以上いたのだ。これにはさすがのディシディアも驚いたらしく、目を白黒させている。
しかし中居さんはおのぼりさん丸出しの二人に対して優しい笑みを寄越し、一緒に持ってきていた枡の中にこれでもかと入れられていた刻みねぎを指さした。
「ネギは入れてもよろしいですか?」
「あ、はい。お、お願いします」
またしても声が裏返ってしまい、良二は赤面する。中居さんはそんな彼に向かって、穏やかな声音で語りかけた。
「浅草に来るのは初めてですか?」
「あ、いえ、俺は何回かあるんですけど……」
「私は、初めてだ」
「まぁ、外国の方。わざわざ遠いところまで、ありがとうございます」
中居の女性は人を安心させる柔和な笑みを浮かべる。この仕事に就いて長いのだろう。良二たちのような観光客の相手をする機会も少なくないようである。
「どじょうを食べるのも初めてですよね? 案外癖がなくておいしいんですよ」
「そうなんですか?」
「えぇ。特別に、私が美味しい食べ方をお教えしますから」
女性はぱちりと目配せをするなり、テーブルの上にある薬味を指さした。置いてあるのは木筒に入れられた山椒と七味。彼女はそれらを指さし、告げる。
「まずはそのままどじょうを食べてみてください。次にネギと絡めて、その次に薬味などを乗せて。ご飯を頼んでいるようでしたら、一緒に食べると箸が進みますよ」
「ほぉ……意外と奥が深いのだな」
「えぇ。それと、こちらのどじょうはすでに調理済みですので、鍋が沸いたらすぐに食べることができますよ」
言いつつ、女性はカセットコンロの火をかける。ふつふつと煮立つ鍋からは割り下のいい匂いが漂ってきた。それは二人の緊張をほぐすとともに、食欲を引き出してくれる。
ネギが徐々にしんなりしていき、割り下を吸っていく。これを食べればどうなるかは、想像に難くない。きっと、どじょうのエキスと割り下の旨みが口の中で弾けるはずだ。
「では、私はご飯を取ってきますね。しばし、お待ちくださいませ」
中居さんは丁寧な礼を残して去っていき、しかし数分もしないうちにご飯を持ってやってくる。お椀に盛られたご飯は艶々と輝いており、食べる前からいいものを使っていることが伺えた。粒もピンと立っており、芳しい芳香がふわりと立ち上る。
「それでは、お楽しみください。コンロの火は調整しながら、追加の割り下を入れるのがコツですよ。甘い味付けならこちら、それともこのままの味を楽しみたいならこちらをどうぞ」
中居さんはどこからか二つの土瓶を取り出してみせる。どうやら、それが追加の割り下であるようだ。きっと、食べているうちにネギの水分によって味が薄まってしまうのだろう。こういった気配りも流石だ。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。それと、一番大事なことを言うのを忘れていました」
中居さんはピッと人差し指を立て、小さく頭を下げる。
「そこまでかしこまらないで大丈夫ですよ。食事は楽しんでこそ、ですから」
言われて、良二たちはドキリとしてしまう。当の中居さんは深々と礼をした後でそそくさと厨房の方へと帰ってしまう。
良二たちはしばし鍋の上で視線を交叉させた後で、互いに乾いた笑いを漏らした。
「どうやら、見透かされていたようだね」
「えぇ。けど、いいことを聞きましたよ」
言いながら足を崩す良二。彼は箸をサッと手に取り、臨戦態勢を取った。すでに鍋は十分煮えており、ネギも割り下によって茶色く変色しつつある。今が食べごろだろう。
「じゃあ……いただきます」
「いただきます」
二人はほぼ同時に呟き、鍋に箸を伸ばす。良二はまずネギをたっぷり取り、どじょうは一匹だけ取り皿に移した。一方のディシディアはまずはどじょうを一匹だけ取り、ご飯の椀を引き寄せる。
「さて、どのような味なのだろうか……?」
ディシディアは眼下のどじょうを見下ろした。完全に姿見であり、骨なども取られていない。小さいからそこまでグロテスクに思えないのが救いだ。
ディシディアはそろそろとどじょうを持ち上げ、えいっと口に入れた。
「ッ!?」
直後、口内を襲った未知の食感にディシディアは目を剥く。
とぅるんっとした舌触りで、けれど噛めば肝のホロ苦さと身の甘さを感じられる。割り下をこれでもかと吸ったどじょうは中居の女性が言っていた通り野暮ったさも泥臭さも皆無。
本来どじょうはそれ単体では癖があるものだが、これはネギや割り下などによってそれが緩和され、野趣として昇華されている。
小骨や頭もついているが、驚くほどに柔らかい。よく煮込まれているからかはたまた元からなのか、簡単に噛み砕くことができるのだ。それによってどじょうの内に秘められた力強い旨みが炸裂し、口内を席巻する。
最初は不安だったが、食べてみるとその良さが全身で感じられた。
「美味しい……美味しいな、リョージ!」
ディシディアは興奮気味に声を上げる。良二は口いっぱいにネギを頬張っているから応えることはできないが、うんうんと千切れんばかりに首を縦に振っている。
ディシディアは口の端についていた割り下をぺろりと舌で舐めとってから、再び鍋へと箸を伸ばしてネギと一緒にどじょうを取る。そうして一旦ご飯の上でワンクッション置いてから、一息に頬張った。
すると、今度はネギのシャキシャキとした食感がプラスされ、それによってどじょうの身の柔らかさが際立つ。二つの食材が生み出す相乗効果は絶大だ。
ネギによってどじょうをあっさりと食べることができ、そのどじょうのエキスをたっぷり吸ったネギは噛むごとに旨みの爆弾を放つ。
もはや、ディシディアたちは先ほどの緊張など忘れているようだった。我先にとどじょうを皿に取って食べ進めていく。
七味をかけるとピリッとした辛味とが、山椒を入れるとキリリとした清涼感がプラスされる。単体で食べるよりも味が奥深くなり、ますます箸が進んでしまう。
割り下も秀逸だ。どじょうの出汁が出ているのか、これだけでも美味い。ともすれば、割り下だけでご飯三杯はイケそうなほどだ。
どじょうは最低限の下処理しかしていないが、それが逆にいい。肝や頭、小骨などが残されていることでどじょうの旨みを余すことなく味わうことができるのだ。
ご飯との相性は言わずもがな。どじょうを一匹とネギを少々乗せるだけであっという間に椀の中が空になってしまった。
もちろん、どじょうの数は限られている。できることなら、大事に味わって食べたいという気持ちもある――が、真に美味い料理と出会った時、誰しも理性というタガが外れてしまう。
一匹、また一匹とどじょうは二人の腹の中に消えていき、いつしか鍋の中にはほんのわずかな割り下しか残されていなかった。かろうじて崩れてしまったどじょうの身が浮いている程度で、少なくともこれで満足できるようなものではない。
「リョージ……少々、提案があるのだが」
「奇遇ですね。俺もですよ」
二人は顔を見合わせ、そろそろと手を上げた。すると、先ほど二人にオススメの食べ方を教えてくれた中居さんがやってきて、嬉しそうに手を合わせる。
「気に入っていただけたようで何よりです。では、また同じものをお運びしてもよろしいでしょうか?」
彼女はディシディアたちを見渡してそう呟く。目は口ほどにものを言うとよく言われるが、良二たちは非常に物欲しそうな目をしていた。
中居さんはすっかりどじょうの魅力に憑りつかれたらしき二人に軽く会釈を返し、その場を後にする。一方、残された二人は鍋の中にあるわずかな身を取り皿によそっていた。